水中メガネ ④
小学校最後の夏休みが来た。スクールの合宿と家族旅行が続いたのでもう8月。
終業式の日からKと会っていなかったので自転車を走らせる。出掛けにママに旅行のおみやげを預かってきた。行く前に電話すれば良かったけどKのビックリする顔を見たかったのでだまって来た。
今日も朝からの強い日差しが大地の上を彷徨うものに容赦なく照りつける。
「おや?Nちゃんかい?」
庭木の間からKのおじいちゃんが顔を出した。
「おはようございます おじいちゃん」
「おはようございます まぁ~こんだら女らしくなってー うちのKとおんなじ歳とは思えんべさ」
「いやーそんなことないですよー」
「Kに会いにきたのかい? 夏休みっても毎日どこ行ってんだべな…「日当だすから手伝ってくれー」っていってたんだけど全然ダメでさ 家に上がって待ってるかい?」
「いえ、ちょっとどうしているかなーって思って…わたしも少しの間、家にいなかったから…それと、うちからのお土産です。」
ママに預かってきた旅行のお土産を渡した。
「あれまー。ご丁寧にすんませんことです。よろしく言っといてくださいよ」
おじいちゃんは、土で汚れた手を首にかけたタオルで一生懸命に拭ってもったいなそうに受け取ってくれた。
「おじいちゃん 今日は何をしているんですか」
「うん じいちゃんも歳だからね。あんまり庭木の手入れもしてやれなくなるから整理するんだよ。もらってくれる家に行かせるのに仕度させるんだ」
「えー お庭が寂しくなっちゃいますね…」
「なーに 家にいてもほかされるんだったら大事にしてくれる家に行くほうが幸せさ。木は旅ができないからね。できるうちに骨折ってやらんと可哀想さな…Nちゃんところにも庭に空いてるところがあったら、もらわれてくれんかい?」
「はい!伝えておきます 必ず! 今日は失礼します」
「はいはい 暑い中、どうもご苦労様です。ご両親にもよろしくお伝えください」
自転車を回しながら、いつも車庫に立てかけてあるKの自転車を探す。まだ秘密基地に行ってるのかな…
Kのおじいちゃんに「女らしくなって…」とか言われて少し嬉しかった。言われたときは恥ずかしかったけど。
去年から始まった膝の痛みはお正月が過ぎたあとの初レッスン日には、普通ではなくなってきた。「もうダメだ!」という感じになって、ママに相談した。次の日、病院へいくことに…
「俗に言う『成長痛』というものですね。原因のメカニズムははっきりしてはいないのですが、この子のような成長期には少なくない症例です。バレエをやっているとのことですが、写真(レントゲン)から見てもそれとは直接の因果関係はないでしょう。特徴として就寝前や疲労の溜まってきたときなどに『痛み』が出ることがありますから充分に休養して、必要があれば湿布をしてください。」
話はよくわからなかったので先生に聞いた。
「先生…あの… バレエは続けられるんですか?」
「大丈夫ですよ。でも『痛み』が出るときは無理しないでね。すぐよくなるから。それとあまり脚を冷やさないようにね。とりあえず、今週だけは休んでください」
「はい!」
そこが、いちばん気になっていた。
あの日、Kの自転車に乗せてもらって帰った夜に膝が凄く痛んで、バレエはもうできなくなるのかと思ってベッドの中でボロボロ泣いていたから…。朝には痛みは引いていたけど、時々また痛くなる…ママにもっと早く言うべきだったけど、本当のことを知るのはとても怖い。でもたいしたことじゃなくて良かった。
それというのもスクールの今年の発表会が『ジゼル』というのに決まり、主役に選ばれたからだ。といってもシーンごとに受け持ちが変わるので私の一人舞台ではない。でも主役の一人ということで名前を呼ばれたときは大きな声で驚いてしまった。経験も少ないのに私が選ばれて良かったんだろうか?
「Nさんの努力が結果にでたんですよ。きっと普段も練習を欠かせないのでしょう。わたしもあなたの進歩には正直驚いていますよ。『ジゼル』はあなたの役です」
「よかったね!Nちゃん!」 友達もすごく喜んでくれた。
ひみつ基地での練習は無駄じゃなかった。
【ジゼルは身体の弱い純真な娘。村は葡萄の収穫で沸き立つドイツの村に住んでいる。彼女には愛を誓い合ったロイスという青年がいたが、ある日森番のヒラリオンから彼は実は、公爵であり本当の名前はアルブレヒトであることを告げられるが認めようとしなかった。
やがて母君の登場でロイスの正体が村人に知られる日が来る。さらにロイス(アルブレヒト)にはバチルドという婚約者がいたことを知り、ジゼルは悲しみのあまり母の腕の中で死んでしまう。
ジゼルは『婚礼前に死んだ娘はウィリという精霊になり若い男を死ぬまで躍らせることになる』という伝説のとおりウィリの仲間入りすることになる。そのころ後悔の念に苛まれるアルブレヒトはジゼルの墓を見舞い嘆いている。
ウィリの女王は彼を捕らえ、ジゼルに彼を誘惑し、殺すように命じるが、彼女はそれを拒みアルブレヒトと共に踊り続ける。
アルブレヒトの力が尽きんとする頃、夜明けが来て精霊達は消えて彼は助かったのだが、ジゼルもまた消え去ってしまうのだった…】
ビデオでみた華やかな踊りからは想像できない悲しいお話。私は、女王の命令に背きアルブレヒトを救うために踊るシーンの役を任される。今回は1・2幕を兼ね、特に大きな演目らしく翌週からすぐに専用のスケジュールも入り、レッスンは週2日になった。
そのことを新学期の始まる日、スクールバスの中でKに話してみた。
「ねぇ!私、スクールの発表会に主役をもらったんだ」
「ふーん よかったな…」
すごーくそっけない。男の子にバレエの話を解ってもらおうというのも無理な話か…もう少し話が解ると思ってたんだけど。
春が来て、学年の人数調整があり、Kとクラスが分かれることになってから話をするのはバスの中だけになってしまった。ふて腐れているのか、何か面白くないことがあったのか近頃はいつも不機嫌そうに見える。この半年で、私の背がKより低かったのに追い抜いてしまったことも面白くないことのひとつなのだろう。何も言わないけれど当然気がつくくらい差がついていた。K自身クラスの順番は真ん中より前の方だったから…
「ソンナコト キニシナクテモ イイノニ…」
Kを探して「ひみつ基地」へ行った。今年も来ているようで飲みかけのペットボトルやお菓子の袋もあるからさっきまでは、いたみたい。どこへ行ったのかな…。しばらく待っていたけど戻る様子がない。どこかへひとりで探検しに行っているのかもしれないね。
ここにいるのも退屈なので自転車を草むらから起して、あてもなく探しに行くことにした。
と、言ってもどこへいこうか…
去年の思い出に浸るみたいに古い農場へ行る。私が知ってる頃から誰も住んでいないところだったけどKは何度も来たらしくて、一度連れて行ってくれた。
「クジラの腹の中だよ」
回り一面に生えた名前をしらない草は、私の背丈以上に高い。それをかき分けるときに小さな鞘みたいなものが パチン パチン と弾けてバラバラと種を振りまく。
始めて来たときは、びっくりして一歩も進めなくなった。
人が入ってきたのを怒っているみたいだったから…
「なんでもないよ 種撒いてるだけなんだからさ 人の手に触られないと種も蒔けないんだぜ こいつら…」
そう言いながら道を付けるのに勢い良く進むKの回りでパチパチ バラバラという音がひっきりなしに響く…。
そのときと変わりなく種はパチパチとはじけ飛ぶ。この前のときKと私が手伝って撒かれた種から育ったんだね…と思いながら進む。
小屋の中はあの時と変わりない。壁が吹き飛んだのか半分骨だけになったそこの天井は、整列した肋骨みたいで確かにクジラの体内にいるような気がする。
いつか、両親といった博物館の天井にあった大きなクジラの骨みたいだった。海からはずっと遠くなのにクジラの化石があるなんてとても不思議。
「大昔は日本のほとんどが海の中だったんだよ。だからこんなところにも昔海だった頃の思い出が残っているのさ」
その時、そんな話をしてくれたパパが何だか考古学者みたいで尊敬した。
隣の小屋は壁が残って薄暗いけど壁やドアの隙間から中に差し込む光が宝石みたいで綺麗だった。こういうところを見てから私はこういうところを気味悪がっていたのを少し後悔した。そうじゃないところもずいぶん見たけれど、ここは別。
闇があるから光がいっそう輝く。
Kが探検好きな気持が分かったような気がした。
でも、どこへいったんだろう?
翌日、またKを探しに出た。夕べ電話してみるとひどく疲れて帰ってきたらしく、食後すぐに寝てしまったそうだ。
朝、家の人に聞いてみるまでもなくすでにKの自転車はない。「ひみつ基地」へ寄ってみたけれど今日は、来た様子はなかった。
8月の空はまだ朝の9時だというのにとても暑い。去年に負けないくらいだ。去年の今頃は川で…そうか!川にいるんだ。
思ったとおり、そこにKの自転車があった。藪の中を笹が足を擦るのも気にせず走った。
水音が聞こえる。夏休み前に見たときと同じ人とは思えない日焼けしたKの背中を見つけた。
大声を出して呼んだので、すごくビックリしたみたいに身構えた。
「あー なんだNか…」
髪を伝い落ちる水がキラキラ輝いている
「探したよー久しぶりだね。昨日も家にいったんだよ」
「毎日ここに来てたの?すごく焼けたね」
「うん…」 ちょっと疲れてるみたい
「私も泳いでいいかなー」
「いーよ…」
そう言うとKは、水面に滑り込んだ。
その間に私は横倒しのコンクリートのところまで行って、服を脱ぎはじめる。バッグの底にはあの水中メガネもあるはずだ。宝物だから1年中持ち歩いている。
川面が揺らめき輝いて、その間から時折Kが躍り上がる。河童という例えがKには一番似合っているほど水の中を自在に動けるから…
「お前、水着もってきてないの? やらしーな…」
「え…?あ…!」
Kが水の中からジッとこっちを見ている。
思いがけないことを言われて急に恥ずかしくなった。
よく見たらKは水着を穿いている。
一瞬にして顔が熱くなって思わずKに背中を向けた。
「あはは…うっかりした…」
肩越しに笑いながら、とりあえずそう言ったけど意外なことを言われて戸惑った…
「ダッテ キョネンマデハ…」
足だけ水の中に入れてつま先が揺らめくのを見つめていた。なんとなく心の中に変な傷が残った気がする。そのうちKが水から上がってきた。
「お疲れ様!」 笑って見あげる。
「……」
Kはコンクリートの上に座り込むと大きくため息をついた
「隊長は夏休みどこか行ってたの?」
「いや、うちはそういうのないし…余裕も…」
うっかりしたことを聞いてしまった。それになぜだか会話がすごくぎこちない
話のネタもなかったので悪いとは思いつつ家の旅行のこととかの話をした。
その間、Kの視線はあちこちに散らばって聞いているのか、いないのか…。
時々沈黙が流れて、せせらぎの音だけが耳に入ってくる。
何か言わなくっちゃいけない話があったはずだ…自分がどんどん自分じゃなくなるみたいにただ時間だけが重くのしかかる。
「あのね…」
「うん?」
「前にも言ったけどさ…まだ、先の10月なんだけど…私の通っているスクールの発表会で私、主役やるの…最後の方だけなんだけど…よかったらさ…見に来ない?」
ドキドキした。『口から心臓が出る』というのはこういうのを言うのだろう。
「いや…いいよ…俺そういうの見るガラじゃないし…」
想定内の答えが出た…やっぱりね…
「それに…」
それに?
「あーいうの俺には何か…気持悪くってさ…」
「─…」
急に泣きたくなった。考えられない答えじゃなかったけど、さっきの小さな傷口が一気に裂けてしまった感じがする。断崖絶壁でぶら下がっていたロープが一瞬にして切れたときみたいな、覚えのないことで死刑宣告をうけたような気がして目の前が真っ暗になった。
泣くことじゃない 泣くわけにいかない…心の中の傷から血がとめどなくあふれるみたいな気がして必死に押さえこむ。
「そうだよね 男の子には芸術わかんないか…ハハハ…」
Kも少しバツの悪い顔をしていた。そんな顔しないでよ。ガマンできなくなる…
「今日は家の用事があるから、早めに帰るね。また明日…」
ぬれた足のまま靴を履いちゃってバイバイとその場を離れた。早く遠くへ…
背中に視線は感じていたけどもう振り返られる状態じゃない
自転車のところに付く頃にはもう涙でグシャグシャだった…心の傷から血があふれつづける…。
その日、私は人生最大の決断をした。
「えっ! どうしてバレエをやめるの?」
パパとママの思ったとおりの表情が、また心に重くのしかかった。
重い…重い…重たいよ…
(つづく)
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コメント
軽率なコメントが書けない展開に、師匠もだまって読むしかありません。
投稿: カナブン | 2008年2月 8日 (金) 00時08分
まさしくそのとおり。
投稿: アツシ | 2008年2月 8日 (金) 01時40分
Kはカナブン
Nは…
…なんちて
投稿: ねこん | 2008年2月 8日 (金) 11時17分
ビックリしました。
この物語は先輩の「青春の幻影」でしょうか、
もしかしてルイドロ物件センチメンタル総集編でしょうか。
物語が終わるときは、先輩もサーバー容量満杯になるのではと心配です。
投稿: カナブン | 2008年2月 8日 (金) 11時49分
ねこんは、アップロードの高速化も兼ねて昨年秋頃から画像を40%くらいに圧縮しているので春までは持ちそうです。その後はどうしましょうかね…
こんなに容量食うほどするとは自分も思ってなかったから…
投稿: ねこん | 2008年2月 8日 (金) 15時13分