白いギターのレクイエム
母と思われる女性の名だけが刻まれた表札。
およそ似つかわしくない虫かごやおもちゃが残る室内。
そして窓際に残された1冊のバイブル…ここからどんなドラマが思いつきますか?
バイブルは「新世界訳」。ものみの塔出版局、いわゆる「エホバの証人」のものです。
その特徴は、原文の文語訳で他宗派で使うもののように文学的解釈の翻訳ではないので正確な翻訳の反面、難解で誤解を受けやすいそうです。
「エホバの証人」というと輸血の拒否や人と競うような競技の不参加、あるいは誕生日・クリスマスなどのお祝いはせず、他宗葬儀は身内であっても参列できないなどの厳しい戒律があることで知られています。
彼らは同じキリスト教であっても他宗派は「バベル」と称して間違った考えを持つ宗派としている。
多くを語るというより、カルト視された彼らに関する文献は被害者サイドのものが多く、片寄った評価に陥るので割愛します。今回は宗派の問題ではなく、「信仰自体」に関する事柄です。
畑の中に物置と共にポツンと佇む家。幹線道自体遠く離れているので、近くを流れる川の堤防上の道がこの家への引き込み道のようです。表札はさほど変色しておらず、近年まで居住していたのかと思わせますが、庭は荒れてシャクナゲの枝も歪に曲がりくねっています。時折、土に半分埋もれてボールや宇宙船のようなおもちゃが点々と落ちていました。たぶん、ここには男の子がいたのでしょう。
表札の名義が一人であることから息子は独立。伴侶は既に先立ち、息子夫婦が孫を連れてくるのを楽しみにしながら日々を暮らす老婆の姿が見えてきます。
この辺りの地域は、開拓記念・郷土史のようなものが発行されていないので実際の家柄は想像の域は出ません。
仏壇や身の回りのある程度のものを携えて家は、残されました。
タンスの中の大部分や寝具などは無いのにテレビの上に飲みかけのジュースのペットボトルが置かれたまま…
遺品の中に確かにバイブルはありますが、神棚が祀られている家なので老婆が信心していたとは考えにくいですね。 するとこの家の息子が…?そう考えるとこの家の成り行きが納得できます。
わが子は家を出た後、現在の信心に傾倒して母にも熱心に入信を勧めたが改宗によって祖先や亡き伴侶の供養ができなくなるのなら、それはできない相談…
しかし、老いたる身であることから想いを通しきれず、どこか他所に身を寄せるようになったか、菩提は弔えないという条件で息子のところへ行ったのか…
これもあくまで想像の域です。
自由な世の中。信仰もそれぞれ自由なのですが、自由のしわ寄せは戦後の動乱から自由を与えられた人々が老いていくにしたがって表面化してきたようです。
こんなお話は、ありえることではなく実際に聞くことです。
永代供養も家が続いてこそ…
奥の部屋に置かれた白いギター。調音など狂いきっていますが、爪弾いて出るその音は調和を失った小さな家からバランスを失った世界へのレクイエムなのです。
ひとつの時代は去り 次の時代が来る
しかし地はいつまでも変わらない
日は昇り 日は沈み
またもとの上るところに帰っていく
風は南に吹き 巡って北に吹く
巡りめぐって風は吹く
しかしその巡る道に風は帰る
川はみな海に流れ込むが
海は満ちることがない
川は流れ込むところにまた流れる
すべてのことは物憂い
人は語ることさえできない
目は見て 飽きることもなく
耳は聞いて 満ち足りることもない
昔あったものは これからもあり
昔起こったことは これからもまた起こる
日の下には新しいものはひとつもない
(伝道者の書1の4-9)
真理は与えられるものか? 自分で見つけるものなのか?
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
廃墟若大将の先輩殿
ナイスなホワイトギターです、これはもしかしてTVジョッキー製でしょうか?
なかなかしびれる物件ですね。
投稿: カナブン | 2007年12月28日 (金) 13時12分
廃墟青大将のカナブン師匠様
いつの間にか角が取れて子どもの帰りを待ちわびていますか?
白いギターは、けっこう巷に溢れていたような記憶があります。
色を塗ると高級にみえるので…
お年玉で買ったアコギターのネックがねじれまくって泣きが入った人が身近におりました。
投稿: ねこん | 2007年12月28日 (金) 14時19分