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2007年9月30日 (日)

カムイ・ピラ石仏群

アフガニスタンの首都カブールから230㎞北西に位置するバーミヤン渓谷。
ユネスコ世界遺産にも制定されたここには東西に巨大な大仏が渓谷壁面に掘られ、その数1000以上に上る石窟があることでも有名です。

 2001年ターリバーン勢力の侵攻により2対の大仏は爆破され、その様子を世界に発信したターリバーン勢力は、世界的に非難を浴びました。
(詳細→『バーミヤン渓谷の文化的景観と古代遺跡群』)

 今回の物件は、バーミヤンとはスケールが比べ物になりませんが、偶然の作り出した光景をご覧いただきます。

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Dscf0602_2  峠や最寄のJR駅のある本町方面をこの地域に向かい、高台の上から目に入る対岸の高台。そこに何やら崖崩れのような跡があります。
 ここは通称『ガンゲ』と呼ばれ、この地域で生まれ育った人々は、これを見て始めて故郷に帰ってきた事を実感します。

Dscf0604  しかし、この高台が人のいなかった遥か昔に一帯を襲った超巨大火砕流の痕跡であることを知る人は、さほど多くは無いようです。
 火砕流の跡ということで、土砂の大半が火山灰で形成されているようです。こういった場所は、ここだけではありませんが、地域史等にも載るように地域に認識されている現場は、知る限りここだけのようです。
 ここへ近づいたことは、今までありませんでしたが今回、寄れるだけ寄ってみることにしました。

Dscf0636  この一帯は、かつて町の穀倉地帯とまで言われるほどの水耕地が広がるところでした。
今では、当時を記す記念碑や灌漑溝跡がわずかに残る程度で、昔は水田が広がっていたことを知る人は地元でも決して多くはないでしょう。水田が消えていったのは、栽培成績ではなく、1970年代当時に米余りの対策で国の出した減反政策に寄るものでしたから…

 開拓期、イモやカボチャや蕗ばかり食べていた当時の人々の悲願は、米の飯でしたので水田の試作には積極的でした。一部地域は火山灰土壌のために引いた水がすぐに地中に浸透してしまい不可でしたが、地域の両側をこの『ガンゲ』を伴う高台に挟まれた小さな盆地とも言えるところで、試作初期は、技術不足・品種の不適合・水温の問題で試行錯誤を繰り返しました。
 悲願と努力の末、勝ち取った収穫でしたが当時の喜びを記すのは、現在記念碑のみです。

 幹線を右往左往して何とか『ガンゲ』手前の十勝川河川敷へ出ました。

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『おおぉっ!』 現場について思ったのは、まるで巨大石仏のように見えたことでした。
それも1体や2対ではなく、無数の像が整列しているかのように見えます。
 これは、河川の侵食と風と雨が作り出した彫刻です。現場にいると壮大ですね。

Dscf0607 樹木の生育により若干、見え辛くなったり見えなくなったりしている部分も広がりましたが、以前は高台の広い面積にこのような跡が見えていたようです。
 砂利や土のように火山灰も商品価値が出たため、この造形が失われた地域もありますが、ここはまだまだ健在でいてくれるでしょう。

 地域の顔とも言える『ガンゲ』ですが観光景観として紹介されるでもなく、土地の見張り役として、ただ静かにかつての水耕地帯を見下ろしているのでした…

※『カムイ・ピラ(神の崖)』の名は、ねこんの創作であり、実際には『ガンゲ』の名で地元に知られています。

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2007年9月29日 (土)

ブラボー!聖マッスル

 ビリーも顔面蒼白になるような筋肉質の肉体。その肉体を誇示しながらも恥ずかしさ故、噴射するような汗。
 モラリストの本心とマッスルマニアの本音がぶつかり合うブロンズ色の兄貴。

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 我、師匠によると『山上たつひこの漫画でこんなのがあったね…』
そういえば海パンひとつで蝶ネクタイ。虚ろな目をしたキャラクターがいたような気もします。
 超プレミア付き漫画古書で『聖マッスル』というのがあったそうです。

 男が花畑の中で目覚めると以前の記憶が一切無い。ふと気がつくと自分が彫刻のように完璧な筋肉の体を持っていることに気がついて、しばし自分に惚れ惚れするという始まりの話らしいです。連載当時は中途強引打ち切りの様相もあったそうですが、かなり奇想天外な話の筋らしく既に絶版の今、さらにプレミアが付き、専門店でも高額の買取をしているそうです。

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Dscf9385 さて、こちらの『聖マッスル』はドライブインの横手の池の淵にゆったりと構えていますが、手前の巨大な地域案内マップの看板に隠れて、ほとんど認識されることはありません。
 地域の人が山側へ向かうとき近道に使っている道につながる沿道なので土地の人には認識されているのでしょう。
 池にむかって放水するバルブを隠すためにかぶされていますが、管理が行き届いているともいい辛く、池に肝心の魚がいるような気がしませんでした。仲間がいるかと周囲を探しましたが、どうやら彼ひとりのようです。
 欧風、とくにローマかギリシャのイメージを作ろうとしたのかもしれませんが、付帯した施設はすでに閉鎖されてしまい。ドライブイン本体を除いては現役は彼ひとりになってしまいました。

Dscf9400  前を走る道の先はレンガ建ての工房(倉庫を改造再生したものか?)だったところでした。
そこは数年前に閉鎖されてしまい、間口を預かる案内役でもあった彼は、存在意義を無くしてしまい、結果として自分の筋肉に対してストイックなほど固執するようになったのでしょう。

 ボディビルダーのように異形のごとく肥大した筋肉ではなく、まさに美と呼ぶにふさわしい彼の体にエールを送りましょう。何かと噂の渦中になるこの街に活気をもたらすためにも…

ブラボー! マッスルでハッスル!

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2007年9月28日 (金)

幽霊ホテルと呼ばれて… ⑤

そもそも、幽霊は寂しいところに出るのか?
幽霊が出るから寂しくなったのか…

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Dscf5149  建物は、人を含めた回りを記憶する。それは、こどもの日の柱の傷や落書き、悪戯の障子の穴のように具体的なものもありますが、静かに…それは乾いた土に雨が染み込むがごとく行われていくようです。
 何かのきっかけが、その記憶回路に触れたときに現出するのが、あるいは『幽霊』と呼ばれるものかもしれません。
 そうでなければ呪いの一念があるにしても軽率過ぎるほど世の中は幽霊だらけということになりませんか? 霊を愚弄する気はありませんが噂を真実とするならば、呪われて然るべき者は既に呪われていなければなりません。

Dscf5164  このホテルは、業績不振のためやむなく閉鎖されました。幽霊が出るため皆逃げ出したのではありません。時代を作り、時代を見届けることなく沈黙したのです。
 ここでは結婚式披露宴も行われ、幸せを誓い合ったふたりと祝福する大勢の笑顔があふれた場所でもあります。
 思い出のホテルが今では幽霊ホテルだなんて笑い話にもなりません…

  幽霊とかUFOとかUMAとか超能力とか世の中は不可思議なもので溢れています。
人間の想像力は、ずーっと先に行ってしまってそれらのものは、銀幕の中などにあたかも現実のように現われては消えていく…でも、その確信には未だ触れていないだけに心くすぐるのかもしれないですね。
 『心霊』を探る旅は、ある意味現代の民話を探る旅でもあるのでしょうか。
さすれば我々の廃墟物件を訪ねる旅は、記憶の再生の旅と言えるのでしょうか?

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Dscf5213 その答えは摑んだようで、まだ摑みきれていない。
 何か宝探しのような感もあります。
 自分の記憶の底にある、無くした引き出しの鍵を探している気がするのかもしれません。
 そんな『デジャヴ』というような感覚が癖になったのかな。

 まだ、物心付いたか付いていないかの頃にここへは来ているらしいので、このホテルに関しては、『デジャヴ』は当てはまらないでしょうが…

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 ここでの少ない記憶は、自分の頭ほどの大きさで栗の形の堅焼き煎餅を一生懸命食べていたことです。

乾ききった浴室を見ていたら、記憶の引き出しが、ひとつ開いた─ 

 

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2007年9月27日 (木)

幽霊ホテルと呼ばれて… ④

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Dscf5182  閉館されて10年以上経ちますから、現在のような管理がされていない頃は、心霊スポットとして昼夜問わず、頻繁に人が出入りしていたようです。
 まだ、ねこんが「そんな物騒なところ一生いかないぞ!」と思っていた頃は、あちこちのドアはまだ開けっ放しでした。現在は、基本的に厳重に何度目かの板張りがされています。
 上の階は外から見るとガラスが割られて、レースの白いカーテンが通り抜ける風にはためいています。あるいはそれが幽霊に見えないこともない…
 お風呂場の備品がロビーに散乱しているのは、そういった「不可思議空間」を作るための演出なのだろうか?

Dscf5148  心霊スポットである所以は、先に(①)語ったように周辺で起こったことが起因するのか、他に何か言われもあったのか、ここに関しては元のはっきりしない噂がありました。
 「館内で血まみれで白目の女に追われた」とか「階段や廊下でスッと動く影を見た」という話は聞きましたがいずれも何度目かの又聞きで真意の程はわかりません。

Dscf5140  それを確かめようと思ったわけではないですが、既に夜も深まってきました。階段オンリーで似たような館内客室を歩き回るのも厳しくなってきたので、とりあえず最上階まで行き、降りてくることにします。
最上階近くなっても階段を這い回る黒いホースは、ずっと続いています。階段が終わってみるとそこはもう屋上。謎のホースは、この近くにある集水槽に繋げられています。
 この水槽の水を抜くために繋げられたようです。うっすら異臭もあるので中はどうなっているかと覗いてみると出口を見失った鳩の死骸らしきものが10羽前後。猫と同じく鳩もやたらと廃墟に入りますが出口を見失ってしまうようです。

 ここからは、別の階段で屋上に抜けられます。町や民家の灯りが遠くに見えて、まさに地上の星のごとくの光景が闇の中、広がっていました。でも、夜は孤立した感がやはり強いです。

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温泉でありながらどこかドライな印象がするのは、風化や破壊が進んでいるだけではないようです。旅の折、旅館に到着して部屋に荷を降ろしたときのホッとする感じが廃墟となってしまっても残っている気がします。部屋が「和」でありながらビジネスホテルのような無機質な「箱」という印象が拭えない、なにかが物足りないのでしょう。
それは、立地条件や箱の大きさでは無いと思いますが…

(つづく)

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2007年9月26日 (水)

幽霊ホテルと呼ばれて… ③

 さて、地元のグチみたいな話はこの辺にしましょう。実際に内部の状況ですが、次のことは覚えておいてください。

①監視カメラの位置が分かる画像は、公開しません。
②内部に入った方法と経緯は公開しません。(通常は無理です)
③記録したつもりで自分が記録されます。運が良いわけではありません。
④警告板はハッタリではありません。
⑤ここは廃墟ではありません。荒らされただけです。

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Dscf5168  ホテルは倒産したわけでは無く、業績の悪化から廃業になったものです。然るに当時の現状のまま町に寄付という形になっています。荒らされてしまった経緯には、所有権を公に誇示しなかった町側にも幾らかの責任もあると思いますが、経年のわりには荒らされたところは少ないと思うべきでしょう。もちろん大半のガラスは外部から投石によって割られてしまっていますが…

 厨房は食材こそ残っていませんがフライパンや食器などがそのまま残っていて、ついさっきまで調理中だったような気さえします。若干、割られた食器や倒された業務用冷蔵庫はありますが、整理して閉鎖したわけではないようです。

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Dscf5128  喫茶兼バーが一箇所。大浴場はともかく夜の楽しみが、かくも寂しい状況では確かに客も遠のく気持は否めません。近くの温泉街の各名門は、館内にゲームセンター・ナイトスポット・ラーメン店・寿司店などを供え、夕食後のお腹と心の隙間を満たしてくれるのですが、ここでは、どうしてもロビーで飲んでいる感もぬぐえず、かなり郊外なので外は漆黒の闇。かすかに遠くの街の灯りが見える程度です。
 それをいうなら一般の小さい宿はどうかというと利用する側の気持というのがあって、少し寂れかけた宿にはそれなりの風情があって、そういう雰囲気に浸りたいときや大きい温泉ホテルならちょっとしたテーマパーク的気分を味わいたいものです。
 その客の心理を生かしきれなかったのか、はたまた建設会社の経営でノウハウで大手に太刀打ちできなかったというところでしょう。
Dscf5179 客室が全て和室というのも若干問題としてはらんでいたように思います。 

 それでも料理に関しては、研究していたようで単に広告やメニュー用とは思えないほどの料理の写真が残っています。その努力で各種団体、機関が会合に利用することもあったようです。それも頻繁にあったわけではありませんが…

Dscf5209Dscf5141   当然のごとく、エレベーターは現在動きません。客室へは階段を使うことになりますが、建坪が小さいながらも階段があちこちにあり、業務用でもふたつ。客用でもふたつ。上がる途中で、防火シャッターが硬く、動かなくなっているところもあり、階段をあちらへこちらへと動くことになり、迷いかけてきます。階段の途中、下は何処まで続いているのか太いホースが延々と最上階目指して伸びています。
 「何に使っているんだろう…」その答えは後として、客室の方を見ていきます。

Dscf5138Dscf5144 元は部屋の中の備品だったものがあちこちに散乱。賊がフロントあたりを物色して見つけた鍵で部屋の貴重品入れの金庫を開け回っていたようです。お客がいないところの金庫に物が入っているとも思えませんが…
 後は部屋電話やスリッパや壊された照明器具、そして古めかしい小さな鏡台があちこちに散らばっています。

 廊下は一見、洋風に見えるのに部屋は全て畳敷きの和室。上の階の一等室すら和風です(ふた間あるだけ)。確かにまた来たいとは思えないでしょうか。
 それでもお風呂はユニットバス。あちこちの窓が投石で破損している事もあり、鳩が侵入したらしく、羽も散乱しています。

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Dscf5157  もうひとつ気になるのが各階の備品庫と思われるところには、ポータブル灯油ストーブが部屋数分供えてあったことです。ということは集中暖房ではなかった?
窓の下には寒気用のヒーターはあるのですが…
 湯治宿でもあるまいし、これはちょっと辛かったでしょう。

(つづく)

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2007年9月23日 (日)

幽霊ホテルと呼ばれて… ②

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Dscf0747  このホテルは、幹線道から見ると、そこそこ大きく見えます。
正面から見て間口が大きいのですが川に向かっての奥行きがあまりありません。
河川敷で道を挟んで反対側は高台というか、大きな崖上になっているので奥行きを出せなかったようです。
 故に全ての客室を始め、浴室、宴会場、食堂は川側に面していて、雄大なロケーションと秋鮭の遡上を部屋にいながらにして、堪能できたわけです。特に浴室は奥行きに乏しい土地ながらも川に向かって張り出した形で作られ、大平原の湯にふさわしい景観を作っていました。

Dscf0746  しかしながら、その光景以外に売りといったものに乏しく、ホテルにありがちなバーも中途半端で、ホテルの回りは闇ばかりの孤立した地域であるため、近場の温泉街の方に客足が流れていってしまったようです。
 なにも、環境に恵まれていなかったのはここだけではなく、努力と工夫で自らの『売り』を作っていったホテルや観光地は、たくさんあります。では、ここは努力を怠っていたのかとなると少し事情が違い、かつて団体の北海道観光がもてはやされていた頃は、ツァー会社との提携で、パック旅行の宿泊地には組み込まれ、紅葉とアキアジという組み合わせも成立していました。経営には申し分ない集客はあったわけです。

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Dscf5128  ただ、近年北海道観光(団体旅行)に関して、こんな寸評もありました。
『自然は一流 サービス二流 料理は三流』 こんな話をそうだと素直に受け取れないものでしょうが、実際こんな評価が聞かれるようです。
悪いものを出していたわけではなく、素材が良くなかったわけでもなく、ただ安定の裏でニーズがどんどん変化していった事に気づくのが遅れてしまったのではないでしょうか。
 冬季のスキーツアーにしても集客が激減して経営自体が危ういのも何か対策に出遅れてしまった感があります。
 ジャガバターがいくら美味しくても、絞りたての牛乳が美味しくても、ワイルドにジンギスカンを振舞っていても、それだけではダメになってしまったということなのでしょうか。

Dscf5133  そして、幹線道の整備や高速道路の敷設。それによって旅行期間が短縮されて目的地一直線になり、宿泊の拠点とされたところまで素通り。中間の昼食地点も素通り。隣接する商店もコンビにも煽りをうけて閉店して、大手温泉街のお膝元で栄えた街は、まるでゴーストタウンのようになったところもあります。せわしない(いそがしい)日々の暮らしの中、旅もまたせわしなくなってしまったのか…。

 とある、東京を活動拠点にしていたアート作家が道東の大手温泉街からわりと近い、ある町で自分の作品群を網羅した私設美術館を開いています。
 毎年、氏のところに行って話をしますが、こんなことを氏は言っていました。

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Dscf5129 『いつまでも、同じ木彫りを並べていたんではダメだと思うよ…』
その言葉には、深く大きい意味があるように思います。
北海道観光も徐々にではありますが、変化はしてきています。個人向けのツァー、オプションなど。あるいは世界遺産、北海道遺産、ラムサール条約関連地、WRC観戦関連等…。観光の材料はそろえど人の急流は緩やかにならず、淀むことも無くただ急激に引いて行きます。経済効果数億円などという話の元、事業が展開してある意味成功を収めても、経済効果の結果はあまり聞かれない。
 その影で時の変化にもまれてバラバラになって堕ちていったところは、時代の篩にかけられた、仕方の無い犠牲者だったのか…?

 少なくともそれらのことは、幽霊の仕業などではないようです。
脅威は内から出たのか、外から来たのか…

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(つづく)
 

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2007年9月22日 (土)

幽霊ホテルと呼ばれて… ①

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 そのホテルの窓から外は、いかにも北海道らしく地平線まで田園風景が広がっている。
そのロケーションとホテルの間には、大きな川が横たわり、西から東へ流れる流れの途中に堰堤があり川面の高さに段差をつけている。
 この一帯は、かつて稲作の盛んなところで、田に川の水を誘引するために築かれたものです。現在、稲作はほとんどなくなり、当時の面影を知るのは、畑の端に見える水門やこの堰堤だけです。

Dscf0735  この川にアキアジ(秋鮭)が遡上し、堰堤を必至に飛び越えていく光景が見られるということで、まだ娯楽の少ない時代には近郊の人達でごったがえし、川の中も外も大変混雑していたようです。地元の建築会社により建設・経営された当ホテルは、近隣の大きな温泉街からは離れながらも堰堤効果で集客力には恵まれました。

Dscf0737  大きな川では何かしら事件・事故があるものですが、この川も同様、過去に堰堤付近で女性の水死体があがったことがあったそうです。それが事の始まりなのか夜間、男性がひとりでこの辺りを車で通ると幽霊を乗せるという話が伝わり、心霊書で紹介されたこともありました。
 決定的なのは、当時一世を風靡した『恐怖の心霊写真集』の続巻において、アキアジの遡上の風景の上に青白い顔の女性が死装束のような白い着物の姿で重なっているという驚愕の写真です。

Dscf0734  噂はありましたがホテル自体がその影響があったわけではなく(噂は出たとしても)、一般人の生活向上による娯楽の変化や交通事情の変化で、あらゆる観光地が何かしらの影響を受けました。当ホテルも集客力の落ち込みで廃業を余儀なくされて、残った建物は町に寄付という形にして、現状のまま託されました。
 町も『道の駅構想』や近隣の自然公園の『サブコア施設』としての思惑もあり、受託しましたが、町自体の第3セクター事業の売り上げ落ち込みや全道的な地方譲与税給付金の落ち込みで、ホテルの再建には消極的になり消防訓練に使用したほかは、特に具体的な利用はありませんでした。実際通行人にとっては、廃ホテルとしてしか写らなかったことでしょう。

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 堰堤・水死体・幽霊の出る道・心霊写真…それらの出来事と荒んだホテルを繋げるのは、ごく自然な話なのかもしれません。
 やがて、「どうしても幽霊と戦わないと生きている意味を見出せない」人たちがここを戦場にしてしまいました。彼らにはここが町の管理下にあるのは知らなかったのでしょう。
 町側もバリケードの強化、警告板、夜間照明、防犯装置、定期巡回などの対策を講じましたが、いたちごっこの様相です。

Dscf0749  その間、町はホテルの再利用を外部へアプローチしますが、既に荒廃した有様と度を越えた老朽化で視察の団体から良い返事を得ることはできなかったようです。取り壊すにしても解体見積もりで2千万の出費は、現在の町財政事情では、出せないものらしいのです。
 期を誤ったのか、悪戯の度が過ぎたのか、ホテルは再利用の道も無いまま、無残な姿で、この場所に残っています。

 投石で割られたガラスや薄汚れた壁をさらしているホテルの近くでは町営のパークゴルフ場がおおいに繁盛して、ホテルの前は利用者の車でいっぱいという光景は、とても皮肉に見えます。

 友人とホテル脇の幹線を通ると「ここ、幽霊が出るんだよね」と言った話を良く聞きました。それ以上のことは誰も知らないようですが、噂は本当なのでしょうか?

(つづく)

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2007年9月21日 (金)

三賢者の虚ろな目 ③

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Dscf3172_2Dscf3177_2    窓もドアもあらかじめ外されていたらしい家の中は、ニオ積みの傘(刈り取った豆を乾燥を進めるため円筒形に積み上げて上に麦わらなどで作った傘をのせる。今はビニール製のものが主流で、わら製のものは見かけなくなりました)が大量に放置されています。
 照明器具(蛍光灯)が残っているので思ったほど昔では、ないのかもしれません。
 養魚業らしく魚網も残してありました。

Dscf3178 Dscf3181  ニオ傘自体は近隣農家が格納庫に使っていたのでしょう。既に風化しかかってボロボロです。家の構造自体は同年代の住宅と大差の無い造りですが、柱は若干細くなっているような気もします。内壁も裸ベニヤではなく、圧縮型の集製材が使われています。
 所々にカレンダーの金具や良く分からないものが吊るしてあったり、生活跡はみうけられますが、商売や家族構成に係わるものは発見できません。もしかすると、この麦わらの下に何か残っているかも…と思いますが、さすがにここをほじくる気にはなりません。

 とにかく麦わらに足をとられて歩きにくいので、他の窓から回り込むことにしました。
南側からだと屋内全体が見えます。3部屋+台所という間取りでしょう。天井近くには造り棚があります…

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『え…?』

虚ろな顔が天井辺りからこっちを見ています。凄く不気味で普通の人間よりふた周りは大きな顔が… それもひとつではありません。

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Dscf3179 巨大なのが計3つ。 『うっわぁ~ これは引くな…』
スズメバチの巣です。彼らの巣は冬には廃墟になってしまうそうで、これらもそうして放置されたようです。そうとは分かっていても身震いがします。

Dscf3192  昨年の夏、庭の野菜を手入れしていると妙にスズメバチを見かけるので近所に巣があるな…と思ってたらよりによって自宅の2階のテラスにありました。そのときで直径15㎝くらい。ちょうどこの年度から地区行政の「スズメバチ駆除」の補助金が廃止され、個人で駆除依頼すると出張ひとり6,000円~ほどするので自前で何とかしようと模索。
 とりあえず敵の戦力調査を兼ねて夜、2階のテラスドアから棒で突っついて急いでドアを閉める…ということをしてみたら少なく見て30匹くらいは出てきました。

 結局、薬局で専用の薬剤(噴射式で5m飛ぶタイプ。10メートル用もあり、噴射というより放水と言った感じです。しっかり持たないと手がブレます。)を購入しましたが、ここのは、そのときのサイズの4倍はあります。
 虚ろな顔の賢者たちは、この家の中で無表情な視線を外へ投げ出しています。それは、忘れられた家の無言の主張だったのか…

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 この、忘れられた場所を天国にしているもの達がいました。湧水の豊かな生簀に『ゲーコ ゲーコ…』姿は見えませんがたくさんのカエルがいるようです。
 あちこちにカエルの卵が輝いています。
 バルブはこのカエルのために清らかな水を湛え続けているのでしょう。

そして、虚ろな目の三賢者は、そんなカエルたちを静かに見守る防人なのかもしれません。

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2007年9月20日 (木)

三賢者の虚ろな目 ②

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 何とか、敷地の端までやってきました。すでに幹線道からの引き込み道は消えてしまっているようです。古い農業機械が放置されていますが、ここのものではなく近隣で置いたものでしょう。すっかり背の高くなった枯れた雑草の類が折り重なるようになって、時折足をとられてしまいます。
 家の前の広くなったところは、ススキの枯れたものが幾重にも重なっていて、まるで自分が小さくなって動物の背中の上にいるような気にもさせます。少し低くなって土を取った跡のような大きな穴が見えます…あれ?いくつもあるぞ…?

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Dscf3161  これは、生簀(いけす)のようですね。それも養魚業だったようです。この辺一帯は、畑作がほとんどで、酪農もどちらかというと少ないところ。しかし、養魚業があったなんて記録は、昭和38年刊行から現在までの数冊の地域史を読んでも亜炭鉱はあれど、養魚業者がいたなんて記録はありませんでした。
 現在も生簀の中にふんだんに水を注ぎ込む出水口は、主も魚もまったくいなくなったのに働き続けています。

 後に資料を隣の地域史、町史まで拡大して調べてみましたがこの地に養魚業の記録は見つかりませんでした。地域史編纂の戸別地図を見てもこの家は存在しなかったことになります。
 町史の中に町内の豊富な湧水を利用してニジマスの養魚に試験的に取り組み、成功を収めたため数軒の養魚業が誕生した下りがありました。現在も2軒が残り、大きく育ったニジマス料理を堪能することができます。

Dscf3162  しかし、それは町の南部の方に固まって経営されていたため、ここもそういった業者だとかなり孤立していたらしいです。あたりはキツネやイタチも多いため、養魚は難しいと思われますが…(地域史の中にもキツネにバカされた人のお話が出てきます)

 現実的に設備は玄人そのものですから、生業にしていたのは間違いないでしょう。
初期の稲作地域が減反により養魚に鞍替えした地域もありますが、それらは先んじて水田があったため可能なのです。その経緯の無いここでは、一念発起の投資であったと考えられます。
 事実、地域史に出てこないわけですから、およそ10年~20年おきに刊行された地域史の編纂に組み込まれないほど短命であったということでしょう。
 バルブから噴出される水は、ススキで覆われた生簀を相変わらず満たし続け、排水は灌漑溝に流れ込みます。数十年の間絶え間なく続けられた無意味な作業なのか…

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小春日和の空の下なのに家の中からは異様な冷たい視線を感じていました。
それは、この世のものではなかったのか? だとしたらいったい…

(つづく)

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2007年9月19日 (水)

三賢者の虚ろな目 ①

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 季節は春。今年は異例の降雪量の少なさと気温の上昇が早かったため、雪解けが想像以上に進みました。北海道において冬場の雪は自然のダムのようなもので、たゆまない川の流れは、この雪に大きく左右されます。地域により節水事態になったところもありましたが、冬期間の降雪の少なさから秋撒き小麦が凍枯して若干の減収と収穫期に荒天が重なり倒伏などが目立ったほかには、冷害時には強いとされているジャガイモ関連種も及第点とされて畑作の作況は全般的に良かったようです。
 反面、酪農の方は真夏日が連続して、乳牛もグロッキー状態。トンネル換気(牛舎の片側に巨大な換気装置を数基設置して、反対側へ強制的に風を通す。)をするも、熱中症のためにダウンの牛が続出したそうです。
 以上今年の現状作況報告。駐在員のねこんでした。

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Dscf3156  そーいう話は置いといて、小春日和の畑です。いつもの年なら、まだ若干の雪が残っていて陽に照らされて畑からは湯気がもうもうと立ち上るような頃です。まだ、植え付けには入っていませんが、この夏収穫される小麦は、まだ小さいながらも一足早く命の芽吹きを感じさせます。
 そんな、季節の絵師がまだ、絵の具箱の色を試しているような風景の中に見える1軒の廃屋。『あそこへ行ってみたい…』
 でも、近くの道は町道とされていても私道同然の状況。高台のこちら側は全て畑です。現在は、特にジャガイモ栽培農家にとって、検疫結果によっては減収にもなる『ジャガイモシストセンチュウ』と呼ばれる害虫にシビアになっています。靴の裏に若干ついた土を媒体として蔓延することもありうるこの害虫は、土中に生息するため、防除が難しく、10年前後はそこに存在するので、看板を立てるなどして部外者の立ち入りを制限しています。
 しかし、山菜採りなどで郊外の畑の際に入る人は後を絶たず、畑作農家の悩みの種でもあります。

 我々の物件探索も少なからず、そういったことに関係してくるので、マナーと配慮は重んじてください。

『すいませーん。あそこに見える廃屋らしいものを撮らせていただきたいんですけど…畑の際を歩かせていただいていいですかー?』

『そうですか。あんなボロ屋で良かったら、どうぞどうぞ。是非どうぞ』 

Dscf3196 うーん 調子狂うな…
 とりあえず、承諾も取れたので、ヘコヘコ歩いていきます。幹線からは小さく見えましたが歩いてみると遠いな…あぜ道沿いなので直線でいけないことがなおさら遠くさせます。
『暑いな…モッズコートなんか着てこなけりゃ良かった…』
桜にはまだ早い4月とは思えない北海道。
 途中にはエゾシカの足跡が。今時期の小麦の芽を食べちゃったりするんですよね。

見える家はたぶん離農跡だと、始めは思っていました。
その敷地に到着するまでは…

(つづく)

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2007年9月16日 (日)

ウルトラマンルイン

一度も思いませんでしたか? 
なぜウルトラマンが遠い星から地球を守るために来るのか。
それも命がけで…

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Dscf8781  小雨が降っていたためか、子どものいない公園。
ブランコや滑り台などの定番遊具が並ぶ一面の芝生の中、ウルトラマンが光臨しました。
彼の目的は少子化の時代、不審者から子どもを守るためです。
それは現在、化面ライダーも忘れてしまったヒーローの原点ですね。
 ウルトラマンサイズだと地球の平和を平和を守るのが最もふさわしいのですが、彼は基本を重視する主義のようです。ちなみにカラータイマーは、はなから壊れているのでフル在駐が可能。

 でも、この公園芝生にしては、伸び気味。しかも、あまり痛んではいないので子どもがここで遊んでいるのだろうかと心配にもなります。このウルトラマンの正体、ゲームセンターなどで見かける本体がファイバー製の100~200円を入れて遊ぶタイプの遊具。
 更に驚くのは、この一帯は農村地域の一部を宅地に分譲したようで戸数は少ない集落ですが、ほとんどの家の庭にこれらの遊具が据えられています。
 キティ・アンパンマン・ポケモン他…この公園に負けない、4~5台を所有する家もありました。それで、この幹線を通ると奇妙な感じがします。

Dscf8784  公園を取材中、通りがかった近隣のお年寄りにお聞きしました。
「確かにこの辺の家は、ほとんど持っているよ。雑品屋がユニックで運んでくるね。うちは無いけどさ…」
 おそらくは、どこかのゲームセンターかメーカーの廃棄物を仕入れた廃品業者の金属的価値の少ない商品を誰かが安価で買い付けたのが、子どものいる家用に。あるいは、斬新なガーデニング素材として集落でブームになった…そんな気がします。
 確かに近郊にそれらの業者が数件見られました。それにしても雨や陽に照らされているのに退色も始まっていないので最近、ブームになったようでした。

 これが、あまりにも広まってしまったため、各家がそれぞれ遊園地になってしまい、肝心の公園の人気が下降してしまったような気もします。

がんばれウルトラマンルイン! 
外敵には強いが守るべきものがいないと寂しいよ…

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ウルトラマンがなぜ、遠い地球までくるのか…
母星は、みんなヒーローで守るものがなかったからか…?

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2007年9月15日 (土)

祈りと救いの小路 ③

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 あまり小難しいお話もなんですが、もうひとつ巡礼行のなかでも最も知られる『四国八十八箇所』についても簡単に触れてみましょう。

Dscf7383  多くの仏教宗派の開祖の中でも弘法大師として親しまれる空海は、四国・香川県の善通寺市で生まれました。大日如来(だいにちにょらい ※インドではビルシャナーと呼ばれる)が現世に姿を現したとまで言われた空海は仏道修行のため唐に渡り、帰国後は真言宗を興し、各地に寺山を開いたほか、水田振興など庶民の福利厚生のためにも多大な貢献をしました。
 四国各地にはこうした空海ゆかりの寺山がたくさんありますがこの遺跡が四国八十八箇所霊場になります。
 巡礼の始まりは、弘法大師の姿をもとめて四国を21回も回ったという衛門三郎と言う人につながります。彼はやがて病に倒れ、死の淵に来たときに大師が現われて生前の罪を許しました。「なお願いはあるか」の問いに三郎は「河野一族の世継ぎに生まれ変わりたい」と答えると大師は三郎の手に【衛門三郎再来】と書いた小石を握らせました。
 数十年後河野家に生まれた男の子の手には、遍路の功徳の証明である再生悲願成就の例の小石が握られていたそうです。この石は現在も八十八箇所第五十一番目の愛媛県・石手寺に寺宝として存在しているそうです。

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Dscf7399  江戸時代頃から庶民の間に巡礼が流行し始めました。
「西国三十三箇所」「熊野詣」「善光寺参り」そして『四国八十八箇所』です。
小豆島には、この八十八箇所を模した『小豆島八十八箇所霊場』、江戸には『御府内八十八箇所霊場』が作られ【写し】とか【移し】と呼ばれ、全国各地にも大小さまざまな霊場が作られていきます。

Dscf7377  他の巡礼と異なり『四国八十八箇所』を巡ることを特に【遍路】と言い、巡礼者は【お遍路さん】と呼ばれます。八十八箇所全てを回るとその総距離は1200~1400㎞程。
 遍路で各札所を回ることを【打つ】と呼び、1度の旅で全て回ることを【通し打ち】、数回に分けるのを【区切り打ち】と言います。順路通りに回ると【順打ち】、逆に回ることを【逆打ち】。特にうるう年に逆打ちを行うと倍のご利益があるそうで例年よりも人出があるそうです。これは、うるう年の逆回りは【お大師さん(弘法大師)】とすれ違うと言う言い伝えによるものだそうです。
 現在は車やバスで巡るのも一般的ですが、それでも10日前後。通常の徒歩で巡れば40日前後の巡礼になります。現在も多くの巡礼者が大勢いますがその性質は信仰だけに留まらず、「自分探し」「癒し」の目的で回るものも増えています。そのため、一時は減少傾向であった本来の「歩き遍路」も増加してきたそうです。
大師さまの功徳もポピュラーになってきたようですね。

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Dscf7436  この地の石仏たちもこれらの巡礼地の「写し」なわけですが、更にその地域ならではの雰囲気があって決して「写し」ではないのかもしれません。

 誤解の発生源として、テレビの心霊特集番組などで、こういった場所を不安定なアングルで撮り、上に読経をBGMで被せたりして見せるやり方があり、こういった場所の真意が曲解しているように感じます。

 御仏は「救う」者であり、「祟る」ものではないのです。「祟り」に係わるお地蔵さまなどの怪談も聞きますが、どうも眉唾な気がしませんか。

 早朝から子安地蔵をお参りに来た若夫婦。その背景を察することもできます…。
彼らの幸福と光を見ることの無かった子に安らぎがあらんことを遠巻きに祈りました。

ここは300の祈りと300の救いの小路

 

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2007年9月14日 (金)

祈りと救いの小路 ②

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Dscf7393  ここには聖徳太子堂も併設されています。商売繁盛、家内安全、学業成就などにお参するそうです。ちょっと柱が壊れかけています。弘円寺境内となっていますが住職が常駐しているわけではないようです。
 敷地内に『西国三十三箇所』と『四国八十八箇所』が共に置かれているお話をしましたが、その一方、「西国三十三箇所」について少し…

Dscf7392  西国三十三箇所(さいこくさんじゅうさんかしょ)は、近畿2府4県と岐阜県に点在している観音霊場の総称です。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も古い巡礼行で、現在も『西国三十三所巡礼』として多くの参拝者が訪れます。
 しかし、その始まりは苦難に満ちたものでした。

Dscf7452  718年(養老2年)大和国・長谷寺の徳道上人が62歳のときに病のため亡くなりました。冥土の入口で閻魔大王に出会い、33箇所の観音霊場をつくり巡礼で人々を救うように託宣を受け起請文と三十三の宝印を授かりあの世から戻されました。そしてその宝印に従い霊場を定め、三十三箇所巡礼を人々に説きますが当時、人々の信用を得られず、あまり普及しなかったようです。
 上人は機が熟すのを待つこととして宝印を摂津国・中山寺の石櫃に収め、三十三箇所巡礼は人々から忘れられていきます。

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Dscf7447  270年ののち、花山法皇が紀州国の那智山で参籠していたとき、熊野権現が姿を現し、徳道上人が定めた観音霊場を再興するよう託宣を受けました。そして中山寺で訪印を探し出して、三十三箇所を巡礼したことから人々に広まっていったとのことです。

 三十三の数は、観音菩薩が衆生を救うとき、33の姿に変化することに由来するといわれています。西国三十三霊場の観音菩薩を参拝巡礼すると、現世で犯したあらゆる罪状が消滅して、極楽往生できるとされています。

Dscf7449  北海道開拓に従事した人々の多くは、渡ってくるのにも大変な日数を要しましたが、それ以上に開墾の数年間で持参した蓄えもすぐに底をついてしまうような暮らしの中で、故郷との繋がりも自然に切れていき、戻れることはあまり無かったようです。
 かような生活の中にも信心は失うことなく、信仰の聖地に想いを馳せていたことがこのようなミニチュア版ともいえる霊場を形成していったのでしょう。

 そのような背景にあっても、いつしか真意はそれていったのかキャンディーやクレヨンを1本づつ供えてあったりします。やはり、水子霊場の認識の方が強くなってしまったのですね。

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 御仏の願いは、『人々を救うこと』
 だから、救われたいものが集うのもまた、自然な成り行きなのかもしれません。

(つづく)

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2007年9月13日 (木)

祈りと救いの小路 ①

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Dscf7371  かつて柏林の中に鈴蘭が群生していたことから名付けられた音更町の小高い丘の上にある鈴蘭公園。
 十勝川の対岸にありながら開拓期に特殊な事情があり昭和期まで帯広市が管理していました。園内には、北海道を探検した松浦武四郎の「このあたり 馬の車のみつぎもの み蔵を立てて つままほしけれ」の和歌を背面に記した帯広開町記念碑があります。他に明治から太平洋戦争期までの戦没者の慰霊碑、中国との有効記念である仏舎利塔などがあります。
 広い園内にはジョギングやウォーキングの人たちが早朝から見られ、日中はピクニックや焼肉を楽しむファミリーも多いところです。

 この公園の北端の住宅街と隣接する柏木立の中にこれらの地蔵(観音)群が並んでいます。建立時等間隔に据え置かれただけなので冬場の地面の凍上、春からの解凍の繰り返しのため、危なかしく傾いたものや倒壊して補修されたものも多く見られて少々、奇妙な感もあります。

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Dscf7373  この地蔵群は一端で「水子供養」に建立され地蔵の数が水子の数。さらに救われない水子たちが彷徨う霊場との誤解を受けていることもまた、事実です。
 実際、この霊場の姿は西北側の『西国三十三箇所』と北端の『四国八十八箇所』。また、ここを管理する弘円寺の南に近隣町から移された『十勝新三十三観音霊場』、堂屋を持つ馬頭観音及び地蔵菩薩が数体。西北崖下の十勝管内屈指の大きさの不動明王。各霊場の番外、重複も含めると総数約300基を誇る十勝最大の霊場で、信心はともかく、一体一体見ていくと非常に興味深い郷土の史跡。
 特に不動明王の脇侍で知られる矜羯羅童子(こんがらどうじ)、制吨童子(せいたかどうじ)など管内では類を見ない36体の童子像は必見だそうです。

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Dscf3450  夜、『赤ん坊の泣き声が聞こえた…』とか『足に何かまとわりついてきた』との噂もありましたが真意はともかく、一般住宅も目と鼻の先なのであまり騒いでは頂きたくない場所です。もちろん水子供養に訪れる人もいないわけではありません。
 先の北西崖下の不動明王の脇には湧き水があり、霊水として人気も高く、遠方から汲みに来る人が多いところです。

 元々、巡礼は歩く宗教で、日常から離れて仏と二人旅を通じて御仏の心を体験するものです。本土を遠く離れて開拓に従事した仏教徒の悲願が具象化したのが道内各地の寺院境内や公園などに点在するこういった仮巡礼と言えるものなのでしょう。
 現在では山本ラク氏の開いた道内各地を巡礼する『北海道三十三箇所霊場』なるものもあります。【函館市:北南山高野寺(ほくなんざん こうやじ)を起点として東端・根室市:護国山清隆寺(ごこくざん せいりゅうじ)。更に最北端、稚内市:高野山最北大師真言寺(こうやさんさいほくだいし しんごんじ)から南下、静内・三石を経由して室蘭市:高野山大正寺(こうやさん たいしょうじ)までの三十三箇所を結ぶ】

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 現在はこれらの実際の巡礼が北海道内でも執り行われていますが、開拓者の子孫の信仰の変化か、豊かになったことから実際の巡礼に赴くようになったためか、これら巡礼地のご本尊を模した巡礼地は、史跡としての意味合いの方が色濃くなったような気もします。仏の並ぶ小道には自転車のタイヤ跡や投棄物も目につき、日常から忘れられかけてしまっているのかもしれないですね。

(つづく)

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2007年9月12日 (水)

蕗の葉脈

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Dscf5414  かつて、道内の峠のなかでも難所とされていたこの一帯も時代を超えてすっかり様変わりしました。そこそこの車で1時間程度で通過できるのですから便利になったものです。
 現在工事中の高規格道路の開通によっては、ここもまた忘れられていくのかもしれません。

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 峠を降りきったところに2本足では、道内最大のクマが反対車線をかっ飛ばしていく車に目を光らせています。ここはドライブイン兼物産館ですが、開業当時よりも少し寂しくなってきたように感じます。北海道旅行の人気の低迷、大口団体旅行よりも個人のオプショナルな旅が増えて、旅行会社とのタイアップも減少して閉鎖になったドライブインも少なくありません。
 数十年前までは、通常一般道(道々や町道)で小さなドライブインとは名ばかりの食堂が充分、商売になりました。メニューを見ると味の選択肢が無い「ラーメン」があって、シェフにオーダーしてみると、味噌とも醤油とも塩ともつかない味のものだったりします。不味いわけでもないので食べていると丼の底に他所の屋号が現われたりしました。
 こんな店のような小さなところは巨大ドライブインの出現や旅行のスピード化で次々、淘汰されていきます。

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Dscf5421  一見プレハブ、よく見るとやっぱりプレハブのものやガレージにしか見えないもの。国鉄払い下げの客車や貨車を改造したもの。そして、バス。
 今回の物件もそうしたバスを改造したドライブインです。帳簿類は残っておらず、屋号は不明。正面の路線表示部に何か書かれていますがよく読めません。
 峠を降りてきたばかりのお客をターゲットにしていたようですが、向かいに多くの駐車台数をカバーできる大型ドライブインができたために廃業したようです。駐車場だったとおぼしきところは、蕗やら雑草がはびこって車両乗り入れの引き込み線も分かりづらくなっています。

 かなり旧型の丸みのある車体。バスとして現役時は、車掌が乗客に切符を切るというような光景が見られた頃のものなのでしょう。
 以前、紹介した『バッタ塚ドライブイン』のように内部を完全改造し、客室も供えていたものと違って、バスは完全厨房だったようです。初めは厨房備品の投棄場所のように感じましたが、ここに据えてあったようです。立ち食い蕎麦の車内持込みたいな持ち帰り専門だったのではないでしょうか。

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Dscf5423  簡易ドライブイン、そして大型化、道の駅創設、路線の変換。短い歴史の中、多様な変化が続いています。昔通ったあの道はどうなっているのでしょうか…

 車体の後に虫に食い荒らされて奇妙なほど葉脈だけになった蕗の葉の一群がありました。ここは、食い意地のはった虫達には充分現役のドライブインなのでしょう。

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2007年9月11日 (火)

烏龍城砦

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Dscf5783 高速道橋脚と一般自動車道に挟まれた狭い一角。しかも一般自動車道のカーブを曲がりきったところにあり、『あっ』と思ったときは既に通り過ぎてしまうような場所にあります。
 一般自動車道の向こうは、すぐ海。
 でも、爽やかな潮騒よりも通行車両の鋭利な通過音しか聞こえてこない…そんな場所です。

 すぐ脇には高速道路の橋脚があるのですが、本当に近い!岩盤にへばりつくように築かれたこれは、たぶん採石場です。鉱石採掘には立地条件が悪くなったためか操業停止してひさしいようです。所々木か草の芽が顔をだしていました。
 脇の岩盤上に回りこむ道がつけられているため上の方では操業しているのかもしれません。少なくとも目の前のここは休止になっているようですね。

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Dscf5780  旅行中に発見しましたが、カーブの近くにあったため急停車などできず、戻るときに寄りました。かなり交通量が多いため、出入りにはかなり時間を要します。あるいはその効率の悪さが休止の原因だったのかもしれません。

 ねこんの家の近くにも採石場やその商品の山や砂丘みたいなものがたくさんありますが、平地にあるため、なんの趣もありません。
 それに比べてここは、いいかんじですね。『廃墟』ではないのでしょうが、岩盤にへばりつく姿は、チベットなどの山岳地帯にある寺院や砦を思わせるものがあります。

 それで何となく『烏龍城砦』と読んでみました。
九龍城とは全然違うけど…

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あの、てっぺんの小屋まで行ってみたい…

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2007年9月10日 (月)

苔の記憶 ②

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Dscf5444 この一帯の人口動向は、
昭和40年頃─60世帯、昭和50年頃─33世帯、昭和60年頃─6世帯

Photo_2  学校は昭和56年、小学校が先に閉校。翌年には残る中学校も閉校し、それに伴い過疎化にも拍車がかかったようで郵便局も閉鎖されました。今は空き家に混じって数軒が残っています。長い間、放置されて朽ちるばかりの教室。白い壁や天井の塗装もポロポロ剥がれています。その姿はユトリロの絵画の様でもありますが、これが朽ち行くものの美しさのよう…

学び舎はずっと放置されていたのでしょうか?

いや、

どうやら、そうではなかったようです…

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 閉校後、施設として転用されることも無かったここに約11年後の平成5年8月8日、ひとつの大きな動きがありました。卒業生、教員有志の実行委員会によって『廃校の登校日』が催されることになりました。

 世界的ピアニスト、エルンスト&カズコ・ザイラーを迎えて「なつかしい笑顔があつまった ●●小中学校廃校コンサート」が一夜の登校日を迎えたのです。当日、小さな体育館は約200人の生徒で埋め尽くされて、始業の鐘を合図に開始。

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Dscf5462  満天の星空の下、廃校はピアノの調べで再び光を放つかのように輝いているのが当時の写真から伺うことができます。

 このコンサートのクライマックスは演者ザイラー夫妻が何度もリハーサルを繰り返して完成した「町立●●小中学校校歌」です。
 このコンサートの下りは平成5年10月発行の「北海道の暮らし 3号」の『甦る廃校』で触れられています。学び舎の憂愁の夜が見事に現されています。
※Web版は上記リンクからご覧ください

 その十数年後、校舎は現在のように朽ちていきました。でも、ねこんには、あの夜で学び舎は思い残すことなく使命を全うした…そんな気がします。今見えるのは、全てを出し切った屍なのかもしれません。その姿には、ひとつの心残りも無い…そんな風にも見えます。

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Dscf5437  かつての主要道は、林道同然で通行止めになることも度重なるこの地に主要国道がすぐ脇を通っているのも皮肉な話ですが、その雄姿を心にとどめることができたのは幸運と考えるべきでしょう。

 雨漏りと湿気で力なく崩れ落ちる廊下。反面、乾ききって風化する体育館。そこを取り囲む緑達。学舎にとってここが生まれた地なら眠りに着くのもこの地。御歳およそ80歳。
 我が身をもって子ども達を見守ってきた、もう一人の校長先生は、その使命を終えて静かに余生を終えようとしています。
 願わくばこのまま静かに終の日を迎えられんことを祈ります。

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あの日と同じ満天の星空の下で…

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2007年9月 9日 (日)

苔の記憶 ①

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Dscf5430  現在は市町村合併により属する町名は変わりましたが、旧H町。
この学校脇には主要幹線道(国道)が通り、パーキングエリアで休んでいると正面に赤い屋根の建物が見えます。これが町立F山小中学校。
 背の高い雑草にグランドが面影も無いほどに覆われてここが学校とは思えないことでしょう。いざ、近くによって見ると校舎というのは一目瞭然ですが過疎の進んだ一帯で後にも先にも市街地らしきものもないことから、ここに学校があったことは土地を知る人のみなのでしょう。

 国道沿いといっても存校時にこの道はなく、この山間地へは未舗装道を含み、かなりの遠回りで入らねばならない集落で学校も当時僻地5級の最高レベルでした。

Photo  この地の開発は大正7年和歌山県からの団体入植に始まりました。同9年に官設駅逓所や移民世話所が設けられて、山形団体・大阪団体が入植してきます。
 人口の増加からやがて、学校教育の必要性が痛感され、大正10年5月20日特別教授所が開設されて、この学校の前身となりました。
 昭和12年には八田鉱業所の鉱山開採により児童数が飛躍的に増加。昭和36年現校舎落成。同39年には兼僻地集会所として体育館が完成しました。

Dscf5427  当時を考えると、この山岳地帯にしては校門といい、校舎といいかなり立派なものです。
特に校門は高さはともかく、かなりがっしりした大型のもので手製の彫金で作られたと思われる校名「町立F小学校」「町立F中学校」の名がしっかりと残っていました。

 現在、校舎は未利用のまま荒廃が進んでいます。同時に一帯の集落も国道が開通しながらも過疎化が進行して空き家も多く、簡易郵便局も閉鎖されています。

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Dscf5433  グランドとおぼしきところを横切って学校玄関から中へ入ると、前日まで雨が降っていたのか廊下の奥から雫のしたたる音が聞こえます。静かな校舎の中に響くその音は、まるで鍾乳洞の中へ迷い込んだような印象を受けます。下駄箱の大きさから児童数はさほどいなかったように思えます。入ってすぐ右にボイラー室が見えますが床の崩落が激しく、残った根太部分もかなり脆い様子でそこまでいくことはできません。
 左の教室が並ぶ側へ向かうことにします。不思議なことにこの学校の廊下には一面ビニールシートが敷かれています(床用のものと思われる)。その下で床板が腐って凸凹になり、所々に水溜りを作っています。あるいは、このシートがなければ床はもっと致命的に腐敗して内部から全体崩壊はとっくに進んでいたのでしょう。かろうじて形を保つのに役立っていたようです。

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 教室を覗いてみると床に一面鮮やかな緑のカーペットが…と思うほどの苔が生育しています。日本庭園には色々な形があって、そのひとつに苔庭というものがあります。苔も植物でありポピュラーなものですから、このような一面の苔は美しく見えるものです。
 苔玉なんかも少し前までブームでしたね。ここにはジメジメしたマイナス印象ではないものを感じます。
 廊下はビニールシートがあるので苔は生成していませんがヌルヌルした床面になっており、歩くのには注意が必要です。

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雨漏りの水によって教室の床に根ざしたこの苔には、学校の記憶も染み込んでいるのではないでしょうか。その記憶を読み取れることができれば学び舎の楽しかった声も聞き取れるのかもしれません。

(つづく)

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2007年9月 6日 (木)

レジェンド・オブ・バリバリ ②

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Imga0383 さよならは別れの言葉じゃなくて、再び会うまでの遠い約束…

おや? 薬師丸ひろ子さんのポスターですね。
このポスターは、初期の人気がブレイクした頃でしょうか。ちょっとメイクが板についてきた頃のようで「セーラー服と機関銃」の頃かも。

 ポスターの目線は何処までもついてくるので、どーも見られているような気がしてなりません。小さい頃、トイレの前に貼ってあったタレントのポスターが怖くて夜トイレに行けなかったことがありました。

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Imga0373  それにしても色々なものが散らばっています。埃の積もり方が平均しているので住人がここを退去したときのままのようです。どうも掃除癖は身につかなかったようです。全ての住人が去った経緯は調査しませんでしたが、すぐ隣が牧場なので、若気の至りの夜中のバカ騒ぎにクレームが付いてしまったのかもしれません。
 現在は旧社屋(工場)と新社屋(工場)の間にこの住居群と牧場が挟まれている形になります。住居の他に古い倉庫か車庫が崩壊したままになっていました。積雪が倒壊原因なのでしょう。ここ自体は工場のものか牧場のものかが曖昧なので詳しくは見ません。

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 ここの利用者は当然バリバリばかりではなかったようです。描きかけの馬の絵があります。よく見ると毛糸のようなものを糊でチマチマ貼り付けていくタイプのもので、夏休みの作品と称して新学期に持ってくる同級生もいましたが全部貼り終わると絨毯のようで思ったより高級感のあるものです。根性よりも根気がないと完成は難しい。これは初期で挫折していましたが…下絵を見たら挫折したくもなるか…
 既に画鋲も錆付いて、完成することもなく野良猫ぐらいしか出入りしないギャラリーに展示されていました。

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Imga0408  何ゆえかに残されているこの空間。20数年経過する間に少しづつ朽ちています。
外壁がブロックなので、取り壊されない限りはこのまままだ半世紀は余裕で持ちこたえそうです。
 さすが、自慢の製品というところです。こういう建築関連の企業を支えているのは、今も昔も真っ当から少し外れたタイプの人たちが多く見受けられますが、外れたように見えてもそれなりに真っ直ぐ。曖昧なものに浸かって揺れている自分よりも…
 社会基盤はこういう人たちが作っているものなのです。

 廃墟となったこの空間に感じたものは、陰湿なイメージや悲しみのイメージではなく、何となくカラッとしたものが残っている気がしました。

 たぶん今では独立して、そこそこの力のある事業主なんだろうな…
そんな彼らの昔話はどことなく伝説めいているように感じます。

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『あなた自身の伝説はありますか?』

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2007年9月 5日 (水)

レジェンド・オブ・バリバリ ①

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塗りつぶしたような色の青空
そびえ立つコンクリートプラントのタンク
工場新設のため、旧工場は資材置き場になっていますが
ここは『廃墟』とは少し違います。

Imga0354  今回の舞台は、この企業の社宅。
ローカルとはいえ経済成長でおおいに発展、新機軸の自社製品の開発などで業績を伸ばして町では老舗の類に入るでしょう。
 一時期は社宅も完備して若手の育成にも力を入れていたようです。現在は社宅よりアパートの自由な暮らしへ希望が多くなったのか半住み込みの暮らしは敬遠され、社宅は廃れていったようです。

 若者中心の下宿風だったようで、生活感そのものより、彼らの夢を追い続けた感が色濃い様子です。この空間に残る夢の忘れ形見はどんなものでしょう。

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 人がいなくなってから生えてくる木々は、どうしてだらしがないのだろうか。このだらしなさがなんとなくお化け屋敷の木のようですが、雑多な木だけではない元々庭木だったものまでもヨレヨレになってしまうようです。
 枝がはびこって日当たりが悪くなるのか、剪定しないとこうなってしまうものなのか、まるで取り残されてしまったことでひがんでしまったかのように不躾な枝の伸ばし方になっていくようです。
 そんな枝やカラカラに乾いたヨモギに阻まれて、なかなか歩が進まないものです。
 どうにか中へ入ってみると洋室やら和室やらが混在して社宅というよりも公共住宅の感じです。各部屋を利用者が間借りしていたようですね。

 すぐ右の最初の和室へ行ってみると…

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Imga0386 『おーっ』 これは俗に言う「走り屋さん」の登録ステッカーです。中には名前だけは聞いていたのもあります。ファンタっぽいロゴのVAM-PIREはセンスがいい。SPECTERと同デザイナーの手によるもののようですね。
 個人的に『青ひげ』に興味がつきませんが、メンバー全員のユニフォームにも青ひげの刺繍があったのでしょうか?
 それにしても、この数を集められたのはチーム同士は、わりと仲が良かったようです。たぶん、小さなチームには違いなかったようですが。

 ずーっと昔にこういうステッカーをデザイン込みで100枚頼まれたことがありますが、完成を待つことなく痴話喧嘩で解散し、ねこんの手元に行き場の無い束が残った思い出があります。たしか『武裸苦縁屁羅阿』といいました。
 当時の関係者がここに来ることがあったら大盛り上がりでしょうね。

Imga0367   工場で働いて週末は『マシン命』で夜の街に繰り出すことが人生の全てだったのでしょう。

 壁や天井にはカーマガジンやカタログが貼られて、この部屋の中で夢のマシンを夢見ていたようです。
 本当にマシンがあったかどうかは定かではありません。

 普通の廃墟では見られない光景です。

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西部劇に出てくる若者の憧れは自分の銃と馬だったように現在は車が憧れなのでしょう。
それはずーっと続いていくようです。

(つづく)

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2007年9月 3日 (月)

案山子 ②

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 緑の中に埋もれた家は、世紀末的な…異世界のような感じがしました。それは生活の跡が克明に残りながら人の存在が全く無いことがその雰囲気を作り出しているのでしょうか。でも、人は存在を消しても気配は残ってしまうようです。
 その反面「気配」を察知する力が本能的に残って、人のいなくなったところにも何かの存在を意識してしまうようです。それが、すなわち「もののけ」や「妖怪」という捉え方で伝えられているのかもしれません。
 ある人は、その感覚の掴んだものに恐れ慄き、あるいは感銘し、そして一笑にふす。秋の虫の音に行く季節の移ろいを感じる和の心。そんな些細なものを感じることができるのが我々です。

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 家の中は荒れています。それは賊によるものではなく、あまりにも急を要したことによるもののようです。飲みかけの急須と湯飲み、洗い桶の中の茶碗、封も切らずに置かれたままの手紙など暮しの跡があります。ふたりではなく、一人きりの暮しが…

 子は家を継ぐことなく他所へ行き、母は家に残り、父はすでに…そんな状況が感じられました。既に離農していたようですが母は、思うことがあり家に留まったのでしょう。
 家を離れるのを拒んだか─
 子の暮しに割り込みたくなかったのか─

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 お孫さんが時折、訪れたらしくプレゼントの折り紙の絵がすぐ見えるところに貼られています。これがこのままになっていることは、母のこの暮しを続けられなくなったことを物語っているようです。

Dscf6696  気になる引出しがひとつありました。「かよこのしきだし(引き出し)」
女の子。やはり、家継ぎには恵まれなかったようです。
 この“かよこさん”が大きくなり、「おばあちゃんありがとう」の絵の“はるちゃん”になのですね。
 かよこさん自身はもう、この家に出向くことはなくなってしまったようです。

 空も大地も変わらない 変えるのは季節だけ
 人も家も消えて無くならない 目に見えなくなるだけ
 人の心も変わらない 過剰包装なだけ

Dscf6700  それでも何だか淋しい気持ちになるのは、釈迦説くところの「生きることの苦しみ」から生じる心の動き。 大人になるにつれて心の弱い部分が傷つかないように包帯でグルグル巻きにしていくので泣く事も少なくなりましたが…
膝も曲がらないほどに固く巻きつけた心ですが動こうとするうちに緩んでくるものです。

 相変らず青い空の下、ノイズ交じりのラジオから「案山子」の歌。

Dscf6701  元気でいるか 街には慣れたか 友達できたか
 寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る…

 ほんの数年前までは、何とも思わなかったのに切ない気持ちになる。
 案山子は立っていないけれど例のモニュメントは、緑に埋もれる故郷の家を示し続けている。
 母がこの家を最後まで去らなかったのは、ここが母としての待つべき家だったのだから…?

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Dscf6693 それを思うと無性に母に会いたくなった。帰りしな家に寄ると…
「あらぁ!なしたのさ?」
「いや…近くに寄ったから」

少なくともうちの母子は、ずっと素直になれないような気がします。
その代わり、帰りには抱えるほどの野菜を持たされました。抱えるほどの愛情の…

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「…今度、いつ帰る…」

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2007年9月 1日 (土)

案山子 ①

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「元気でいるか 街には慣れたか 友達できたか
寂しかないか お金はあるか 今度いつ帰る…」 

『案山子』作/さだまさし より冒頭部抜粋

Dscf6688 空の青と大地の緑に覆われた視界。
 北の大地北海道に関わる雑誌、絵葉書などを見ていると良く出てくるのがこんな風景にポツンと立つサイロや牛舎。建物の際まで作物が植えられているようなら、そこは迷わず廃墟である。

 北海道らしい風景。側面から言っても「らしい風景」。農業の副収入として片手間で始められた酪農は、数十年で拡大して現在では酪農専業の家も多い。
 職業とは言ってもその規模拡大は尋常ではなく、50頭・100頭の飼育は当然で、乳価低迷(卸値単価は水やお茶にも劣ってきている)の昨今では、この規模でなければ成り立たない。
Dscf6689  その規模拡大は、組合機関の発展により融資が得られ可能になりましたが、新規就農では数億の資金がかかります。新参の志では、よほどの熱意が無ければ軌道に乗せるのは難しい商売でしょう。

 反面、古参は数代に引き継がれて経営が段階的に拡大されたものの、後継者不足や経営拡大の波に乗り切れないなどの理由で泣く泣く家を閉じることになった例も少なくありません。乳価も品質調査で等級がつけられて、上と下では奨励額が雲泥の差であるようです。

 これが「北海道らしい風景」の読み取られない側面です。

 幾重にも連なる丘陵地帯。青と緑の風景に一点、赤いものが二つ見えた。
モンゴルのパオ(移動式住居)かアフリカの原住民の家を想像しますが、家畜の飼料用タンクを逆さに伏せたものです。今はカーボンファイバー製の軽量で強靭な素材のものが一般的ですがまだ金属製が主流の頃のものです。
 赤錆に覆われて遠巻きには、赤い屋根のように見えました。

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 主は、この地を去る前に既に離農していたようです。家畜舎の崩壊の進行が著しいです。
錆びた小さな自転車を見かけたので子のいた様子はありますが後継者にはならなかったのでしょう。
 子にも意志があり、親もまた溺愛からか「辛い思いをさせたくない」と思いつ「一人立ちするまでは…」という心から無理強いもしないのでしょう。

 家畜舎から少し離れた所に緑に埋もれるように住宅があります。庭どころか幹線道までの間は全て雑草がはびこって、胸ぐらいまでの高さまで成長しています。
 茎が紙やすりのようにざらざらしたエゾゴマナ〈キク科〉がほとんどですが、見えない下のほうには、やはり鋭い棘をもつイシミカワ〈タデ科〉が絡み合って、なかなか前進できません。ジーンズをはいているとは言っても棘が足にチクチクとあたり不快な感じ。
 息を切らせながらどうにか玄関先に到着。戸口は開け放たれたまま放置されていますが、その前にカラマツの幼木が直径10㎝程度に育ち、枝を伸ばしています。

 どうにか玄関から中へ入れました。まだ他に開いている窓があるのか爽やかな風が通り抜けて湿気やかび臭さは残っていないようです。

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 引っ越したというより、荒らされたという感じがしました。ストーブの上のやかん、小さな丸ちゃぶ台の上には湯飲みと急須。家人は何処へ行ってしまったのでしょう?       (つづく)

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