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2007年7月 9日 (月)

自動車哀歌 ②

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 教習所事務所の全体です。どことなくモスラの幼虫にも見えますね。左側の正面入口のモルタルが全体と色身が異なるので何らかの建物の流用であったようです。いつもより暖かい春でしたがまだ、後ろの山は緑がお盛んではありません。

Dscf4843  窓はガラスがほとんどありません。●崎さんゴッコでしょうか。壊したい衝動も分からないではありませんが普通の学校とは違うし、ご老体(ご労体)はいたわりましょう。

Dscf4844『こんにちわ 失礼しまっすー』
『廃ーっ、どうぞー』
 とは返って来ませんでした。もちろん…

 おおよその中は伺っておりましたが、自分がこの場に立つライブ感は素晴らしいですね。発掘魂に火を付けます。
 営業の痕跡と言うより、生活の痕跡が色濃く見えます。ここにもタイル張りのコンクリートシンクが御鎮座。水場のわりに痛みは少ないものです。これってレトロブームで再燃しないかな…と思ってみますが重さは洒落にならないので『もどき』でもどうでしょうか。

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 何となく、事務机よりもちゃぶ台がお似合いな感じです。畳はすでにバラけて元の草みたいです。壁はストレスの餌食にされたようで石膏ボードが穴だらけ… 『?』石膏ボード?すると思ったより新しいのか?発見した新聞は昭和56年のもので、ここで読まれたものであればこの頃がこの教習所のバニシング・ポイントとなります。

Dscf4853 Dscf4852 ところが、かなり異質なものが目に入りました。押入れとおぼしき場所の襖の壁紙の下に古紙利用の下張りの紙があるようです。それも古い新聞のようですね。
どーれ…『えっ?』
『新潟新●:明治18年8月14日!これは古い!』裏紙に使われていたため変色もせずに残っています。障子も馬鹿にできません。まるでひとつの歴史書のようです。ほかにも墨書きの借用書らしきものもありました。なぜにこのようなものが?

Dscf4854  考えられることとして、襖を入れた建築当時は、近場に建具製作業者がおらず、内地から船便で入れていたという背景が浮かび上がります。大工とてそこまで造作はできなかったのでしょう。
Dscf4848 ちなみに明治8年とは、アメリカのマンハッタン島の自由の女神が完成する前の年で、ベンツやダイムラーがガソリン自動車を発明した頃です。札幌市(現在の琴似地区辺り)に最初の屯田兵が入植した年の10年後です。どうです?凄いと思いませんか?考え等によっては重要な郷土歴史資料ですよ。これは…新聞広告も漢文を見ているようです。

Dscf4855  しばし、へーっと関心して今度は2階へ。隠し納戸のような場所の階段を一段一段つま先で確かめながら上がります。
 ちょうど、モスラの頭の部分。2階はこの部屋のみです。ここの障子も何層にもわたり古い新聞が裏紙として残っています。ただし、ここのものは戦後の高度経済成長の頃でステレオの広告が見えます。『ステレオ』を謳っているほどなので、時代的にステレオ録音が可能で再生機も一般に普及し始めた頃ということで昭和60年代後期頃でしょうか。この頃には襖の製造も地元で可能になったのでしょう。

 このような思わぬ歴史的資料を内包しながらも本筋の自動車運転教習に関するものは皆無というのもまた、奇妙と言えば奇妙です。

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四角張ったモスラの幼虫は、ただ自分に課せられた使命を遂行し続けて教習コースを見つめ続けていました。
 明治・大正・昭和・平成と時代の欠片を抱きながら…

 自らは羽ばたく成虫になることのないまま、生徒たちの羽ばたきを見送ったのです。

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コメント

私の見逃した部分を全て見つけてくれたようで、お疲れさまでした。北海道廃墟椿のH自動車学校より面白い内容でした。
2%の偶然には師匠の協力0.2%入ってることも忘れちゃいけません、雪が無いので肉眼で空から見るのも可能かもしれませんよ、今なら。

投稿: カナブン | 2007年7月 9日 (月) 13時14分

へへ~ッ左様でございます。
3歩進んで師の物件を踏みました。
古い地元紙を4年分位目を通しましたが、
物件自体の素性は浮かび上がりませんでした…
それが心残り。

投稿: ねこん | 2007年7月 9日 (月) 16時18分

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