切り取られた往来
『歩く前に道はない 歩いた後ろに道はできる』
こう言ったのは誰だったかな…
でも、道の無いところは危険。北海道においては毎年、山菜採りで山に入り遭難も毎年のようで後を絶ちません。山菜のベストポイントを秘密にしていたことによる発見の遅れもあり、山菜に夢中になっての深入りや獣道を人の道と見誤るなど慣れた山を過信したことから遭難が分かるとパニックに陥り無駄に体力を浪費して、幹線道から数100mほど入った程度の場所で発見されることも珍しくありません。
道は、人生のたとえにもあるように外れることは少なかれ、リスクを伴います。
今回外れたのは、人ではなく道のほうです。正確には「外された」とするべきですね。
この辺りを車で普通に走っていると土地の人でもない限り気がつくことはないでしょう。こちらも一人でトボトボ歩いていたから見つけたのですが…
普通の舗装路面でラインも残った100数十m。
現在の道は朝夕、温泉街を行き来する車両がひっきりなしで、信号待ちで大型バスも連なって停車していますが、切替によってルートからはじき出されたこの道に立つと何か不思議な感じがします。数年前の地図には信号機の表記がないので、近年改修したのでしょう。元の道道との接続部分には一時停止のラインが残っているので、温泉街から下がってくる車両が渋滞を起こし気味になっていたことから改修に至ったのでしょうか。
ここに限った事ではありませんが改修によってはじき出された道は、郊外だとそのまま残されてしまうことは意外に多いようです。
一昔前、赤瀬川源平氏の参加する路上観察学会により、世に出ると突出したサブカルチャーブームを巻き起こした『超芸術トマソン』を思い出しました。
大型バスがひっきりなしに行きかう道とそこに向かいながら雑草の帯に切断された旧道。
向かう先は同じながらも対照的な二つの道は、時代の波にうまく乗った者と堅実ながらも乗り損ねた者の違いのようで人間臭さを感じてしまいます。
この道はいつか来た道… あ?そうだっけ?
ほんの数年で風景は様変わりしていきます。気にも止めなかった1本の木が消えただけでも違和感が出るように心の風景も現在との照合に戸惑ってしまいます。
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