« 祈りと救いの小路 ① | トップページ | 祈りと救いの小路 ③ »

2007年9月14日 (金)

祈りと救いの小路 ②

Dscf7409

Dscf7393  ここには聖徳太子堂も併設されています。商売繁盛、家内安全、学業成就などにお参するそうです。ちょっと柱が壊れかけています。弘円寺境内となっていますが住職が常駐しているわけではないようです。
 敷地内に『西国三十三箇所』と『四国八十八箇所』が共に置かれているお話をしましたが、その一方、「西国三十三箇所」について少し…

Dscf7392  西国三十三箇所(さいこくさんじゅうさんかしょ)は、近畿2府4県と岐阜県に点在している観音霊場の総称です。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も古い巡礼行で、現在も『西国三十三所巡礼』として多くの参拝者が訪れます。
 しかし、その始まりは苦難に満ちたものでした。

Dscf7452  718年(養老2年)大和国・長谷寺の徳道上人が62歳のときに病のため亡くなりました。冥土の入口で閻魔大王に出会い、33箇所の観音霊場をつくり巡礼で人々を救うように託宣を受け起請文と三十三の宝印を授かりあの世から戻されました。そしてその宝印に従い霊場を定め、三十三箇所巡礼を人々に説きますが当時、人々の信用を得られず、あまり普及しなかったようです。
 上人は機が熟すのを待つこととして宝印を摂津国・中山寺の石櫃に収め、三十三箇所巡礼は人々から忘れられていきます。

Dscf7427

Dscf7447  270年ののち、花山法皇が紀州国の那智山で参籠していたとき、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた観音霊場を再興するよう託宣を受けました。そして中山寺で訪印を探し出して、三十三箇所を巡礼したことから人々に広まっていったとのことです。

 三十三の数は、観音菩薩が衆生を救うとき、33の姿に変化することに由来するといわれています。西国三十三霊場の観音菩薩を参拝巡礼すると、現世で犯したあらゆる罪状が消滅して、極楽往生できるとされています。

Dscf7449  北海道開拓に従事した人々の多くは、渡ってくるのにも大変な日数を要しましたが、それ以上に開墾の数年間で持参した蓄えもすぐに底をついてしまうような暮らしの中で、故郷との繋がりも自然に切れていき、戻れることはあまり無かったようです。
 かような生活の中にも信心は失うことなく、信仰の聖地に想いを馳せていたことがこのようなミニチュア版ともいえる霊場を形成していったのでしょう。

 そのような背景にあっても、いつしか真意はそれていったのかキャンディーやクレヨンを1本づつ供えてあったりします。やはり、水子霊場の認識の方が強くなってしまったのですね。

Dscf7434

 御仏の願いは、『人々を救うこと』
 だから、救われたいものが集うのもまた、自然な成り行きなのかもしれません。

(つづく)

|

« 祈りと救いの小路 ① | トップページ | 祈りと救いの小路 ③ »

コメント

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 祈りと救いの小路 ②:

« 祈りと救いの小路 ① | トップページ | 祈りと救いの小路 ③ »