物言わぬ雄弁者の群れ【其ノ四】
目の前にあるものを、あんなに見ようとしたことはない。
見たものはすべて感情となって、流れ込んだ。
シゲチャンランドで過ごした時間が、チクチクと僕を刺し、ペロペロと僕を舐めている。(シゲチャンランド公式写真集より)
神とはなんだろうか?そんなことを考えることがありますか?
社や道際に祀られた神々。美術書なかの絵画や彫刻のテーマとして具象化された神々。
そのほか、仏や土着的な精霊など…
宗教家は其の疑問に的確に答えることができるのでしょうが、欲しい答えが押し問答では困ります。
かつて、豊かな幸をもたらす反面、一端荒れ狂うと驚異をもたらす大自然は、神としてあがめられ儀式によってあがめられました。自然はやがて具象化していき、高レベルな人格を伴って人間と同じ姿形となります。そしてすべてを統括する絶対的な存在が登場します。さらにそこから解釈によって分派が作られ、儀式は格式化。より難しく明細もより細かく計算されます。
胸元に輝くクロスは果たして神が宿っているのでしょうか?
意味も知らないお経で救われるのでしょうか?
日常的に『それ(敢えて神と呼ばず)』を感じることはないでしょうか。
ちょっとしたラッキー
意外な偶然
思っても見なかった出会い
まさかの大逆転… それはある意味『それ』を意識する瞬間です。
ただ、それだけではなく日常とは違う雰囲気・空間・観念などで『それ』を自覚することがあります。
そして、崇高に扱われる芸術品もまた神の感覚なのかもしれません。
ピンと張り詰めながら淀みのない空気。凛とした時間。それらは作品をより、神聖化させます。
でもそれらとは違う空気は、魔を生み出すのでしょうか。
其の回答は、この『シゲチャンランド』にあるのかもしれません。
大西氏の現出させた数多の『あいつら』には崇高な空気も雰囲気もない。
拝むとご利益があるとか霊感新たかなものがあるという話もありません。
其処にあるのは神でも仏でもないならそこにいるのは誰なのでしょう。
ガラクタや廃棄物で作られた『あいつら』は俗世の我々の姿なのかもしれません。
本来言われるところの神々は『到達できない理想の自分の投影』
ここにいる神々は『現世での自己像』 そう考えます。
アナタハ カミヲ 信ジマスカ?
アナタハ 自分ヲ 愛シテイマスカ?
(つづく)
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