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2010年2月14日 (日)

あたんのバラード

違うよ それは「あんたのバラード」。。。
世良公則&ツイストのデビュー(?)だって

…これじゃMixi日記ノリだし

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ここで言う「あたん」『亜炭』のこと。
通常の石炭と異なり炭化度が低いため品質的には亜種という扱いになるから『亜炭』と付けられたのか…
いずれにしても採掘後、風に当てるなどして良く乾燥させないと製品として出荷できなかったそうです。

十勝の芽室町町境に位置する国見山は現在、営林署所轄の自然散策林として開放されていて軽登山の場として利用者に愛されている。
山頂辺りに「国見チャシ」と呼ばれるこの辺りで生活したアイヌ民族の遺構跡が残っていて、一見すると尾根に作った溝のある高台という風だが、砦とか見張り台とか解釈される。

Dscf4718_2 「国見山」と名が付いていますが「美蔓高台」の突端、河川の侵食によって作られた河岸段丘の一部であるようです。
“軽”といっても運動不足の身では頂上へ行くとそれなりに息が切れる。
1市2町の境でもあるので役所の職員でさえ、この山がどちらに所属するのか戸惑うことがあるようです。

この国見山。夏場の緑を湛えた姿の時には分からないけれど、秋風が吹く頃から徐々に…そして春までの間、山肌を露わにすると実にいびつな形になっている。
近くの橋が竣工した時の写真でも現在のようにガタガタな稜線を見せていた。
末端部が特に際立っていて生える木も踏ん張りが利かないのか、やっとのことで根を下ろしている様子。

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Dscf4726 町史を読むと、その跡は石炭採掘の名残だという。
石炭というと夕張や三笠のように縦抗や斜坑を掘って地中の深いところから産出するというイメージがあるけれど、この山は露天掘りに近かったそうです。
露天掘りというと芦別市などにも跡がありますが、それよりも規模は遥かに小さかったらしい。
ここの亜炭層の厚さは十数センチほどで、その石炭からは化石化した水草も確認されることがあり、一帯は太古の昔には大湿原地帯だったということになるらしい。
年代的にも地の底にある石炭よりも新しいらしい。故に炭化度の低い「亜炭」の状態で産出されていたのでしょう。

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(国見山亜炭鉱に関する記事抜粋)

Dscf3739 本町
(芽室町)の鉱業は、国見山南腹の亜炭鉱が唯一で、埋蔵量は350万tといわれています。この鉱区のうち140ha余は昭和17(1942)年4月に依田八百が、284haはどは同18(1943)年7月に鈴木長一がそれぞれ発見しました。炭質が優秀で一時軍用にされましたが、その後変遷を経て同21(1946)年12月、株式会社十勝炭鉱国見事業所として長田正吉に鉱業権が移りました。長田は国の燃料不足対策に沿い、復興金融公庫からも資金援助を受けて本格的操業に着手しました。同22(1947)年8月から1級炭鉱としての配炭公団の全面買取りでしたが、翌年10月の公団買取り廃止で直売しました。遠くは苫小牧王子製紙工場、地元では中央繊維芽室工場、帝国臓器製薬工場そのほか各種産業用や家庭用として供給し、同23(1948)年2月25日、札幌商工局から重要亜炭鉱の指定を受けました。同24(1949)年当時の業績は、出炭3,935t、販売2,328tで、従業員男女10数名による人力の採掘でした。

時代の脚光を浴びた亜炭も、需要が時代とともに減少し、同41(1966)年ごろには販売量228t、従業員も4名になり、経営継続が困難になって翌年11月に閉山しました。

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Dscf3741 閉山後、事業整理されたため当時の名残を残すのは、いびつな稜線だけで登山道を外れて転げ落ちそうな稜線を辿っても石炭らしき欠片も見つけることはできませんでした。
ただ、稜線の1箇所に元々の山肌の高さの部分を残したような塊があった。
石化した火山灰のように見えるそれは、頭頂部に「山神」のようなものを祀っていたかもしれません。

Dscf3745 小さい頃から家は既に石油ストーブだったけれど近所の家で、機関車みたいな石炭ストーブを見たことがある。本体はオートバイの空冷エンジンみたいにヒダ状の突起がたくさんあって、SLの煙突状のところは石炭タンクのようで、細かい石炭が満載されていました。
記憶の中には石炭に関することは非常に少ない。

それでも、どこからか石炭ストーブの煙の香りがしてくると敏感にわかるのは、記憶というよりも血の中にそれがインプットされているのかもしれません。

「温かったけどさ、毎週エント(煙突)掃除しなきゃならんのがメンド臭かったなぁ…」

何代目かの石油ストーブの前で石炭に関わるそんな話を聞いた。
石油の産出もあと40年ほどだという。その後、家族団らんの居間を暖めているのはどんな風に変わっていることだろう…

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2010年2月 2日 (火)

ディーゼル

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Dscf4362 小さい頃、初めて見た工場は、地元にある製糖工場でした。
もうもうと水蒸気を上げる大きな建物は、学校よりも大きくて威圧感がありました。
工場に搬入された契約農家で栽培された甜菜(ビート)は指先に乗るほどで、いびつな「こんぺいとう」みたいにガタガタで、育苗後、畑に移植されて夏の太陽の下、大きなカブ状に成長します。
初霜の季節に収穫され、満載のトラックで次々に搬入されて糖分を抽出される。
見た目はカブっぽいけど切り口を舐めてみるとすごく甘かった。

Dscf4371 糖分を抽出された搾りカスも乾燥圧縮されてビートパルプという家畜(主に乳牛)の飼料として出荷されます。切干ダイコンみたいに水で戻して給餌するわけです。
そのほかにもシーズンになると未乾燥の生パルプも供給されることがあり、契約農家が自家トラックでの積み込みに工場入りします。
それで何度か父に付いてこの工場へ来たわけですが、蒸気を吐き続ける稼働中の工場の姿は、爆発寸前に見えて怖くて車から降りられたことがありませんでした。

今も稼働中の工場に入ることはもうありませんが、凍てつく冬の空へ蒸気を吐き出す工場を見ても淡々と感じてしまうのは、やっぱり大人の証拠なんだなぁ…と思う。

この工場の裏を通っていたら古ぼけた機関車があるのが見えた。
場所は工場関係者の通用口のようだけど、動体展示してあるようなので見るだけなら叱られはしないだろうと行ってみた。

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ずっと知らなかったけど貨物駅と工場を行き来した工場専用線があったらしい。
専用線だから一般が見たり乗ったりするものではなかったけれど、こんな活躍をする小規模な鉄路もたくさんあったようです。
貨物駅廃止の原因は、たぶんトラック輸送の影響なんだろう。
公園で定期的に塗り替えられる蒸気機関車と違い、古ぼけるままにされているようで真っ黒なSLよりも過去のものに見えた。
それでも古巣の方を向いてのんびりする姿は、どこかしら人間臭くも見えるものです。

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★ホクレン清水精糖工場専用線★
ホクレン専用線は、昭和36年8月工場建設のクワ入れと共に布設され、建設資材の搬入から副資材、製品の入出荷などで活躍し、旧国鉄十勝清水貨物駅の廃止に伴い昭和62年3月21日現役引退になるまで25年の歴史を歩みました。
 ここに保存された20t液体ディーゼル機関車は二代目で、最盛期の扱い量は1日最大500t、25年間で述べ260万tを取り扱い、精糖工場の操業に多大の功績を残した。

Dscf4365 ★機関車略歴★
車種形式/20t液体式ディーゼル機関車
       DL20-HC-1067DMH17C型
製造場所/日本輸送機株式会社
製造月日/昭和37年8月
工場配置/昭和58年11月15日
現役引退/昭和62年3月21日
主要寸法/長 6,750㎜
       巾 2,525㎜
       高 3,460㎜
最大牽引/換算25両以内 100t

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