祈りと救いの小路 ①
かつて柏林の中に鈴蘭が群生していたことから名付けられた音更町の小高い丘の上にある鈴蘭公園。
十勝川の対岸にありながら開拓期に特殊な事情があり昭和期まで帯広市が管理していました。園内には、北海道を探検した松浦武四郎の「このあたり 馬の車のみつぎもの み蔵を立てて つままほしけれ」の和歌を背面に記した帯広開町記念碑があります。他に明治から太平洋戦争期までの戦没者の慰霊碑、中国との有効記念である仏舎利塔などがあります。
広い園内にはジョギングやウォーキングの人たちが早朝から見られ、日中はピクニックや焼肉を楽しむファミリーも多いところです。
この公園の北端の住宅街と隣接する柏木立の中にこれらの地蔵(観音)群が並んでいます。建立時等間隔に据え置かれただけなので冬場の地面の凍上、春からの解凍の繰り返しのため、危なかしく傾いたものや倒壊して補修されたものも多く見られて少々、奇妙な感もあります。
この地蔵群は一端で「水子供養」に建立され地蔵の数が水子の数。さらに救われない水子たちが彷徨う霊場との誤解を受けていることもまた、事実です。
実際、この霊場の姿は西北側の『西国三十三箇所』と北端の『四国八十八箇所』。また、ここを管理する弘円寺の南に近隣町から移された『十勝新三十三観音霊場』、堂屋を持つ馬頭観音及び地蔵菩薩が数体。西北崖下の十勝管内屈指の大きさの不動明王。各霊場の番外、重複も含めると総数約300基を誇る十勝最大の霊場で、信心はともかく、一体一体見ていくと非常に興味深い郷土の史跡。
特に不動明王の脇侍で知られる矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制吨童子(せいたかどうじ)など管内では類を見ない36体の童子像は必見だそうです。
夜、『赤ん坊の泣き声が聞こえた…』とか『足に何かまとわりついてきた』との噂もありましたが真意はともかく、一般住宅も目と鼻の先なのであまり騒いでは頂きたくない場所です。もちろん水子供養に訪れる人もいないわけではありません。
先の北西崖下の不動明王の脇には湧き水があり、霊水として人気も高く、遠方から汲みに来る人が多いところです。
元々、巡礼は歩く宗教で、日常から離れて仏と二人旅を通じて御仏の心を体験するものです。本土を遠く離れて開拓に従事した仏教徒の悲願が具象化したのが道内各地の寺院境内や公園などに点在するこういった仮巡礼と言えるものなのでしょう。
現在では山本ラク氏の開いた道内各地を巡礼する『北海道三十三箇所霊場』なるものもあります。【函館市:北南山高野寺(ほくなんざん こうやじ)を起点として東端・根室市:護国山清隆寺(ごこくざん せいりゅうじ)。更に最北端、稚内市:高野山最北大師真言寺(こうやさんさいほくだいし しんごんじ)から南下、静内・三石を経由して室蘭市:高野山大正寺(こうやさん たいしょうじ)までの三十三箇所を結ぶ】
現在はこれらの実際の巡礼が北海道内でも執り行われていますが、開拓者の子孫の信仰の変化か、豊かになったことから実際の巡礼に赴くようになったためか、これら巡礼地のご本尊を模した巡礼地は、史跡としての意味合いの方が色濃くなったような気もします。仏の並ぶ小道には自転車のタイヤ跡や投棄物も目につき、日常から忘れられかけてしまっているのかもしれないですね。
(つづく)
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コメント
おぉ!ここは先日行った・・・いや違う。
私も仏像や地蔵が好きなのでとてもいい感じです。
投稿: カナブン | 2007年9月13日 (木) 08時19分
ここの石仏は、寄進者の刻銘もあることと造形のレベルから財力のある人々によって築かれたようです。レベル的には札幌丸山と堂等でしょう。
場所によっては千手観音の背面の腕がレリーフでごまかされたものもあります。
寄進者の背景などにより、異常に人気が有り、供え物や華の絶えないもの。風化が進んで原型のわからなくなったものなど色々ありました。
投稿: ねこん | 2007年9月13日 (木) 11時07分