三賢者の虚ろな目 ②
何とか、敷地の端までやってきました。すでに幹線道からの引き込み道は消えてしまっているようです。古い農業機械が放置されていますが、ここのものではなく近隣で置いたものでしょう。すっかり背の高くなった枯れた雑草の類が折り重なるようになって、時折足をとられてしまいます。
家の前の広くなったところは、ススキの枯れたものが幾重にも重なっていて、まるで自分が小さくなって動物の背中の上にいるような気にもさせます。少し低くなって土を取った跡のような大きな穴が見えます…あれ?いくつもあるぞ…?
これは、生簀(いけす)のようですね。それも養魚業だったようです。この辺一帯は、畑作がほとんどで、酪農もどちらかというと少ないところ。しかし、養魚業があったなんて記録は、昭和38年刊行から現在までの数冊の地域史を読んでも亜炭鉱はあれど、養魚業者がいたなんて記録はありませんでした。
現在も生簀の中にふんだんに水を注ぎ込む出水口は、主も魚もまったくいなくなったのに働き続けています。
後に資料を隣の地域史、町史まで拡大して調べてみましたがこの地に養魚業の記録は見つかりませんでした。地域史編纂の戸別地図を見てもこの家は存在しなかったことになります。
町史の中に町内の豊富な湧水を利用してニジマスの養魚に試験的に取り組み、成功を収めたため数軒の養魚業が誕生した下りがありました。現在も2軒が残り、大きく育ったニジマス料理を堪能することができます。
しかし、それは町の南部の方に固まって経営されていたため、ここもそういった業者だとかなり孤立していたらしいです。あたりはキツネやイタチも多いため、養魚は難しいと思われますが…(地域史の中にもキツネにバカされた人のお話が出てきます)
現実的に設備は玄人そのものですから、生業にしていたのは間違いないでしょう。
初期の稲作地域が減反により養魚に鞍替えした地域もありますが、それらは先んじて水田があったため可能なのです。その経緯の無いここでは、一念発起の投資であったと考えられます。
事実、地域史に出てこないわけですから、およそ10年~20年おきに刊行された地域史の編纂に組み込まれないほど短命であったということでしょう。
バルブから噴出される水は、ススキで覆われた生簀を相変わらず満たし続け、排水は灌漑溝に流れ込みます。数十年の間絶え間なく続けられた無意味な作業なのか…
小春日和の空の下なのに家の中からは異様な冷たい視線を感じていました。
それは、この世のものではなかったのか? だとしたらいったい…
(つづく)
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