廃墟淑女
昔の人で ツィッギーとイーディは同じ人だと勘違いしていた。
ふたりともモデルだったからね。
ふたりの大きな違いは
ツィッギーは自分を探し イーディは自分を開放したってところ
そんな印象を持っている
雑然として節度をなくした木々が生い茂る林の中に何かが見えた。
回りは整備された土地なのに ここだけがモラルを欠いたように空気感がことなっている。
きれいに整備された舗装道から一歩入ると、もう膝上の雑草が絡み付いてつま先が見えない。
マムシでも踏んじゃったらどうしよう…音速で逃げるしかないよね。
程なく廃車が目に入り 庭が雑木になったか雑木林に家があるのかわからないところに家が現れてきた。
平屋で木造モルタルの淡いピンクの壁。
道から家へ続いていた道は、笹に塗りつぶされて人がいたことも感じられないほどです。
窓はあちこち破損していてるけど 人がやったのか朽ち枝の仕業かは、既に分からない。
人が消えると家は、これほどまでに変わるんだと実感する。
家は人と共に生きている。
この家自体は今でも同じ形の借家が見られるくらいだから特に珍しいほどではないけれどここにはまだ人が住んでいた。
人というのは間違いだ。正確には人形。その姿にツィッギーかイーデイの印象の見とれる彼女は、この家のプラスチック製のベッドの中で静かに眠り続けていた。
床も落ちて 廃れが極みに入り始めたところだけど彼女にとって安らぎの家。
しばし、外の空気を吸ってもらった。
長い年月眠っていたとはいえ、一糸乱れぬ凛とした姿はモダンながらも気品に満ちている。
このあたりは一帯でも田園風景の広がるところで、かつては稲作も広く営まれていたけれど今、その面影は道端に時折見える水門しかない。
水田はやがて畑に転用されていったいったけれど、冠水させなければならない田と、冠水してはならない畑。同じような実りの園でも本質は異なっている。畑に転用するためには暗渠排水などの整備が必要になります。
時代は米余りから減反政策に転じて収穫のできない田んぼは、どんどん畑に変わっていきました。
でも、中には違う道へ行く家も─
この家がそうであったように養魚業が各所で営まれていきました。
養魚の盛んなところは意外と湧水も豊富で、廃墟となって数十年が経過したような家でも裏の水槽脇のバルブからは清水がコンコンと湧き続けています。
『廃墟』といえば「衰退」とか「滅び」とか「死」とかマイナスな印象が付きまとうのに生命の象徴のように命の源である『水』が弛まなく躍動し続けているのは『廃』は人の世だけのことなんだと思います。
うっそうとした木々は、雑然としながらも生命力にあふれている。
あたかもこの家で眠る彼女が『いばら姫』であるかのように…
眠りに着く前、ここはどんなところだったのだろうか?
彼女の口から枯れススキに埋もれた庭の在りし姿は聞かれなかったけれど、たくさんの人が訪れて釣り糸を垂れて漁の成果を楽しんでいたことでしょう。
『廃』は人の世界だけのことです。
鳥や虫や獣たちには耳障りな喧騒の過ぎ去ったオアシスなのかもしれません。人が忌み嫌うところで小鳥がさえずり、リスが木々を渡り、蝶は野に還った庭でこぼれ種から生じた花を渡り飛ぶ。
そんなところに忌まわしい、汚らわしい伝説を作るのは、そのパラダイスに近づかんとする人を戒めるある意味優しさの面もあるのかもしれません。
この家の淑女には、またしばらく眠りについていただきました。
彼女がこのパラダイスを守る女神であるかもしれないからです。
だから、これ以上、無用に人の目には晒さないでおきましょう。
ツィッギーは『未来』を見つめ イーディは『今』を認めた
ツィッギーは輝きを探し イーディは輝きを留めた
ふたりの探したものは同じ
『廃墟淑女』は、その二人どちらでもある
ツィッギー(Twiggy)
イーディ・セジヴィック(Edie Sedgwisk) (出典:フリー百科事典ウィキペディア)
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コメント
時間が止まっても家は変化し、
その中で永遠の美しさを手に入れたお人形。
たまらないですね。
投稿: カナブン | 2008年9月 4日 (木) 00時31分
ここはマムシの巣窟らしいので奥は怖いです。
投稿: ねこん | 2008年9月 4日 (木) 12時43分