八月の濡れた砂
私の海を真っ赤に染めて 夕日が血潮を流しているの…
と唄う石川セリの『八月の濡れた砂』。故藤田敏八監督の同名の映画主題歌です。
青春の葛藤がリアルながらも不条理に描かれた日活の秀作。
夏の海は、楽しい(紫外線が気にならなければ)。その賑やかさは祭と似ていて、シーズンを過ぎた海は、ひときわ寂しさをかもし出します。その頃の海は、沖へ流された喧騒が潮にもまれてツルツルの本音があらわになって浜に戻ってきます。
そんな海では堤防の上で波をじっと見つめる猫も人(猫)生を見つめなおしているように思えてきます。
そんな季節でもないのにこの海水浴場に人はいません。
以前は、消波壁を設置して静かな内海を実現した近代的かつ、地域初の海水浴場(浜はありますが遊泳禁止)として賑わいましたが、数年前に老朽化のためか閉鎖。
具体的に閉鎖の措置はなかったのですが、『遊泳禁止』ただし『水遊びは可』という真意が不明の扱いです。 現在、施設の老朽化も相まって海水浴場に通じる階段は降りることは禁止。しかし、ゲートは全開で降りたら最後、下にも通行禁止の柵があり、「上に戻れないじゃん」ということになります。ここで、存続に係わる事故があったようには聞いていないので、不況に伴う維持管理の問題から閉鎖になったのでしょう。
高台の上には、遊園地もあり、ファミリーやカップルで賑わっていましたが数年前にここも閉められました。かつて、現在ほど気軽に海外旅行など行けなかった頃は、町が経営するこのような施設があちこちにあり、見所はチャチでも多くの人が訪れていたようです。
当時の本などを見ると1$=350円なんて時代もあって、格安ツアーもない頃には海外旅行は高嶺の花でしたから…。
そんなジレンマが具象化したのか、道内にも異国を模した施設が作られて人が流れていきます。しかし、入場料が高価すぎたり、コンセプトが中途半端、全ての世代に共通の価値感が形成されない等の諸々の事情からリピーター層が育たなかったといったことが衰退の大きな一因であるようです。近場の国なら普通の家庭でも経済的に渡航が可能になった現在では、レプリカは存在意義が無くなってしまったということです。
海水浴場がその例に当てはまるとも思えませんが南国とは違う北の海、夏とはいえ安定した海水浴日和に恵まれない日も多かったことでしょう。それでも体の中に海水と同じ塩分濃度の海(血液)を持つ人間ですから海を目指すのも自然です。
ただし、施設のほうは海水による侵食や変質、波に運ばれた漂流木による破損、季節の寒暖差による自然崩壊などが虚実に見えます。巨大なテトラポッドや護岸ブロックでさえ、カスカスのウエファース状になってしまいます。この程度の破損もやむなしとするところですが、地方譲与税交付金が年々激減する昨今では、存続価値に疑問が出る施設は、惜しまれつつも消えていく運命なのでしょう。
ヒーリングミュージックにも効果音として吹き込まれる音。出生前に母の胎内で聞いた命の流れに似た音。そんな潮騒の音ですが、時には寂しさで心の砂浜を濡らしていきます。
打ち上げられたヨットのように いつかは愛も朽ちるものなのね
あの夏の光と影は 何処へいってしまったの
思い出さえも残しはしない 私の夏は明日も続く…
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コメント
上にばかり気を取られてたら、下もすっかり・・・ですね。
先輩のとらえ方がこれまた泣かせます。「昔はよかった」そんな言葉しか思いつきません。
投稿: カナブン | 2007年10月10日 (水) 16時47分
みんな遠くまで行ってしまうんですね。だから、こういうところも減っていくのです。日本も世界も果して狭くなったのでしょうか?
遠くへの旅が、かなわなかった頃に貢献したという意味において、ここは立派に時代を担ったのでしょう。
投稿: ねこん | 2007年10月11日 (木) 12時09分