あたんのバラード
違うよ それは「あんたのバラード」。。。
世良公則&ツイストのデビュー(?)だって
…これじゃMixi日記ノリだし
ここで言う「あたん」は『亜炭』のこと。
通常の石炭と異なり炭化度が低いため品質的には亜種という扱いになるから『亜炭』と付けられたのか…
いずれにしても採掘後、風に当てるなどして良く乾燥させないと製品として出荷できなかったそうです。
十勝の芽室町町境に位置する国見山は現在、営林署所轄の自然散策林として開放されていて軽登山の場として利用者に愛されている。
山頂辺りに「国見チャシ」と呼ばれるこの辺りで生活したアイヌ民族の遺構跡が残っていて、一見すると尾根に作った溝のある高台という風だが、砦とか見張り台とか解釈される。
「国見山」と名が付いていますが「美蔓高台」の突端、河川の侵食によって作られた河岸段丘の一部であるようです。
“軽”といっても運動不足の身では頂上へ行くとそれなりに息が切れる。
1市2町の境でもあるので役所の職員でさえ、この山がどちらに所属するのか戸惑うことがあるようです。
この国見山。夏場の緑を湛えた姿の時には分からないけれど、秋風が吹く頃から徐々に…そして春までの間、山肌を露わにすると実にいびつな形になっている。
近くの橋が竣工した時の写真でも現在のようにガタガタな稜線を見せていた。
末端部が特に際立っていて生える木も踏ん張りが利かないのか、やっとのことで根を下ろしている様子。
町史を読むと、その跡は石炭採掘の名残だという。
石炭というと夕張や三笠のように縦抗や斜坑を掘って地中の深いところから産出するというイメージがあるけれど、この山は露天掘りに近かったそうです。
露天掘りというと芦別市などにも跡がありますが、それよりも規模は遥かに小さかったらしい。
ここの亜炭層の厚さは十数センチほどで、その石炭からは化石化した水草も確認されることがあり、一帯は太古の昔には大湿原地帯だったということになるらしい。
年代的にも地の底にある石炭よりも新しいらしい。故に炭化度の低い「亜炭」の状態で産出されていたのでしょう。
(国見山亜炭鉱に関する記事抜粋)
本町(芽室町)の鉱業は、国見山南腹の亜炭鉱が唯一で、埋蔵量は350万tといわれています。この鉱区のうち140ha余は昭和17(1942)年4月に依田八百が、284haはどは同18(1943)年7月に鈴木長一がそれぞれ発見しました。炭質が優秀で一時軍用にされましたが、その後変遷を経て同21(1946)年12月、株式会社十勝炭鉱国見事業所として長田正吉に鉱業権が移りました。長田は国の燃料不足対策に沿い、復興金融公庫からも資金援助を受けて本格的操業に着手しました。同22(1947)年8月から1級炭鉱としての配炭公団の全面買取りでしたが、翌年10月の公団買取り廃止で直売しました。遠くは苫小牧王子製紙工場、地元では中央繊維芽室工場、帝国臓器製薬工場そのほか各種産業用や家庭用として供給し、同23(1948)年2月25日、札幌商工局から重要亜炭鉱の指定を受けました。同24(1949)年当時の業績は、出炭3,935t、販売2,328tで、従業員男女10数名による人力の採掘でした。
時代の脚光を浴びた亜炭も、需要が時代とともに減少し、同41(1966)年ごろには販売量228t、従業員も4名になり、経営継続が困難になって翌年11月に閉山しました。
閉山後、事業整理されたため当時の名残を残すのは、いびつな稜線だけで登山道を外れて転げ落ちそうな稜線を辿っても石炭らしき欠片も見つけることはできませんでした。
ただ、稜線の1箇所に元々の山肌の高さの部分を残したような塊があった。
石化した火山灰のように見えるそれは、頭頂部に「山神」のようなものを祀っていたかもしれません。
小さい頃から家は既に石油ストーブだったけれど近所の家で、機関車みたいな石炭ストーブを見たことがある。本体はオートバイの空冷エンジンみたいにヒダ状の突起がたくさんあって、SLの煙突状のところは石炭タンクのようで、細かい石炭が満載されていました。
記憶の中には石炭に関することは非常に少ない。
それでも、どこからか石炭ストーブの煙の香りがしてくると敏感にわかるのは、記憶というよりも血の中にそれがインプットされているのかもしれません。
「温かったけどさ、毎週エント(煙突)掃除しなきゃならんのがメンド臭かったなぁ…」
何代目かの石油ストーブの前で石炭に関わるそんな話を聞いた。
石油の産出もあと40年ほどだという。その後、家族団らんの居間を暖めているのはどんな風に変わっていることだろう…
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