いまだ在学中
以前紹介の『鳥居の中の廃校』と同じ地区にある学び舎です。
あちらは中学校ですが、こちらは小学校になります。
一見、住宅のように感じますが体育館は取り壊され現在残るのは、教室部分のみです。
100名を越える卒業生を輩出した学び舎は面影も無く変わり果ててしまったようですが、ここを支えているのは、かつての生徒たちです。
裏手にふた回りほど大きい体育館を備えた本校は、明治42年創立。昭和47年3月に62年の校史に幕を下ろしました。 閉校時の生徒は23名。
本校の前身は明治41年当時、開拓者が自宅農場の一角に開設した寺子屋的私塾であったそうです。昭和4年頃、入植者が増加して各地域にも特別教授場が設けられ、昭和9年に現時位置に校舎を落成、地域の教育がここに集約。
現在のように少子化が問題になる以前に北海道内各地で離農者が続出。この地域も昭和33年をピークに戸数減少していきました。
当時は、まだ農業共済(栽培作物や家畜にかける保険のようなもの)が充実していなかったことと、北海道のような畑に入れる期間の短い寒冷地では、冷害などの自然災害は、たった1度でも営農が危ぶまれるほどの打撃を就農者に与えます。
信じられない話かも知れませんが、小さい頃に春の作付け完了後に霜注意報が出るとあちこちで夜通し古タイヤを燃やし、夜空を黒煙で曇らせた光景をみたことがありました。(曇りの日には霜が降りないことと同じ理屈かな?)そのくらい天候が明暗を分ける職業を分けてしまう過酷な職業でしたが、現在『ベタ掛けシート』というものが採用され、生育期に霜の影響を受けることもなくなりました。
それも十数年前からのことなので、それ以前の就農者は意欲を失うほどのことが自然によって過酷にもたらされていたことになります。
離農者が続出した背景には、そんなカタストロフィーな事項がありました。
現在残る就農者は、その逆境を行きぬいたエリートといっても言い過ぎではありません。
しかし、離農者が負け犬かというとそうではありません。開拓期から現在まで農業は戸別のものではなく、近隣共同体の結束が深くて単に近所付き合いではない結びつきがあり、離農者もかつてはその一端をになっていたわけです。
去る者、残る者、互いに断腸の思いであったことは、今なら良く分かります。なぜならば、離農者と家の付き合いが今でも深くあるからです。
これは何も田舎の馴れ合いなどではなく、街の近所付き合いにも同じようにあったものですが、核家族化や近所付き合いの希薄化から町内会の加入は何処も激減しているようです。
日本の発展は、何も勤勉さだけではなく、横のつながりの深さも大いにあったと思います。
さて、この小学校はこれまでの経緯のように人口の激減と少子化から他校へ統合となり、学び舎は、廃れて行きました。
現在、様変わりしてしまった校舎には、かつての通学生が趣味の集まりの場として利用しています。
そう、彼らは今でも通学を続けているのです。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
心に染みる内容でございます。
私も当然いくつかの学校を卒業してますし、担任になった先生を全員思い出すことができます。
一方、先生方は卒業式に「君たちのことは一生忘れない」みたいなことを言いますが、私のことは一番最初に忘れるでしょう。それぐらい私は目立たない生徒・・・じゃなく、眼中にない生徒だったと自分で確信しています。
投稿: カナブン | 2007年10月29日 (月) 18時04分
ねこんの記憶に深い先生は、小学校1年生のときに担任の女の先生に授業中ふざけていて怒られましたが、よりによって木琴の木のスティックで頭に一撃された記憶だけはなくなりませんね。覚えているのは叱咤と虐待の差が付かないことばかりです。
投稿: ねこん | 2007年10月29日 (月) 21時14分