2008年4月13日 (日)

あなたがいた森

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Dscf5917_2 今日は 半年ぶりに彼の元へ行く

山を愛する彼がずっと山にいるようになってもう数年…
今は年に何度か私が会いにいく
街にいた頃は、いつも私のところに迎えに来てくれたけど、今は、それができない。

道が舗装されているとはいえ、こんな山の中にずっといるんだ。
街は、すっかり春めいて冬の名残もなかなか見つけることはできないけれど、ここではまだ雪の塊が大地に名残惜しそうに点々としがみついている。

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仲間がたくさんいるとはいえ、冬は雪に閉ざされるここにいて寂しくはならないのだろうか? でも人の波の中にいても寂しさを感じる街よりは恵まれているのかもしれない…。
街は山よりも乾いている。

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彼は同じ大学の時から山岳部に入って北海道内や道外の山に登っていた。
卒業後の進路も登山ができるかで場所も決めたようだ。
それが私の故郷でもあった。

Dscf5987 「ねぇー? 私と山と どっちが好き?」

こんなことを聞いたことがあったよ。

「どっちも好きだよ とても魅力的で それに僕をやさしくしてくれる 」

なんとなくそんな答えだと思った。
山と同じ… 喜んでいいのかな…いいよね

そうだ 彼のところへ行く前にちょっと大好きな場所に寄ってこよう。

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Dscf5893_2 ふたりで来たことのあるキャンプ場のある公園地 ここに滝がある。
本当は何十年も前に作られた電力用の小さなダムだったらしいけど大雨で底を抉られて陥没。 一夜でこんな景観を作り上げたのだそうだ。
人工と自然が作り出した奇妙な景観。
小さいといっても展望台から下を見ていると吸い込まれそうになる…

Dscf5899 しばらく水が流れ落ちていく様に見入っていると、つい…

「…」 「えっ?!」

誰かに呼ばれた 振り返ると誰もいない。
気のせい…だよね? 彼に呼ばれた気がしたけど、ここに寄ってることなんか知らないはず。 それに今日来ることは言っていないから…

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ここの上流を少し行くと公園を備えた水源地ダムがある。
それまで、この川は、大雨の時にすごく荒れ狂う川だったそうだ。
下流に位置する街ではそんなこと考えられないほどの清流なのに…
更に上にいったところに登山のベースキャンプに使われるヒュッテ(避難小屋)があり、何度か登山のときにそこまで送ったことがあった。

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Dscf5949 今はまだ登山シーズンに早いので途中のゲートは閉まっている。
大抵、ここに来るときは仲間と2・3の山を縦走することが多く日程も予備日数を入れると1週間ほどにもなる。
さすがに大きな日程では仕事を何度も休めないので年に1・2回。
それ以外は、日帰り日程のスケジュールがほとんど。

一度、一緒に登ったことがあって初心者用とは聞いていたけれど登り途中で体力の限界で彼に連れられて下山した挙句、翌日から3日間下半身の筋肉痛で仕事を休んだ。それからは誘われても迷惑になりそうで行かなかった。

「最初は誰でもそうだよ 小さい山から少しずつ ゆっくりこなして あの高みを目指すんだ」

うん わかってるんだけどね… それでも頂上の景色は素晴らしいんだろうな…
彼が登る山は写真でしか見たことが無いけど、もっとすごいんだろう。
まるで恐竜の背中のような尾根を伝って歩くのは、怖くてとても真似できないよ。

そうだ そろそろ行かないと…

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Dscf5965 彼のいるところは周りを木立に囲まれた森の中
その木立の上に彼の好きだった山々がそびえ立つ
大自然に抱かれ、ここに彼はいる。

「また 来たよ…」

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Dscf5996 ここに眠る彼は 答えることも 抱きしめてくれることもない…

「じゃぁ行ってくるよ」

大きな赤いザックを背負った彼が心の中で笑ってた

「また 迎えにいくよ」

いつか 私が心から彼に迎えられる日まで 私が通い続ける…

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Dscf5906日高山脈は中生代ジュラ紀より、新世代三期にかけて生成された褶曲(しゅうきょく)山脈でスイスアルプス、ヒマラヤ、ロッキーの造山期と同じころ、その骨格が組み立てられたといわれており、幌尻岳(2,052m)を最高峰として札内岳(1,896m)、十勝幌尻岳(1,846m)、ペテガリ岳(1,736m)楽古岳(1,472m)など1,500-2,000m級の山脈を連ね、その稜線は鋭く切れ込んだナイフブリッジで現在も風化侵蝕が進み山容はいずれも峻険で深い峻谷を刻んでいる。

日高山脈国立公園は、北海道を東西に二分する全国一の規模を持つ山岳公園である。
植生はヒダカソウ・アポイツメクサなど固有種・希少種の高山植物が存在している。

利用状況としては山脈が極めて急峻であるため登山などの自然探勝に限定されてきた。アプローチは相当に長く、アポイ岳を除いては経験者向きの山が多い。
現在であっても7月から8月にかけて入山するパーティーは100を越すことからも、ここがアルピニストを魅了する山脈群に他ならない。

しかし、札内岳(1,895.5m)を源とする北海道有数の急流河川、札内川のもつ特性(急流・出水量の変化の著しさ)から上流地域では、滑落・水死などの犠牲者が後を絶たない。さらに雪崩・熊害などの事故で平成20年現在、59名の痛ましい犠牲者が出ている。

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Dscf6006 平成元年 札内川ダムの着工に伴い、いくつかの犠牲者追悼碑が影響をうけることから工事関係者・地元団体で協議し、遺族の了解の元この地に「札内川上流地域殉難者慰霊碑」が建立された。

十勝地方特有の温和な気候を作り出す日高山脈は「魔の山」であり「神の山」でもある。
その本当の姿を知るのは、そこに挑んだ人たちだけなのだろう。

  YOU TUBE 「あなたがいた森」 樹海

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2007年9月30日 (日)

カムイ・ピラ石仏群

アフガニスタンの首都カブールから230㎞北西に位置するバーミヤン渓谷。
ユネスコ世界遺産にも制定されたここには東西に巨大な大仏が渓谷壁面に掘られ、その数1000以上に上る石窟があることでも有名です。

 2001年ターリバーン勢力の侵攻により2対の大仏は爆破され、その様子を世界に発信したターリバーン勢力は、世界的に非難を浴びました。
(詳細→『バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群』)

 今回の物件は、バーミヤンとはスケールが比べ物になりませんが、偶然の作り出した光景をご覧いただきます。

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Dscf0602_2  峠や最寄のJR駅のある本町方面をこの地域に向かい、高台の上から目に入る対岸の高台。そこに何やら崖崩れのような跡があります。
 ここは通称『ガンゲ』と呼ばれ、この地域で生まれ育った人々は、これを見て始めて故郷に帰ってきた事を実感します。

Dscf0604  しかし、この高台が人のいなかった遥か昔に一帯を襲った超巨大火砕流の痕跡であることを知る人は、さほど多くは無いようです。
 火砕流の跡ということで、土砂の大半が火山灰で形成されているようです。こういった場所は、ここだけではありませんが、地域史等にも載るように地域に認識されている現場は、知る限りここだけのようです。
 ここへ近づいたことは、今までありませんでしたが今回、寄れるだけ寄ってみることにしました。

Dscf0636  この一帯は、かつて町の穀倉地帯とまで言われるほどの水耕地が広がるところでした。
今では、当時を記す記念碑や灌漑溝跡がわずかに残る程度で、昔は水田が広がっていたことを知る人は地元でも決して多くはないでしょう。水田が消えていったのは、栽培成績ではなく、1970年代当時に米余りの対策で国の出した減反政策に寄るものでしたから…

 開拓期、イモやカボチャや蕗ばかり食べていた当時の人々の悲願は、米の飯でしたので水田の試作には積極的でした。一部地域は火山灰土壌のために引いた水がすぐに地中に浸透してしまい不可でしたが、地域の両側をこの『ガンゲ』を伴う高台に挟まれた小さな盆地とも言えるところで、試作初期は、技術不足・品種の不適合・水温の問題で試行錯誤を繰り返しました。
 悲願と努力の末、勝ち取った収穫でしたが当時の喜びを記すのは、現在記念碑のみです。

 幹線を右往左往して何とか『ガンゲ』手前の十勝川河川敷へ出ました。

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『おおぉっ!』 現場について思ったのは、まるで巨大石仏のように見えたことでした。
それも1体や2対ではなく、無数の像が整列しているかのように見えます。
 これは、河川の侵食と風と雨が作り出した彫刻です。現場にいると壮大ですね。

Dscf0607 樹木の生育により若干、見え辛くなったり見えなくなったりしている部分も広がりましたが、以前は高台の広い面積にこのような跡が見えていたようです。
 砂利や土のように火山灰も商品価値が出たため、この造形が失われた地域もありますが、ここはまだまだ健在でいてくれるでしょう。

 地域の顔とも言える『ガンゲ』ですが観光景観として紹介されるでもなく、土地の見張り役として、ただ静かにかつての水耕地帯を見下ろしているのでした…

※『カムイ・ピラ(神の崖)』の名は、ねこんの創作であり、実際には『ガンゲ』の名で地元に知られています。

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2007年7月11日 (水)

果てしない大空

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 『ルイドロ』に出すには、ちょいと誤解が生じるかもしれません。
時折、足寄を通りますが一度も行ったことがなかったのでつい…

 あちこちに「千春の家はこちら」と言う趣旨の看板があるので辿って行き着きました。
以前、日曜のお昼近くに放送のラジオ番組「季節の旅人」というのが流れていて、特にファンではありませんが聞けるときは聞いていました。

 根強いファンを差し置いて、松山千春氏の人間像を語るのは、おこがましいところですが人間的に器は大きい人だと思います。自分がねこ茶碗程度の器しか持たないから大きい器に憧れるのかな~。
 新しい歌はよく分かりませんが、ねこんの学生時は大人気で回りのみんなが聞いていた程なので、頭の中に歌が染み付いています。

 今は全国的に幅広い世代に支持されて大御所となりましたが、ラジオで聞く語りはそれを感じさせない、歯に衣着せぬ人なので、そこがまた人気の理由なのでしょう。
 ねこんは、けっこうラジオを聴くタイプなので、早く帰ってきていただきたいところです。野球と競馬の話は分かりませんけどね。

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「生きるのが辛いとか 苦しいだとか言う前に 力の限り生きてやれ」

うーんそれを考えるとまた、辛いかな…?

明日は本筋に戻ります

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2007年5月15日 (火)

たしかにそうだ!

Dscf4330 『北の国から』で有名な富良野市六郷。
近くにあるアンパンマンショップにて。

ここの経営者がジャムの工房を経営しており『ジャムおばさん』と呼ばれている縁からご当地にて『アンパンマンショップ』が開店されています。

 休日にはアンパンマンと撮影会なども催され、ジャムもたくさんの種類のものが試食できます。

 そこにある碑文。
今まで見てきたものの中では一番共感できる文句(アンパンマンの歌の一部抜粋)です。
 みんなアンパンマンに気をとられて顧みられていないようですがこれは、世代共通の真理だな…と思います。 貴方は何のために生まれて、何に生きる価値を見出していますか? ねこんは取りあえず見つけられたと思います。

 ところで、これが初の十勝外の物件になります。これだけではいくらなんでもですね。
下は同じくご当地で見つけた物件。アンパンマンショップとは直接的な関連はないようです。

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 周囲は、ほとんど駐車場と化していて返り見られることもないようですが板壁もいい風合いに変化しています。アンパンマンと関連付けは難かしいがジャムおばさんにとって思い出深いお家なのでしょう。

でもちょっと物置に使われているのが寂しいな。

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2007年5月10日 (木)

戦争の断片

Dscf3733 幹線道を奥に入ったところにこの碑があります。ほとんど土地の人しか分からないような場所ですが、農家が数件ある畑作地の中、それも畑の中央付近に島のように取り残されたところです。

 この場所に至る道は、あたかも島を結ぶ桟橋のように渡されて、土地の人たちに見守られています。

 この碑、一見墓標にも見えますが、そのいわれは…

『北部軍飛行第三戦隊所属の二名が昭和17年10月10日午後1時頃、搭乗の九七式司令部偵察機で飛行中遭難。同地に墜落し、殉職。当時の地主によって2名供養のため墓碑を置き、トドマツが植林されました。しかし、その管理者の没後、墓標は朽ち、トドマツも枯れてしまいました。やがてその意思を継ぐ、息女によって昭和39年12月1日に新たな留魂碑が建立されました(併設の由来文要約)』

 戦争の跡は現代、数少なくなり、伝える者も年々少なくなってきました。我々戦争を知らない子ども達以降の世代にとって戦争を知る機会はどんどん失われていきます。
 戦争の傷跡そのものはほとんど目に付かないまでも戦争を伝えるものは、まだまだ残っています。それを守り伝えるのはやはり、戦争を知らない我々の世代です。
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2007年3月26日 (月)

荒っぽい追悼

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 となり町に史跡を散りばめた私設の自然散策公園があることを知り、行って見ました。
私設とはいえ、山林の中に設けられた山道の長さは凄いもので、全て回ると1日はかかるであろうと思われます。
 無料で公開されているとはいえ、散策路の途中が明らかに管理者の自宅の庭先を横切るように設計されているのは、歩いていてちょっと後ろめたい感じもします。
 この公園。その途中、途中に管内の歴史的な資料が展示(野ざらし)されています。そのいくつかは追々に紹介していくこととしまして、まずそのひとつです。

 『馬の碑』というのがありました。開拓に貢献した道産子馬のために建立された獣魂碑の類だと思いましたが趣は随分異なるようです。

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 『アオ』の壮絶な生涯ですが、利口というより『ア●』という気がしないでもありませんし、その後の近所の追悼も強引な感が拭えません。

 十勝開拓の初期、晩成社の依田勉三という人が詠んだ『開拓の始めは豚とひとつ鍋』という句があります。開拓初期は凶作続きで蓄えの食糧も底をつき、豚と同じものを食べてしのいだという意で、その開拓生活の厳しさを物語っています。(別解釈で『開拓地に渡るために全財産を投げ打って豚と鍋ひとつしか残っていなかった』というのもあります。)

 今ではほとんどが家畜の飼料の燕麦(オーツ麦。カラス麦ともいう)も当時は人の主食となることも多く、馬の分まで回ることはあまりありませんでした。(以外にもタンパク質、ミネラル分など栄養価は高い。でもオートミールはおいしくなかった…)
 そんな時代、馬にとっては贅沢なものをお腹が破裂するほど食べられた『アオ』はある意味、幸せだったのかもしれません。

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2007年3月20日 (火)

イーハトーブの化石

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 三寒四温なんて言葉がよく聞かれる今の時期。日中は気温のプラスになる日も珍しくない。(北海道の話ですよ。)道は氷がとけてすっかり舗装が露出して、路肩に積もった雪山もギザギザな形に溶けていく。雪解け水が排水溝に流れ込む音も久しくご無沙汰な『せせらぎ』のようで癒されるような気がします。

 昼休みの時間、小春日和の街中をぽてぽてと歩いて、街中の公園にいってみました。
今年は暖冬で雪が少なかったとは言え、園内にはまだ雪がたくさん残っていています。その雪もシャーベット状になっていて、露出した芝面を過剰に潤し、歩くのには少し厳しい。

Dscf2126  何やらカサカサと音がするほうを見ると『エゾリスだ!』四方を厚い建物群に囲まれたここにもエゾリスは生きているんだなーっと少し感動。昨年のクリスマス時期ころから園内樹木をライトアップして夜間の幻想的風景を現出させていたここも照明器具やらが無造作に散乱し、その影からエゾリスが数匹行ったりきたりしていた。こいつらもしばらく人と出会っていないのか平気で近くをチョロチョロしている。

 他には、まだ雪に埋もれているベンチ、水の代わりに雪で満たされた噴水、ゴミだらけの東屋、何やら大きな庭石みたいなもの… んっ?何か書いてある?

 読んでみると、宮沢賢治による文らしいです。緑色の大きな自然石に実にあっさりと彫られたこの文章。

Dscf2124   ああ ここは
    すっかりもとの通りだ
  木まで
    すっかりもとの通りだ
  木は 却って
    小さくなったようだ
  
みんなも遊んでいる
  ああ あの中に
    私や私の昔の友達が
  いないだらうか

よその公園林について書かれたものからの引用のようですが、この石の中で宮沢賢治の言葉が永久不変の化石となって、回りの木々や人の変化を静かにそして刻々と記憶している…そんな気がしました。

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