水中メガネ ⑤
「バレエをやめたい!」
そんなことを急に言いだしたのだから当然、パパもママも私に何かあったと思っただろう。
色々聞かれたけれど「もう、嫌なの!行きたくないの!」とずっと言い続けただけ…。
ひとりっ子でわがまま放題の私だったから、これではいくら話してもわからないと諦めたようで、とにかく暫くの間は休むことになった。いまさら、元には戻れないと思うけど…
あの騒ぎから数日経ってその話にはママもパパも触れない。そっとしておいてくれているんだろう。
数日間、部屋に閉じこもるように過ごしていたから、久しぶりに外へ出たくなった。夏休みも残り少ない。
配役の「ジゼル」は当然辞退。やっぱり友達やスクールの先生のがっかりする顔が浮かんだ。でも、私の何かが壊れてしまったから悔いがあるとか、ないとかじゃなかった。そんなに諦めがよかったのだろうか、私は…。
何のためにバレエをするとかは、考えてなかった。憧れは確かにあったけど、それだけじゃなく何かを得ようと、自分が大きく変わるきっかけにしようとしていた思う。
Kの一言で、やめたくなったのかは、今思うとはっきりしない。私も何かを成し遂げることを認めてもらいたかった気がする。
Kは勉強はともかくスポーツは、なんでもそつなくこなすし、みんなを楽しい気持にしてくれるので、みんなだけじゃなく私の憧れだった。
クラスでは小さな存在の私はそんなKを見ていて自分も『私』という殻の中から一歩踏み出したいといつも考えていた…
今は考えるのはやめよう。この道は自分で閉ざしてしまったのだから…
今は自分の決めたことに前向きでいたい…
あの日、Kと別れてから自転車のところまで行ってから心の線が切れたみたいで家に着くまでのことはあまり覚えていない。そのまま置いてきてしまったようだ。相変わらず照りつける陽射しの下、今から取りに行くのもめげそうだし、このまま家にいるのもぎこちない。だからと言って「ひみつ基地」に行くのも、また悲しくなりそうで…。
行先も考えずトボトボ歩いていると、前からKのおじいちゃんが背丈ほどもある木を抱えて来た。
「こんにちは おじいちゃん」
「おや こんにちは 自転車を取りに行くのかい?」
えっどうして知っているの?
「こないだ、2台押して帰ってきたよ。『忘れてった』とか言っててね。次の日に持ってったらしいけど、Nちゃんの具合が悪かったとかで、また押して帰ってきたよ」
「そうなんですか…」
「あれ! 知らなかったのかい? Kのやつ電話してないんだなぁ…今日は、父さん達と出かけたんだけどね」
「あのう…これから取りにいきます!」
「そうかい これからNちゃん家にこの木をもっていくのさ。じいちゃんの大好きなやつだったから可愛がってあげてね」
「はい!」
そうか、あんな遠いところから私のと2台押してきたのか…。
Kの家の車庫のところへ行くと私の自転車は青いシートをかけて置いてある。
自分のは、いつも雨ざらしでほかってあるのに優しいところもあるんだ。少しギシギシしていた心がほっこリしてきた。
シートをKの自転車へ被せると、いくらか暑さの揺るいだそよ風の中、こぎだした。
わたしって単純なんだーって思いながら…
夏も深まって緑は『人間の作ったものなど隠してしまえ』とばかりに道の方まで寄りかかってきている。
標識や電柱もツルが撒きついて緑の塊になっている。朝、目が覚めたら家の周りがうっそうとした森みたいに緑に囲まれてたら怖いよね。
途中、赤レンガの小屋を見た。こんなにきれいな家なのに今は何にも使われていない。
命があるみたいに鮮やかな赤なのにどこか寂しい。意地を張ってひとりぼっちになったみたいだ。昔からここにあって、未来もここにい続けるのだろう。
私とKもそうだろうか。来年からの中学は同じでもその後はわからない。
その後、別々になっていくともう今みたいには、いられなくなるんだ…
今…既に今が変わり始めている。6年生になってからだ。学校でみんなの中にいるときはいつものKなのにスクールバスに乗るのをきっかけに一言もしゃべらなくなる。
私はいつも近くに座っていたけど、だんだん離れているようになった。腫れ物に触れるのを恐れるみたいに…
─ 結局『ひみつ基地』へ来てしまった。Kほど色々なところを知っているわけじゃないから仕方が無いか…
Kのいない隊長室は、だらしなく散らかっている。ここにKを置くと不思議に様になって見えるのに主(?)がいないと部屋の中も情けない。すこし、整理でもしようか。
読んだ順から山積みにしてそのまま崩れたように飛び散らかした本。元からあったのか、あとから持ち込んだかわからないほどのお菓子の袋とペットボトル。
「仕方が無いねー」 そう思って片付けているとなんだかKのママになったような気がした。
「…?!」
本の山の中から妙な本を見つけた。『バレエ入門』
どうして?
私たちの学校の印があるから図書室のだ。Kだよね…
パラパラとめくってみると貸出カードが入ったまま… 勝手に持ち出したものらしい。
「あーいうの 俺には気持ち悪くってさ…」
ジー ジー
表のセミの声が何倍にもなって耳に入ってくる。
見てはいけないものを見た気がした。
─見なかったことにしよう。 元通りに本を重ねておく…
ベッドに座って本を1冊とってパラパラめくる…。
こうして見るとこの部屋はマンガばかりでもないらしい。銀色夏生の詩集があった。
あの人にさとらせないという努力
孤独というひまわり
言葉という星
きっとという奇跡
こころという不思議
【こころという不思議/わかりやすい恋(角川文庫)】
そう…こころは不思議。自分のこころもよくわからないことがある。
きっとという奇跡…私も奇跡を期待しているのかな…
Kは、私がレッスンで来ない日には、何をしていたんだろう。
マンガの本があるといってもずっと同じ本を読み続けていたとは思えない。
ギッ…
顔を上げるとKがいた。
「あ… お帰り…」 思わず変なことを言ってしまったよ
「何してんだよ!」
「え…」
「勝手に入るなったら!」
「ご…ごめんなさい…」
すごく いたたまれくなったけど ここにいる…
セミがどこかへ行ってしまったみたいに静かになった。
Kは、まだ怒っているのか難しい顔で本を読んでいる。
私は窓辺でモコモコした雲がたくさん湧き上がる空を眺めている。
…海 海に行きたいな。
大昔は、この窓から見えるところはみんな海の下だったんだろう。
海から何時間もかかるこんな山の中みたいなところでもクジラの化石が見つかるくらいだから…
ねぇ? Kちゃん 海に行きたいね
でも、口に出せない… 行けるはずもないから…
サー……
「?」
潮騒の音が、かすかにしたような気がした
風は吹いていないようだ
空耳なのかな?
それとも 無言の会話がきしむ音かな…
「…うん」
「今日は、どこへ行ってきたの…?」
「兄貴んところ」
Kのお兄ちゃん、O市に行ってたんだっけ。
高校は、もう夏休み終わりなのか…
「大変だよね、お兄ちゃん。家族と離れてるのも…」
「兄貴、学校変わるからその手続きさ」
「えー?どうしたの…」
「うるさいな!なんでここにいるんだよ! 下で練習してりゃいいだろ!」
「やめちゃったもん…バレエなんて…」
「えっ?何?」
「やめちゃったのバレエ!」
一生懸命繕ってきたものが音をたてて キレタ…
ゴロゴロゴロ… 遠くからカミナリの音が聞こえる
Kの目が丸くなった
「なんだよ!何でだよ!」
「何でって…何でって…『気持悪い』って言われちゃ出来ないじゃない…」
「俺は…そんな…」
「私は…私ができることをKちゃんに認めてもらいたかっただけだよ…いつもKちゃんについて歩ってて…Kちゃんすごいなーって認めてたけど、私だって何か見てもらいたかったの…でも…こんな…こんなことになるなら、嫌われちゃうなら始めからやらなきゃよかった!」
私はどうしちゃったんだろう
本当の自分が体の中に閉じ込められて、違う自分の囚われになったような気がする。
「Kちゃん変わっちゃったよ!確かに私は…Kちゃんの遊び相手には物足りないよ。女の子だから…だからって嫌わないでよ!邪魔にしないでよ!ここに一緒にいさせてよ…お願いだから」
「……」
ダダダダダダ…
…もう終わりだ。 終わり?何が始まっていたの? 付き合っていたわけでもないのに終わるもなにもないじゃない。
でも…それでよかった。
『水中メガネ』の頃は、私も男の子になれた…一緒にいられたんだ。
それができなくなって、私はKちゃんにとって『見知らぬ女の子』になってしまったんだよ。
自由の身になったとたん、涙が出てきた。
外も雨が降り出してきた…
「どうしたの!? そんなにびしょ濡れて…!」
「とにかく…早く着替えなさい…」
ママからタオルを受け取ると階段に雫を落としながら2階に駆け上がった
雨とか涙でぐしゃぐしゃになった顔を拭い、ずぶ濡れの服を脱ぐと体が軽くなった。
目に入った部屋の姿身に映る姿は、陽に焼けたKとは明らかに違う。
「見ろよ! なんだか俺たち そっくりだよな─」
変わったのはKじゃなく私の方…
タン タン タン タン…
外から雨だれの音。体がその音に反応する。聞き覚えのある「パ(テンポ)」と同じだ。
体に閉じ込められて舞台に立つことの叶わなかった記憶がボロボロの心の傷跡から外に滲み出してきた。
タン タン タン タン…
ゆらり ゆらり 泣きながら踊る鏡の中の女の子
アルブレヒトに会うことのないジゼル
ぐるぐる回る部屋
髪の先から雨粒と涙がはじけ飛んで部屋に散らばる
涙越しに見える部屋の中は水槽の中にいるみたいだった…
(つづく)
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