苔の記憶 ①
現在は市町村合併により属する町名は変わりましたが、旧H町。
この学校脇には主要幹線道(国道)が通り、パーキングエリアで休んでいると正面に赤い屋根の建物が見えます。これが町立F山小中学校。
背の高い雑草にグランドが面影も無いほどに覆われてここが学校とは思えないことでしょう。いざ、近くによって見ると校舎というのは一目瞭然ですが過疎の進んだ一帯で後にも先にも市街地らしきものもないことから、ここに学校があったことは土地を知る人のみなのでしょう。
国道沿いといっても存校時にこの道はなく、この山間地へは未舗装道を含み、かなりの遠回りで入らねばならない集落で学校も当時僻地5級の最高レベルでした。
この地の開発は大正7年和歌山県からの団体入植に始まりました。同9年に官設駅逓所や移民世話所が設けられて、山形団体・大阪団体が入植してきます。
人口の増加からやがて、学校教育の必要性が痛感され、大正10年5月20日特別教授所が開設されて、この学校の前身となりました。
昭和12年には八田鉱業所の鉱山開採により児童数が飛躍的に増加。昭和36年現校舎落成。同39年には兼僻地集会所として体育館が完成しました。
当時を考えると、この山岳地帯にしては校門といい、校舎といいかなり立派なものです。
特に校門は高さはともかく、かなりがっしりした大型のもので手製の彫金で作られたと思われる校名「町立F小学校」「町立F中学校」の名がしっかりと残っていました。
現在、校舎は未利用のまま荒廃が進んでいます。同時に一帯の集落も国道が開通しながらも過疎化が進行して空き家も多く、簡易郵便局も閉鎖されています。
グランドとおぼしきところを横切って学校玄関から中へ入ると、前日まで雨が降っていたのか廊下の奥から雫のしたたる音が聞こえます。静かな校舎の中に響くその音は、まるで鍾乳洞の中へ迷い込んだような印象を受けます。下駄箱の大きさから児童数はさほどいなかったように思えます。入ってすぐ右にボイラー室が見えますが床の崩落が激しく、残った根太部分もかなり脆い様子でそこまでいくことはできません。
左の教室が並ぶ側へ向かうことにします。不思議なことにこの学校の廊下には一面ビニールシートが敷かれています(床用のものと思われる)。その下で床板が腐って凸凹になり、所々に水溜りを作っています。あるいは、このシートがなければ床はもっと致命的に腐敗して内部から全体崩壊はとっくに進んでいたのでしょう。かろうじて形を保つのに役立っていたようです。
教室を覗いてみると床に一面鮮やかな緑のカーペットが…と思うほどの苔が生育しています。日本庭園には色々な形があって、そのひとつに苔庭というものがあります。苔も植物でありポピュラーなものですから、このような一面の苔は美しく見えるものです。
苔玉なんかも少し前までブームでしたね。ここにはジメジメしたマイナス印象ではないものを感じます。
廊下はビニールシートがあるので苔は生成していませんがヌルヌルした床面になっており、歩くのには注意が必要です。
雨漏りの水によって教室の床に根ざしたこの苔には、学校の記憶も染み込んでいるのではないでしょうか。その記憶を読み取れることができれば学び舎の楽しかった声も聞き取れるのかもしれません。
(つづく)
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コメント
こ!れ!は!!素敵な廃校じゃないですか!
いや、こんなにボロボロで素敵発言はアレですけど。
前言ってたやつですね。いやーー行ってみたいです。
今度場所を詳しく教えてください。
投稿: haru | 2007年9月10日 (月) 19時34分