2011年7月11日 (月)

木を植えた男たち

『このままでは十勝の大地は丸裸になってしまう!』

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02  開拓ブームに乗ってどんどん開墾がすすむ大地を前にそんな想いに駆られた人が、この帯広の地にいたそうです。
 おりしも時代は木を植えるよりも木を切り倒さねばならない時代で原始林の樹木は土地を開くために切り倒され、材木やその副産物は暮らしに使われ、役に立たない根は集めて昼夜燃やされて空が真っ黒な煙に包まれていたころもあったと開拓の書には記されている。
 そこに植林を提唱することは狂言としか思われかねない…そんな時代であったことでしょう。ただ、未来を見据えた気持ちは、狂言などではなく的を得た事実には違いなかった。
実際に事が起こってから対処に乗り出すことは現在の世にもたくさんあるものです。

 ともかく時代には、少しばかり早すぎた思想と、時を越えて現在は公園となった場所で空高く伸び上がる大木にはちょっとしたお話がありました…

05  明治31年9月1日、十勝支庁長の移動で新しく赴任してきたのが、諏訪鹿三だった。
新任の諏訪支庁長は着任早々まず管内を一巡、現地視察をした。これはどの支庁長もやることで、ことさら目新しいことではなかったが、彼の目に映ったのは急テンポに進む開拓事業とともに緑豊かな原始林が片っ端から切り倒され、焼き捨てられていく有様だった。
 しかも人々は土地を拓くことばかりに没頭していて誰一人将来のための植林など考えている者はない風だった。

「今は立木がジャマになる時代だから切り倒すこともやむをえないが、このままではやがて十勝に一本の木も無くなってしまう。今のうちに植林のことも考えておかなくてはなるまい」

彼はこう思いついた。やがて年がかわって32年の春が来た。音更の然別で牧場をやっている渡辺勝(※)のところへ支庁長から1枚の葉書が配達された。
その葉書には

『○月○日 植林思想を昂揚するために管内の有名知識人に集まってもらい某所に苗木数本を植えたいと思うのでぜひ出席してもらいたい』

といった意味のことが書かれてあった。

 勝はその日、作男の上村吉蔵をともなって諏訪支庁長の私宅を訪れた。

 支庁長は勝が現れると大いに喜び、部屋に招じ入れ緑化運動の必要性をひとくさりもふたくさりも説き、わが計画の遠大さを風潮した。
 だがどうしたものか昼を過ぎても勝主従のほか、誰も集まってこないのだ。

『どうも先のことのわからぬ連中ばかりのようだ。案内を20通も出したのに…まあ良い!渡辺君が来てくれただけでも運動の成果はあったわけだ。では植林にかかろうか!上村君、そこの庭先のドロ柳の苗を3本ばかり持ってきてくれ』

06 支庁長は上村に苗を掘らせ、それと鍬を彼にもたせ勝とともに植樹地へやってきた。そして3本のドロ柳の苗を等間隔に植え、3人は空を仰いで自分たちの壮挙を自ら自慢し、自分をなぐさめた。
 やがて引き上げる頃になって、もうひとりの参加者があらわれ、この人物も一握りの土を根元にかけ、計4人となったわけだが、この参加者の名前は記録に残っていない。
このささやかな行事が十勝ではじめて行われた緑化運動というべきもので、この時植えたドロ柳は1本が枯れ、2本はいまだ残っている。
旧十勝会館前の広場にいまていていと空を突き、直径2尺ほどのドロ柳の木がそれである。
故上村吉蔵翁遺話/天地人出版企画社『とかち奇談』 渡辺洪著)

(※)渡辺 勝(わたなべ まさる)
明治16年(1883)依田勉三とともに、北海道現在の十勝の海岸部に入植。
晩成社(ばんせいしゃ)三幹部の一人として、活躍。後に、西士狩(にししかり 現在の芽室町)を開墾し然別村(現在の音更町)では牧場の経営に力を注ぎました。アイヌの人々への農業の世話役となって、アイヌの人たちと親交を深め、1896年には第1期音更村会議員に当選するなど、多くの人から信望を集めた。

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 実際のお話は、かなり滑稽な感も否めませんが、これが十勝発の緑化運動にはちがいなかったようです。
 当時あった自然の森の大部分は失ってしまったものの、この想いはやがて継承されることとなり住民の手により都市近郊にも森が作られて植樹や森林愛護の活動は継承されています。諏訪支庁長もさぞや満足なことでしょう。

きっと雲の上から、改めてわが計画の遠大さを風潮しているのでしょう。

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【十勝会館】

昭和3年天皇即位の大典が行われたのを記念するため翌年建設。
宿泊施設と大小の催しや集会などに利用されました。
戦後改造されて利用されていましたが市民会館建設後に解体。
この写真の中のどれかが、その大木であるらしい。

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2008年1月22日 (火)

アメユジュトテチテケンジャ

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冬 この季節、朽ちかけた民家を訪れて欠け茶碗が転がっていたりすると思い出す詩の一節がある。

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『アメユジュ トテチテ ケンジャ』

宮沢賢治の「永訣の朝」に出てくる言葉です。

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Dscf3127  けふのうちに
 とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
 みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
  (あめゆじゆとてちてけんじゃ)
 うすあかるくいっさう陰惨な雲から
 みぞれはびちよびちよふつてくる
  (あめゆじゆとてちてけんじや)

Dscf3128  青い蓴菜のもやうのついた
 これらふたつのかけた陶椀に  
 おまへがたべるあめゆきをとらうとして
 わたしはまがつたてつぽうだまのやうに
 このくらいみぞれのなかに飛びだした
  (あめゆじゆとてちてけんじゃ)

 Dscf3132 蒼鉛いろの暗い雲から
 みぞれはびちよびちよ沈んでくる
 ああとし子
 死ぬといふいまごろになつて

 わたくしをいつしやうあかるくするために
 こんなさつぱりした雪のひとわんを
 おまへはわたくしにたのんだのだ
 ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
 わたくしもまつすぐにすすんでいくから
  (あめゆじゆとてちてけんじゃ)

Dscf3136  はげしいはげしい熱やあえぎのあひだから
 おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽、気圏などとよばれたせかいの
 そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
 …ふたきれのみかげせきざいに
 みぞれはさびしくたまつてゐる
 わたくしはそのうへにあぶなくたち
 雪と水とのまつしろな二相系をたもち   
Dscf3141  すきとほるつめたい雫にみちた
 このつややかな松のえだから
 わたくしのやさしいいもうとの
 さいごのたべものをもらつていかう
 わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ

 みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
 もうけふおまへはわかれてしまふ
  (Ora Orade Shitori egumo)

Dscf3137  あああのとざされた病室の
 くらいびやうぶやかやのなかに
 やさしくあおじろく燃えてゐる
 わたしのけなげないもうとよ
 この雪はどこをえらばうにも
 あんまりどこもまっしろなのだ
 あんなおそろしいみだれたそらから
 このうつくしい雪がきたのだ
Dscf3148  (うまれでくるたて 
  こんどはこたにわりやのごとばかりで
    
くるしまなあよにうまれてくる)

 おまえがたべるこのふたわんのゆきに
 わたくしはいまこころからいのる
 どうかこれが天上のアイスクリームになって
 おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
 わたしのすべてのさいはひをかけてねがふ

Dscf3151     

Dscf3130_2 「あめゆじゅ」は「雨雪」すなわち天から降り注ぐみぞれ
賢治の最愛の妹であり、同じ信仰の同志でもあった『とし子』は教員をしていましたが病のため25歳という短い生涯でした。

死の床にあってとし子(死期を悟っていた)は末期の水として賢治に『あま雪(みぞれ)をとってきてください』と頼みます。
賢治は悲しみの混乱の果て、それは「とし子」が自分(賢治)のために頼んだと悟ります。
「びちよびちよふってくるみぞれ」が「さつぱりとした雪のひとわん」に変わることから読み取れます。

Ora Orade Shitori egumo 「わたしはわたしひとりで行く」 妹は既に死を悟っていました。妹の最も内面的な覚悟の言葉。賢治を強く突き動かした言葉は、他と区別されローマ字につづられました。

うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる 「今度生まれてきたら、こんな自分のことばかりで苦しまない人間に生まれてくる」 自分の苦しみで終わってしまう人生を振り返り、生まれ変わったら自分のことより他人のために汗を流す生き方をしたいという菩薩道の願いが込められています。

旧式な仮名つかいですが、心の微妙な変化を的確に表現した難しくもない優れた詩のひとつです。

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どうして茶碗一個でここまで掘り下げたかというと、あったんですよ。二階の書棚の農業関係の本の山の中にこの「永訣の朝」の載った本が…
農家かもしれませんが近場に耕作地らしいところもさほどなく、横には林業鉄道の軌道がすぐ走っていた家。ここに人がいた頃は、最寄の学校も「僻地5級」の土地柄。市街への食料買出しもままならなかったと思います。そんな暮らしをあるいは宮沢賢治と照らし合わせていたのでしょう。

「あめゆじゅとてちてけんじゃ」

それは、妹から兄への言葉ではなく、いまや見るものが自分の生き方を問い直すための呪文なのかも知れません。
問い直された心に足りないものは何か…?

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