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2007年7月31日 (火)

栴檀は双葉より芳し

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『栴檀は双葉より芳し(せんだんはふたばよりかんばし)』
栴檀(せんだん)は白檀(びゃくだん)ともいいます。サンダル・ウッドのことですね。

Dscf7301  白檀は熱する(火をつける)ことなく香りをだすため、古くから高貴な香木とされてお香以外にも仏像などの彫刻から扇子、数珠などの素材に用いられています。

 発芽したばかりの二葉の頃から早くも良い香りを放つ。そのように、英雄や俊才のような大成する人は幼い時分から、人並み外れて優れたところがあるものだという意で、その言葉から名づけられたのがこの双葉幼稚園です。

大正11年にこの地域に最初に建てられた幼稚園で、その建築には前園長の学んだフリードリッヒ・フレーベルの保育思想が反映されており、立方体と球体を組み合わせたドーム屋根がこの幼稚園のシンボルとなっています。

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 フレーベルは教育のための玩具として『恩物(おんぶつ)』を考案しています。

球や立方体などで数学的な学習や身の回りのものをそれで表現したりして遊ぶもので、教育玩具の始まりでもありました。この考えを生かしたデザインの建築物が、この幼稚園なのです。

 当時の技術としては、屋根のカーブを出すのが難しかったらしく、たくさんの模型を作り、真っ直ぐな木を曲げる研究もなされてじっくり時間をかけて作られたものなのだそうです。

 十勝沖地震の後に園児の避難を円滑にする目的で入口を広げた以外は、全く当時のままです。現役の幼稚園であるため内部は公開されていませんが柱は全て面取りが施されて、建具は全てアーチ型にデザインされているそうです。ドームの下は子ども達の遊戯室。

 この優雅で独創的な完成度の高さから大阪の愛珠幼稚園と並び、日本を代表する幼稚園建築とされています。

 当初よく知らなかったので建設当時、高官の舞踏会場だったのかと思っていましたが初めから現在まで続く歴史ある幼稚園でした。
 レンガの味も捨てがたいですが、こんな浪漫を感じさせる幼稚園もいいですね。

ここに通う子たちは、まさに白檀の双葉のように思えてきます。

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2007年7月30日 (月)

ドドメ~ン!

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 いくつ分かりますか? 世代が露骨に表面化するので軽率な回答は墓穴を掘る恐れがあると思います。
 例えば『ドラえもん』や『オバケのQ太郎』をアニメ(最新版)で見ていた世代の始まりはほぼ20代ですからね。『ドラハッパー』と関係深い頃ですね?

 一番右の金髪の女性は『宇宙戦艦ヤマト』に出てくる森ユキ(だった?)さんです。
一世を風靡したアニメでしたが髪が短いうえ滅茶苦茶なので半信半疑になってきますがほぼ、間違いないでしょう。

 問題は左端と右から2番目です。これは今となるとメジャーだったのか、マイナーだったのか判断に困るところですが、劇場用アニメも公開された経緯もあることから知名度はあったのでしょう。

Dscf2706  少年サンデー誌上で連載された梅図かずお氏のギャグマンガ『まことちゃん』の主人公と彼に付く「まこと虫」です。恐怖漫画家の梅図氏はその作品歴において「ロマンスの薬(惚れ薬を手に入れた少女がその薬で騒動を起こす話)」というラブコメを描いた辺りからギャグに対する憧れが生まれてきたようです。本作はヒットには至らず、恐怖漫画に定評があることですし、経歴も長いことからギャグの創造にはぎこちなさがありました。
 後にこの「ロマンスの薬」のバリエーションとして老人が中学生に若返る薬を手に入れて学園に大騒動を巻き起こすギャグマンガでした。この中に出てくる孫が後の「まことちゃん」の原形になります。

Dscf2707  恐怖漫画家がギャグに踏み込んでみる例は以外に多く、ギャグから出発したつのだじろう氏は別として「地獄小僧」や「蔵六の奇病」などグロさの際立つ日野日出志氏の自伝とも取れる「狂人時代」は唯一といえるギャグの形は取りながらもグロから不気味さが際立ってギャグにはなりきれませんでした。

 もう一人「エコエコアザラク」で知られる古賀新一氏(ホラーシーンになると恐怖映画のカット模写をやたらと使っていた)は少年チャンピオン連載中の一時期、マンネリ化からなのか展開が急にコメディ調になった時期がありました。シビアな内容で敵には易々と死を与える黒井ミサが転じてドジを踏んでギャフンという表情は、これまた違和感の極みでした。

梅図氏は恐怖漫画では、多くの世代共通の作家で表現も常に斬新でアイディアの枯渇を知らないかのようなバイタリティには感服します。その代表作は「まだらの恐怖」「黒猫の怨霊」「怪」など多くにわたりますが、ねこんは人間の心に起因する恐怖に翻弄される人々を傍観する不思議な少女の話「おろち」が氏の恐怖に関する大きな転機になっているということで選んでみます。特に「骨」という下りのプロローグにこんな語りがありました。

骨 人はなぜ骨を忌み嫌うのか
骨は美しい
いやらしいのは、その上に着いている肉の方ではないか…

 当時、小学生ながら「これは真理だ」というような気がすごくした覚えがあります。
それが「まことちゃん」では『ドドメ~ン』とか『バサラ』とか良く分からない流行語の乱発と、この絵でギャグするのか?というのが返って恐怖を感じました。

 意外と連載は長かったんだよね『まことちゃん』
梅図漫画といえば何を読みましたか?

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2007年7月29日 (日)

学びの駅舎

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Dscf6738  かつてこの地区の辺りには4戸のアイヌ・コタンがあったそうです。
明治38年宮城県から4戸の入植があり、地域に農業の礎が築かれました。
それから移住者が増えて耕作地帯が形成されます。

 今回の学舎跡のある辺りは、一帯からさらに7㎞奥地に向かったところにあります。
戦後、昭和20年ころに東京方面から疎開帰農者7戸が入植して開墾を始めました。
ついで昭和22年から23年にかけて、樺太引揚者、復員者、縁故者など7戸が入植。
しかし、奥地に入る程山肌が迫ってくるような立地条件で、農作物にエゾシカの食害も多く、昭和47年以降1戸のみを残す過疎地帯になりました。

Dscf6742  ひと口に7㎞といっても現地を走ってみると資料の記述に誤りがあるのでは?というほど校舎とは縁遠そうなところへ向かっていきます。だんだんと山が迫ってきて谷間の感が強くなります。わき道には「林道入口」の表示があり、シカ除けのフェンスが山際に並びはじめて、酪農家が数件続いた後は、ことごとく廃屋が風景に目立ってきます。(内心ときめいている)
 不安になってきて「これ以上行っても学校は無いな…」と思った頃に防風林とも雑木林とも付かない不節操な林の切れ目に突如、校舎が見えてきて意外に鮮やかなカラーの校舎に驚きます。

 外観の形といい、色といい、とても30年以上を経過している校舎とは思えない感じがしますね。どこかで見たローカル駅と外観が酷似しているので、戦中・戦後にこの辺りを走っていた森林鉄道の駅舎と思ったほどです。(この付近までは敷設されていませんでした)
 実際には、駅舎ではなく当時、7㎞の通学を余儀なくされた子たちのため部落が村当局(当時)と交渉を重ね、昭和23年念願の竣工に至ります。

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Dscf6749  職員室と教室がふたつのこじんまりとしたブロック校舎。入口の上部に校章が入っていなければ「違うよね」と思うほど『学校』とはかけ離れたイメージがあります。
 回りは節度の無い雑草に覆われてグランドの形が確認できないほどでした。
 なかの様子を伺ってみると…40年弱の経過を感じさせないほど痛みが少なく、適度に清掃すれば再利用も充分可能なほどしっかりと形が残っています。一部トイレの手洗い場の床が落ちていましたが、その気になれば修繕可能の状態で、この後も崩壊していくという感じはまだしていません。

Dscf6750  職員室の中は、校史最後の月のスケジュールが黒板に書き込まれ、そのままのこっていました。
 事前に見た資料では、昭和45年に23年間の校史を閉じたとき児童数は14名とされているところ、この黒板では男女合計が10名。現場の資料のほうが正確でしょう。
28日『お別れ遠足』 30日『お別れパーテー』の記述もあります。机や備品棚の類はありませんが、この黒板は意図的に学舎と共に残されたのでしょう。

Dscf6751  回りが緑に囲まれているため、学舎内は全体に緑がかっています。黒板や窓枠も緑系なのでなおさらそう感じますね。
 教室は掲示物が残されて学習の様子が垣間見えます。今見るとイラストの顔がモンタージュ写真っぽくてちょっと気味が悪い。
 黒板には児童の書いた絵が時を越えて外を見つめています。書いたのは、たぶん一番左の絵の子でしょう。黒板自体も小さめですが見慣れたものよりデザインが幾分変わっているようです。

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 奥地で、木々に囲まれガラスなども割れることなく残っているため、荒らされる事も無く、これほど完全な形で残っています。体育館は元から無かったようです。要望されていたことでしょうが成就することなく校史は閉じられました。周囲には廃屋が数件。わき道を遡ったところに別な集落も存在していたようですが、シカ除けのフェンスの向こうになるため、1軒しか確認できませんでした。

Dscf6764  この学舎は、子ども達の入学と卒業を結ぶ駅舎。利用者が減ってしまったとき、駅の歴史も終わりました。記念碑などは残されていませんが、その想いは学舎の中に残されていたようです。ある意味、校舎自体がタイムカプセルなのかもしれません.

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2007年7月28日 (土)

さよなら枝肉空母 その6 

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 空母の解体は意外に早く開始されました。跡に何ができるかの情報は現場で得られませんでした。(解体の請負のため)解体所が解体されるのは何かブラックな感じもします。
 最新の社屋部分も実質十数年しか使われなかったようです。

 正面から2階は事務所になり、階段をあがると大きな世界地図が目に入ります。経営の視野が国内に留まらないものであったことの証です。この展望は、世界を驚愕させたBSEというハンマーの一撃で脆くも砕け散ったのでした。

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 始まりは事実。やがて風評が誤解に変わり、それは後に養鶏業界にも「鳥インフルエンザ」という形で同様の被害が出ました。過去には、かいわれ大根にも似たようなことが過去にあります。いずれの件も話がパニック的に広がり、商品が店頭から消え、期間を置いて噂は波が引くように風化していくという感じ…

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 現在、スーパーには精肉大手が消えた跡など微塵も感じさせないほど商品が並んでいました。一時は豚肉並みに値崩れを起こしていたものも価格が安定しています。
 時折、近いところからBSE陽性牛が発見されていますが検査時点で発見ということからなのか、BSEに対しての認識が希薄になってしまったのか、はたまた報道自体が抑制されたからなのか、あの騒ぎが何であったかのような気さえしてきます。
 今はもっぱら隣国からの輸入食材で残留農薬が問題にされています。

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 堅牢な精肉要塞は、その構造・設備から解体も約半年をかけて行われ、空母は地中に没したことになります。始まりは突然来て、思わぬ拡大で企業の魂を奪い去っていった…そんな感じがします。
 過去に業界不動と思われていた生乳加工会社が短期間で失脚。近頃では、食肉加工会社の内部構造が問題になり、取引のあった食品加工会社の商品が回収ということもありました。次は何が来るのか?何が起こるのか?食べることは無関心ではいられないことです。

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 解体現場の巨大な鉄骨は青空の下、その躯をさらして何を語っていったのか…そして次は生活の場を舞台に何が起こるのか…
 現場は現在、場所に似合わず月極駐車場となっています。(一時的なものか?)

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 次は何が起こるのか…
パンドラボックスの底はもう見えているのでしょうか…?

枝肉空母は脅威を与えるのではなく、地域に食べることの喜びと笑顔を演出しました。

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2007年7月27日 (金)

さよなら枝肉空母 その5

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 新棟も既に歳月が経ち、屋根の鋼板も錆が目立っています。あちらこちらに社名の看板や系列会社のロゴなど建物の東側外観は自己主張の発展場です。剥がれ落ちたロゴやマークの一部が戻らない日々を想わせます。

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Dscf2407  この数年の間に地元食品関連業界も様変わりしてきたようです。
 郊外の田園風景も農産物はほとんどがビート、ジャガイモ、豆類、小麦、稲作、スイートコーンなどでしたが、稲作はほとんどが姿を消して用水路や水門が形ばかりに残っています。他の作物には変化は、さほどありませんが流通用の野菜栽培が増えたように思います。ひと昔前は、せいぜい漬物用の白菜、大根がほとんどでしたが、現在キャベツ、ブロッコリーなども増加しています。

Dscf2400  肉類は一見、変わりないようですが、スーパーでは原産地表示(もちろん野菜もそうですが)されていて、アメリカ・オーストラリア・中国・インドネシア・タイ…日本は輸入大国なんだなと実感できます。街のスーパーには意外と輸入食品が出まわっていて変わったものが食べられる世の中です。ものが手に入りやすくなったというよりも流通が変わってきたように感じます。

 食販業界も生き残りをかけての企業合併、グループ化などが行われています。その過程で当然、流通形体も変化し、長年続いた業者の付き合いが突然切られるようなこともあって、この工場がその渦中にあったというような話も聞きました。

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 発電機、空調機、加工機械などがいたるところで屍のようにその身を晒しています。
これらがけたたましく、あるいはスピーディーに動き続けるさまは、稼動期を知らないものにとって想像の域にしかありません。

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 暖冬の冬。最初に入ったときに場内に聞こえるのは融雪水で水没したボイラー室周辺の水滴が落ちる音だけ。それは、命の糸が切れんとするときの弱々しい心音のように感じて耳から離れませんでした。

                                             (つづく)

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2007年7月26日 (木)

さよなら枝肉空母 その4

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 さて、別棟にやってきました。ここまでくると設備が飛躍的に増えて、家内工業的な形から工場化しています。このあたりで有限会社化していたのでしょうか
 しばらく閉鎖されていたこともあり中は、肉というより消毒液の香りが充満しています。(病院のそれとは異なる香り)
 各部屋は枝肉の搬送が容易なように搬入口のハッチから各冷蔵庫までを全てレールで結んであります。天井を巡るレールは重厚な威圧感ですね。一般では見ることのない大きさのプラ製の容器が大量に見られますが中は空っぽ。
 ホースもやたらと見られ製品小というより物置のようになっています。施設を拡大していったというより増床のたびに旧棟は使わなくなった…そんな印象です。
 機械類も充実し、しゃぶしゃぶ肉用のミートスライサーが数台見られました。
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 名実共に会社化したようで、「衛生管理」「品出し」などの標語が目立つようになり、手洗い場もあちこちに据えられるようになりました。
 この棟の外から2階へ通じる階段があり、向かってみます。しかし、階段途中から接合部分が剥離してしまい、三分の一程が陥没したようになっています。1枚板の階段なのでそっと上りかけると少しフワフワ揺れます。怖いな…(後になるとすっかり慣れてしまいました)
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Dscf2532Kanban_1    ここは、従業員の休憩室に使われていたようです。ただし、トイレも小上がり風なところもギフト箱や発泡ケースなどの備品類で埋め尽くされていました。東西にドアがあって屋上に抜けられます。ここに会社のシンボル看板も据えられ、主要な配電盤も設置してあります。
 その配電盤の裏に桜の幼木が…今年初めての桜を見ました。誰の目にも触れないであろうこの桜も元気に開花しました。来年は見ることは無いのですが…
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 この棟からは建物は、社屋というより巨大な冷蔵庫化しています。窓はなく、昼なお暗い空間。稼働中は、寒かったようなので耳カバーなども見かけます。
この冷蔵庫の中で枝肉が所狭しとぶら下がっている光景は、さぞすごいものだったことでしょう。Dscf3058

 並んでいる鍵爪を見ると、とあるホラー映画を思い出しました。
あの映画も設定は肉屋だったような…

(つづく)

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2007年7月25日 (水)

さよなら枝肉空母 その3

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 昭和32年創立のこの会社は、当初別の名前でした。起業してから35年後に本社を札幌に移転。当地は工場事業本部として主に枝肉の分別、同業界の流通を持つ会社によって全校へ素材を卸していました。
 そして社名を変更。まさに業務の視野を世界に向けたような名前でした。
しかし、その12年後には、その歴史に終止符を打つことになります。平成16年会社更生法の申請をしたとき、負債総額47億円。この年、北海道内の大口倒産は大手ゴルフ場が3社。中には負債146億のところもありました。ほかに広告代理店、建築関係など。
 食品関連ではこの会社が唯一です。関連会社に食肉加工、外食関連があります。従業員35名。パートが22名。

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Dscf2557  先に触れたBSE問題化の折、全国の関係工場調査でもここは危険部位(脳や脊髄など)を的確に処理しており問題はありませんでした。
 処理は適切であったとしてもBSEに関する風評により肉どころか牛乳までも槍玉にあがり、食用肉(特に牛肉)から消費者は遠ざかっていました。
 後に今度は鶏インフルエンザにより鶏肉から鶏卵までもが影響を受けます。万が一発症の場合、廃業に等しいことから家畜の死を隠すという事件も記憶に新しいことです。
 現在は、やはり食肉加工業者が原料不足から魔が差し、別の肉を混ぜたものを純牛肉として出荷、大問題になり、多くの食品加工業者に影響が出ます。

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 食品の漠然とした安全神話が揺らぐ世の中になってしまいました。
 さらに、ここでは大手取引先の流通の変化があり、業績の悪化が加速したようです。
 信用以前に業界を取り巻く大きな動きが工場の未来に影を落としたのです。

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2007年7月24日 (火)

さよなら枝肉空母 その2

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 この陸の空母は個人企業から出発し、繁栄と共に増床。このあたりは今でこそ住宅や社屋が増えましたが創業時は市街地から離れているため、増床の場所は豊富であったのでしょう。
Pmap   この空母の間口はどちらになるのかははっきりしないところですが、国道に面した側を間口とするならば奥行きは300mを越えます。
 裁判所公認の倒産物件となってから探索は不可能と思われましたが、買い手がついたのか程なく解体が決定したようです。解体業者が準備を始め、作業時間外の条件で調査を開始。半年に及んだ作業のため時には夜間になることもあります。ほぼ建物全体が冷蔵庫であるので窓は排煙用以外なく、昼なお暗い空間です。その全体像は4つの建物からなるもので、端から繁栄の歴史を垣間見ることができます。

 その内部を古いものjから追っていきましょう。

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Dscf3862  外壁の下地に電装会社の屋号がうっすらと見えるので元は別会社のものだったのでしょう。それを改造して出発した企業です。社屋1階は改造して組み込んだ冷凍庫がいくつか残っています。2階は当初事務所兼自宅であったようですが、後期には全く使われなくなったか従業員の休憩所に使われていた程度でしょう。ベッド、電化製品、バスルーム、給湯器などが残されていました。奥に和室が2間。しかし、すが漏りが発生し天井部分が傷んでいます。
 当時、肉類も部位や用途別のトレー売りも始まっており、外食産業のバイキング化も増えだしてきたので、営業が軌道に乗るのは意外に早かったのかもしれません。社屋が手狭になる時はすぐに来たことと思われます。

 居住空間として使われたここも上向きの業績の中、別宅が建てられ、生活の場は職場と分離していきました。

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 居住空間とは別に奥に広い部屋があり、流行歌のレコードが裸で放置されています。奥に食堂の小上がりのような和室がひとつ。もしかするとここは、ずっと昔はドライブインだったのかもしれません。

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 昔、流行った曲を耳にするとその当時の世上や自分のことが心の中から沸きあがってきます。普通では思い出さないのに1曲聴いただけで記憶回路が廻り始めたように次から次へと頭に浮かんでくるのは何だか不思議な気もします。
 ここにいた人も時折、そうして初心に戻っていたのかもしれませんね。

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Dscf3864  ここから始まった想いはやがて世界に展望を広げることになります。まだ、この棟の時点ではがむしゃらに生きてきた感もあります。それでも未来は常に上向きに輝いていたのでしょう。将来起こる世界的な打撃など誰の心の中にもなかったそんな頃です。

(つづく)

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2007年7月23日 (月)

さよなら枝肉空母 その1

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Tower  破産宣告には、かなり驚いた。その巨大で屈強な外観は不沈空母を思わせていたから… 社屋は国道沿いの元電工会社の建物から始まり、増床を重ねてその奥行きは300mを越えており、外壁には社名、扱い商品名、参加の外食企業の名などが書き巡らされて主張する空母でありました。

 ここに運び込まれる枝肉は部位ごとに的確に分解され、スーパー・外食産業に卸されます。ギフト用の地元をアピールするハムなどの商品も製造され全国に出荷されていました。さらに外食産業への参入。卸業者の特質を生かしてよい肉を安価で提供し、ピーク時には予約が無ければ数時間待ちどころか当日の利用は不可と思われるほどの盛況でした。食の場の笑顔は正に幸福感そのものです。

Hasan  卸先は地元でも大手で経営も安泰で社屋の増床などを考えても右肩上がりの状況でした。社名も地元だけではなく視野を世界に向けたもので、かといって驕っていたわけではなく商売人の基本を忘れぬ堅実な経営がこの1年を越えた調査の中で伺えました。

 ある年、信じられない事件が起きてしまいました。
牛海綿状脳症Bovine Spongiform Encephalopathy, )BSEの名で知られることになったいわゆる狂牛病の発生。牛の脳にスポンジ状の空洞ができ、初期は痙攣を伴い進行すると音や接触に対して過敏な反応を示し、やがて運動障害を起こし狂ったように死んでいく…ウイルス性のものではなくプリオンと呼ばれるたんぱく質のみで構成された物質が何らかの形で立体構造の異なるものに変異した異常プリオンが正常なプリオンも変質させていき、発症すれば治癒不可能。1986年にイギリスで発症して以来、大量の家畜が殺処分された。
 人には伝染しないとされていたが、後に牛が原因と思われる変異型のクロイツフェルト・ヤコブ病の発見。世界中がパニックの渦中に陥ることになります。日本には皆無と思われていたBSEはやがて最初の症例が発見されて以来、牛固体識別体制や検疫、トレーサビリティなどの対策がとられますが既に食卓から牛肉が消えるには充分すぎる打撃でした。 
 国内でも十数例。米国での発症例が報告されてから数年間の輸入禁止措置。一般家庭では全ての牛肉と牛を原料とする食品全てから離れ始めて価格の暴落、それでも売り上げはダウン。風評被害は一時、牛乳にまで波及していました。

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Dscf0530  原因とされるのが配合飼料に添加されていた肉骨粉。その内容は牛そのものの骨で、家畜を肥やすために共食いもさせるという行為が、神の逆鱗に触れてしまった結果がこの病を作り出してしまったのでしょうか。それらの給餌されていなかった純和牛にまで消費者の矛先は向けられました。

 安価な輸入牛肉が使われなくなり大手外食チェーンが牛丼の販売を休止。焼肉バイキングにいっても肉はほとんど無いなど身近にも影響がありました。
 畜産業者が経営悪化を恐れて死牛を隠す事件も起きてしまいました。
現在は、沈静化したのか牛肉の値も戻り、報道も「BSE牛海面状脳症。いわゆる狂牛病」と呼ばれたものは、単に「BSE」と報じ方に変化が出てきました。

 BSE自体メカニズムが完全に掌握されたものではなく、しかし実際に狂い死にする牛の映像をしつこく見せられたのでは牛から消費者が離れるのは当然です。

Dscf2415  この、かつて無い状況がこの会社の打撃を与えたのは間違いありませんが本当にこの病気が原因だったのでしょうか?

(つづく)

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2007年7月22日 (日)

見られたのはどっちだ!

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Dscf6584  今はめっきり見ることがなくなりましたが、道路わきにこんな感じのものがよくありました。
電話ボックス?違いますよ。これは正式な名前は分かりませんが「交通監視所」といったものです。それらには大きいもの、木造のもの、プレハブのもの、キヨスクみたいなもの、FFのドライブスルーみたいなもの、低い火の見やぐらみたいなもの、そしてこの電話ボックスみたいなものなど様々な形があります。

 これらの物件に共通するのは「中にいる人など見たことが無い」ことです。ねこんの運が悪いのか、本当は「張子の虎」なのか不可思議な物件です。
 こちらの物件は電話ボックスの再利用なのかもしれません。電話ボックスというと思い出すのが、とある競馬場の関係者入場口に警備員が常駐していますが雨風防止のためか普通のガラス張りの電話ボックスを置いて中で胸を張って職務遂行しているのを見ましたが国道沿いのボックスの中で車の流れを監視していても凄く恥ずかしい感じがします。

 でも、この中は見たことが無いから…よし行ってみよう!

調査開始!

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調査完了!

 ここで、ただ一人道を見張っているのも空しそうですね。
それに炎天下だとサウナ状態で職務とはいってもキツそうですね。

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2007年7月21日 (土)

歌う小道

Dscf6582  主要幹線道と近隣市街に折れる道の交点。その一角に捨て置かれた速度40㌔制限の路面表示がありました。たぶん、本道とはもっと自然に接続していたのでしょう。
 道に主従関係があるなら元の接続はちょっと怪しく、そのために事故などの起こる可能性があるので付け直したものです。
正面には果てしなく大きな空の下、緩やかな丘陵が見えて視線を奪われていると国道を走る車と思わずガチンコなのでしょう。

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こんなものでも発見すると嬉しくなってしまうのは、赤瀬川源平氏の「路上観察学入門」やエッセイを愛読したいたからでしょうね。
 廃墟探索も軽く廃墟観察としてウィット感を出してみたいです。

 この道なら寝転がってもOKです。それどころか卓球までできますね。国道が近いので強力なスマッシュは禁止ですけど。
 この道は時折、歌に包まれているようです。なぜならその先には…

Karaoke

 カラオケ食堂かな?とも思いましたが地域カラオケ連合会の集会場でしょう。一応通信カラオケ搭載のようです。どうやら現役のようです。フリーで歌えるかはわかりません。

Dscf6583  北海道、特に山を生業にする人々にとって生活の場である山は、暮らしに実りをもたらしてくれる母です。その反面、山をなめてかかる者達には非常に厳しい父でもあります。
 山には時折、クマも出没し(こちらからその聖域に入っているともいえます)痛ましい事故も起きています。自分、そしてクマにとっても自分の存在をクマにいち早く知らせることが被害を起こさないための第一条件です。その手段が音であり、登山や山菜取りには「熊鈴」と呼ばれるものが必需品です。
 「カラオケ」が飛躍的に北海道で広がった一因は、熊と出会わないための用心として唄う「熊唄」というものが演歌のメロディの持つ特定のパルスに酷似し、それは熊自体が最も警戒しやすい音で、祖先が厳しい北の大地の中で培った護身術
もあるのです。
 このような背景から北海道におけるカラオケの流行は、単に流行と言う器に収まるものではなく、大自然の懐に生きる我々の血に「カラオケ」が本能的にシンクロした結果であると思います。
 山に生きるものにとって唄は、単なる愛好ではなく生きる
残る手段だったのです。だから十八番の唄はその人にとってクマ除けに効果的な唄ということなのです。

Dscf6581 すいません ネタに詰まって捏造しました。本気にしないでください。(特に道外の方々は)

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2007年7月20日 (金)

1年生の科学

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Dscf0261 皮のついたままのジャガイモをおろし金で一生懸命すりおろす。要領がわからないのでむやみに力を入れるのでおろし金の縁が器からそれて机の上はビショビショになってしまった。
 みんなが同じことをしていて教室の中はゴリゴリという音と土臭い香りが充満している。
 すりおろしたジャガイモをガーゼに包んで透明なコップに汁を絞る。そこに水を加えてしばらくするとコップの底に白い粉みたいなものが溜まりだした。
『これがジャガイモから取り出したでんぷんです』 でも何だ?でんぷんって…
 良く分からなかったけど学校に通いだして初めての科学っぽい実験でした。

Kouba  かつて北海道内には2000を越える澱粉抽出工場があったそうです。ジャガイモを通年使える食材(保存食)にするため、農村部の河川や湧水の豊かなところに澱粉工場というのがたくさん作られました。出荷用のほかに近隣の農家が自家用のイモを持ち込んで生成してもらうということもよくあり、冬場の貴重なエネルギー源どころか年中食べられたようです。

 おじいちゃんがお椀に盛った澱粉に熱湯をかけてグミ状のフニャフニャになったところに醤油をかけて食べていたのを思い出します。いわゆる「でんぷんかき」というものです(でんぷんをかき込んで食べるから?)。あまりにも美味しそうなので少しもらって食べるとすごくまずい…
 「なぁねこん(とは言わなかった)。じいちゃんの若い頃は、これがご馳走だったんだぞ」
意味も分からず「じいちゃんの舌はおかしい!」と思いました。
 片栗粉というのは元々カタクリの根からとったそうですが現在はジャガイモでんぷんであることがほとんどです。小さい頃の経験で一生食べないぞと誓いましたが今では中華系のとろみをつけるのに欠かせません。

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Dscf0266  ねこん在住町の隣町にこの工場跡が残っています。同町では明治42年に最初の「澱粉工場」が創立されて1万200斤を生産、707円の収益ありました。大正6年(1917)にはこの工場が営業を始めています。昭和35年(1960)に三倉産業直営で当地を含めた3工場のほかに、別地の3工場と共同作業場がありました。しかし、原料を地元農協の合理化澱粉工場(昭和30年)へ出荷するようになってからは、相次いで廃業することになっていったようです。 また、処理工場の衰退した一因に河川の汚染もありました。
 当時生成後の搾りかすは、現在のように家畜用の配合飼料が流通していない頃、家畜の餌として養豚場などにも出荷されたようです。

Dscf0264Dscf0271   同工場は、でんぷんの生成のほかに雑穀の流通業も担っていたそうです。
現在は近隣農家の土地の一角に長年栄華の跡を見せています。所有地の農家にお話を伺うと「あれは、うちとは関係ないんだよね。危ないから壊してくれって町にいっているんだけどさ…」確かに幹線道に近いところにレンガ積みの煙突があるので倒れた場合は通行車直撃でしたが…

 近くには、原料搬入に使われたと言うホッパー状の遺構があります。高台沿いにあるので上から原料を搬入したようです。中に入ると屋根を失った家のようです。これらの工場が次々に閉鎖された頃、あまりにも多かったためか特に史跡としては保存されなかったようです。時折、釜跡だけが荒地に残るのを見ることがありますが、建物自体が残っているのは知る限りここだけでした。

Dscf0269

Dscf7360  当初、ここは旧火葬場と思っていました。(建物が現存しているのは見たことが無かったので)近所で聞いて澱粉工場と知りました。でもこういうものが寛容に残されている環境っていいなーと思っていたらある日、見慣れた風景に変化が…

『あれ?無い無い!』 レンガ積みの煙突は根元からすっかり消えてしまいました。
 あ~近くの家の要望が通ってしまったんだな…もったいない。ある意味仕方が無いにしてもね…。

今でも小学校で澱粉の抽出実験って続いているのかな?

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2007年7月19日 (木)

焼き場にて ②

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Dscf0652  ごみ分別にも種類があります。燃やすごみ、燃やさないごみ、資源ごみ(缶・ビン・ペットボトル・容器包装にかかわるプラスチック、紙類)、新聞類・雑誌類・ダンボール類・紙パック・大型ごみ・危険ごみ(電池〔ボタン電池は含まず〕・蛍光管など)
 行政地区によっては、生ごみも分別対象にしているようです。まめに分別すれば燃やさないごみの場合、3ヶ月は45ℓ袋1枚で充分なまで減らすことが出来ますが、排出基準が行政により若干の異なりがあって混乱があるようです。
 例えばフライパンは、ある町は燃やさないごみの袋に入るのでOK。他方の町は大型ごみ扱いになります。このような手間とわずらわしさから思い込みや曖昧さが目立つ分別になってしまいます。

 覚えることも問題ですが、家に分別用のごみ箱が増える結果となり、収集日が細分化された上、祭日が重なるとごみステーションに置かれても収集されず、ほかの分別物収集日に『収集不可』シールを貼られ置き去りされているのも見られます。だからといって回収する様子もありませんが。

 今やそれ自体が巨大な廃棄物となったごみ処理場。でもその閉鎖は「惜しまれる」ということとは別のようです。最も過酷な労働を担う施設でありながら式典もあるわけではなく、ただ回路から取り外されたかのように時を止め、存在意義を凍結させました。
 勇退とか退官という言葉に縁のない施設。温まることの無い煙突の指差す青空を雲が悠々と流れていきました。その青空も紫外線云々で歓迎されない面もあります。

 人の暮らしに密接しながらその面影は少ない無機質な終末砦。
事務的でドライな印象がありますが、実は最も心を感じる碑が建立されていました。

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Dscf0654  人形供養、針供養、刷毛供養など生活や業種によって人ではないものの労をねぎらう行事があります。神仏とは違う精霊信仰的な印象がありますが日本独自の考えかたではないでしょうか。
 さすれば、ごみとて同じこと。この『大魂碑』が建立されたのもしごく当然なのでしょう。
その当然があったことがどこかホッとする気がします。

ごみは捨てられても心までは捨てていない。 ということですか…

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2007年7月18日 (水)

焼き場にて ①

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Dscf0644 青い空 ポカンと浮かぶ雲 煙突から出る煙が高い空へ飛び立っていく
ここが雲を作る工場だと思っていた頃 その日は既に遠く…
大人になるためにそぎ落としたもの達を空に帰し続けた焼き場はその動きを止めて久しい
みんなが大人になったわけではなく みんなが落としたものが多すぎたのだろうか
赤錆だらけの煙突は大人になって見上げることを忘れていた空を静かに指差し何を語る…

Dscf0647  町のごみ焼却場が停止して数年経ちました。燃やすべくごみがなくなったわけではなく、焼却によって発生するダイオキシン。すでにおなじみの有害物質です。燃焼効率の劣る釜だと、普通の紙程度のものからでも発生するらしい。高規格の焼却炉でないと発生を抑えられないということで町村設備の焼却炉は、ほとんどが適切ではないことになりました。
 もちろんダイオキシンだけではなく、地球温暖化に関わる二酸化炭素の抑制。そしてごみの再資源化など、ごみ処理に係わる情勢は変わりました。
 でもそれでごみは本当に減ったのかというと決してそうではないようです。

Dscf0645  ごみ処理の有料化や分別の行政指導・民間活動により、ごみの排出は減少傾向に向かいましたが今は少しづつではありますが再び増加傾向にあります。
高規格処理施設に搬入している町村はともかく、参入に至らないところは単独で焼却以外の処理が必要になります。
 この町では再資源化に向けたものを覗いては現在、「燃やせるもの」「燃やせないもの」全てが郊外の山中に埋められています。後に高規格処理施設に搬入するようになるようですが、現在の施設の課動力等考えると現状でも手狭になりつつあります。

Dscf0649  この閉鎖された処理施設は稼働中、付近にえもいわれぬ臭気(腐敗臭)もありました。小学生の頃社会見学でここに来たことがありました。臭くて蠅が多いところという印象しかのこっていませんが、今は焼却に使用したと思われる油の匂いが残っている程度です。
 一時は、ごみ排出量軽減対策として家庭用ごみ焼却炉を行政が購入助勢した時期もありました。それらも町条例等によって無料回収などを得て使用禁止となりました。
ねこんの町では『野焼きを禁止する条例』もあります。他所も同然なのでしょう。

 『人類は自ら出したごみによって滅びる』といった報告が専門家に報じられていたのを何かで読みました。少子化も高齢化もそして、地球温暖化もずいぶん前から学者先生の警告として世に出てきましたが、地震と同じように公も民も具象化しないと動かないものなんですね。学者先生の言うことはたぶん正しいのですが、つながるところに繋がらず論文だけが公表されているように感じて、どこか空しい。

(つづく)

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2007年7月17日 (火)

ブロークン・バック・マウンテン ②

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Dscf2167  こちらがブリーダー宅。ところが建具類は一切ありません。風で吹き飛んだとも考えられますが枠(サッシ)ごと無くなっているので、後からすべて外したというのが妥当な見方でしょう。何故?と思いますが意外に近場で拝借して再利用しているのかもしれません。

Dscf2168  前を通る道からここまでおよそ20メートル。雪が少ない冬だったといっても山が近く、気流の関係もあるのか積雪は膝丈以上。ここにつくまでがひと苦労でした。廃校跡を見に行った折に膝丈の坂道を300m進んだことがあり、それに比べればどうということはありませんがやはり体力勝負ですね。近くの山にはスノーシュー(かんじき)の跡がたくさんあったので次の冬にはマイスノーシューを考えたいですね。と思いアウトドアショップやスキーショップに行くと2~3万円!へ~っ高いものだな…

Dscf2166  外壁は外壁用鋼板。断熱材もフォームボードを使っているところから犬舎よりも新しいものです。屋根の鬼瓦が不似合いです。これと双璧をなすセンスはモルタル平屋の茅葺き屋根でしょう。この家の新建材が多いところから建具も全てサッシでもったいないので持っていかれたのでしょう。加工が入るといい値段しますからね。

Dscf2173  戸板と窓枠を外された家は、当然のこと山の雨風そして雪に晒されました。畳表も風化して藁のように四散していったようです。家屋内部に生活の跡は残っていますが何となく生活感があまり感じられないのはオープンすぎるからでしょうか。
 浴槽は使い込んだ感もあり、洗面台、古新聞、買い物籠など…でも肝心の商売に関する部分が住宅にはあまり無いのが特徴です。
 今一度、犬舎を見てみましょか。反対側にあった重い吊りドアを開けてみると階段が…

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Dscf2178  上階は屋根のトタンが破れて雪が吹き込んでいます。その分中は明るい。
ここに部屋がひとつありました。柄入りの曇りガラスにセンスのある遊び心を感じます。
多くの物が残っていますが牛舎時代のものか犬舎時代のものかはわかりません。ストーブや灯油タンクがあることから寝泊りを可能にしていたか、犬舎自体を暖めるか病犬の看護目的があったのかもしれませんね。

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 ブリーダーの犬に対する愛情はいかほどのものでしょうか。
愛情が深すぎると犬達を送り出せず、酪農業のように生産重視だとなにか工業的で愛玩動物の扱いと言うきもしません。
 単を発すれば、『犬好き』なのですが、今まで偶然に見てきたこれら、ブリーダーの城はその命があまりにも短い。それは商売が軌道に乗らなかったのか自分の犬愛に矛盾を感じたのか…
 飼い主に忠実に、とても忠実につくす犬達にはもうひとつのドラマがあったのでしょう。でもそこまで知る由はありません。

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2007年7月16日 (月)

ブロークン・バック・マウンテン ①

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Dscf2252  管内にある神の住む山 霊峰T山。
山裾には「四国八十八箇所」も祀られており地域と周辺の厚い信仰の舞台となっています。

 毎年、山開きの折は火渡りも行われ、独特の宗教観も繰り広げられた信仰色の強いところですが山は軽登山の地としても人気があり、山裾に開かれた参拝場も一般に開かれていて、一帯は凛とした空気の漂う不思議な雰囲気のあるところです。
Dscf2186  その霊峰を近くに仰ぎながら一時、地域全体を巻き込み騒然とさせた新興宗教の問題もかつてあったこの地。真相はともかく静かになりました。今や林道のようなわき道に結構な数の別荘も点在して、第二の人生をこの地で楽しむ人も多く見られます。
 もちろん農家も点在しますが、往年よりもその数は激減して耕作地はあれども管理している農家は見当たらないほど広大な土地。東を仰げば遠くまで田園風景が広がるこの地の脇にこの家が存在しました。

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 サイロを1基携えたこの廃屋は、酪農家の跡でしょう。サイロの根元に竣工年度が彫られているようですが彫り間違えたのか「四」の前の字が怪しくなっています。サイロの形状から言って「昭和三十四年」とするのが正解でしょう。
 離農期は読めませんがその後、新たな居住があったようです。『ドッグ・ブリーダー』こういう業種がありますが意外な場所に意外に多い。始めは鶏小屋のように思えたのが痕跡から中に飼われていたのは犬であるようです。
 一見、ペット産業に関わるにぎやかな商売が暮らしは質素であることが多く、経営も長くはなかったようです。一時期、低資金で始められ、爆発的に広がりながら需要の問題か何かで斜陽も早かったのでしょうか。看板も無く、小分けした小屋や檻はありますが運動場があるわけではなく、どこか工業的生産を感じさせるのは実情を知らない自分の偏見であるのかもしれません。

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 飼い主の愛情をいっぱいに受けて素直に応える犬達。その濁りの無い澄んだ目の奥には飼い主の知らない影のドラマがあったのかもしれません。たとえ筆舌しがたいことがあったとしても彼らにはとっくに忘れた昔のことなのでしょうが… 

(つづく)

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2007年7月15日 (日)

開拓の窓から ②

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Dscf1458  戦後開拓で北海道へ渡ってきた人たちは、戦後の荒廃や身内の離散で行所がなくなり、土地と住居をもらえることを魅力に感じてきたそうです。
 しかし、実際は土地と言っても戦前戦中でさえあまりにも奥地であったり、交通手段が未着手など、当地に行くことすらままならないようなところで家も掘っ立て小屋やバラック同然のものがほとんどでした。開拓の進んでいた地域は既に満杯状態だったため戦後の食糧増産と人口の分散化を目的とした開拓事業だとしても樹海のごとき辺境地をあてがわれたのではたまったものではありません。戦災で助かっても熊にやられたのでは合わないので数年以内に転出していった方も少なくはなかったでしょう。

Dscf3319  この家の住人は開拓の進んでいたところなのでまだ、幸運だったのかもしれません。
それでも関東出身でこの地に始めてきて、冬季マイナス20~30℃をこのトタン小屋で過ごしたのは過酷な暮らしには違いなかったことでしょう。

Dscf3309_1   電話帳はあっても電話など無く、風呂もトイレも水道も無いこの家で川の水を使い、ストーブで煮炊きをして真っ白に窓ガラスを曇らせながら春を待つ。結果的にこの地を去ったのですが、その数年間は彼にとって戦後の動乱期、少なからずや希望を与えるものであったのでしょうか…

 針葉樹林に残るこの家が戦後をさほど朽ちることもなく残っていたのは、松葉の殺菌作用と防風によるものかもしれません。壁に貼られたカレンダーか何かの『がんばれ』の文字。これが、まさに彼の座右の銘だったのです。

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2007年7月14日 (土)

開拓の窓から ①

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Dscf3303 町の礎が築かれたこの地区。つい数年前までは、ここも道道に面していましたが幹線道の直線化に伴ってこの辺りは町道に降格し、今では住人と除雪車とキタキツネしか通りません。最初の開拓から1世紀を越えて現在は離農跡も目立つようになりました。

 山沿いの農家跡のすぐ近くの山際に小さな小屋が見えました。たぶん農家の物置だろうと思っていたところ、スコープで見てみると窓際にカーテンと横に煙突が見えました。
「すると家?」これは何かありそうです。

傾斜のある荒畑の脇を通って近くまで行ってみるとこちらと家との間に小川だったようですがけっこう深い溝が出来ていました。融雪水か大雨の折に川底が抉られてこんなに深くなったのでしょう。ここまで来て遠くから回り込むのも面倒だしとダメモトでジャンプ!…落ちた!ら嫌なので少し登ったところから回り込みました。

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 屋根も壁も波トタンが張られて、屋根に落葉松の葉がこんもりと積もっています。
角に急ごしらえで作ったような木製のドアを見つけました。窓は無く、風で開かないように針金で固定してあります。中を伺ってみましょう。
Dscf3308 Dscf3307 『ほー!』これは、古い!明らかにここに暮らしがあったようです。壁にかけれれたままの衣類、ダルマストーブ、薬箱。そして兵隊の持ち物らしい飯ごうが壁にかかっています。
記名はありませんでしたが、場合によると戦後引揚者が入植していたのかと思い後日、地域開拓100年史を調べてみると近くの農家はありますがこの家に関する記述は見つかりませんでした。「やはり、近くの農家のものかな…」と少し納得仕掛けた時、図書館の蔵書検索でもう1冊の開拓史(80年史)の存在を確認。活版刷りで文字がずれ放題の来住者一覧をひとりひとりチェックすると浮かび上がりました。

 「昭和20年10月23日 終戦開拓者として東京都から入地。営農6年後、昭和27年4月千葉県へ転出」とあり、住所も一致します。入地の翌年、兄弟と思われる人が訪れていますが遅れること2年後に埼玉県に転出していました。飯ごうはやはり軍給物だったようです。

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Dscf3318  実に短い期間の開拓従事ですが、その6年間この小さなトタン張りの家で極寒の冬を過ごしたのでしょう。そんな自然の厳しさに限界を感じたか、目的を達して新天地を求めたのかは分かりませんが今は彼の地で子や孫に囲まれて何不自由ない暮らしを得られたことを望みます。彼らがこの地で残した功績は、実りとなって今も受け継がれているのですから…

 それにしても物持ちがいい家ですね。

(つづく)

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2007年7月13日 (金)

ろこもーしょん★ぶるうす

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 街の中心あたりにある公園です。近くの中学校旧敷地を利用したイベント公園があり、町の初夏の行事が行われています。焼肉の香ばしい煙や地元の「よさこいソーラン」チームの演舞、寄らず離れずにけん制し合う中学生の男女のグループ。まるで季節の風物詩のようです。
 その喧騒から少し離れた所の昔からある公園に1台の機関車が物心ついた頃からここにいます。ペンキがかなり剥げてきていますが、本体は思ったほど破損していません。この勇姿は数十年ぶりに見ました。

Dscf6567  「まだ、あったんだー」
コンクリート製の車体。雨風に晒されてもうここには無いと思っていたのに良く残っていましたね。30年以上は経過しているでしょう。
まめに塗装の塗り替え等をしないとこれほどはもたないでしょう。(あまりしていない風ですが)
 すぐ近くに通称「北向き地蔵」と呼ばれる地蔵堂があり、そのおまつりに子ども対象のイベントがありました。
 男女混合の軽相撲大会(主に小学生)で、勝つと50円。負けても10円の報奨金が出るため腕に自信のある猛者が集いました。ねこんもお金に目がくらんで出場。出場3回、3連敗で二学年下にまで負けるという角界なら引退ものの成績でした。悔しくて離れたこの機関車の運転席で嗚咽していたことを思い出します。

Dscf6569  コンクリートの基礎に固定されているので本来、動くことはないのですが子どもの遊びの中では「動く」機関車でした。でもなぜか、暴走機関車っぽい演出で走っていたような気がします。前を誰かが横切っただけで「危ない!どけろー!」との怒号が飛びます。
 今、この運転席に入ると自分は成長したんだなーと改めて思います。記憶の中で自分に対するこの機関車のサイズが記憶されているようなので違和感がするみたい。

 園内には遊具やモニュメントが点々として芝も手入れされているようですが、子どもの遊んでいる痕跡はすくない。あの頃あった遊具も老朽化や時折ニュースに出てくる遊具の事故の影響で撤去されたものがあるようです。ここに限ったことではありませんが公園に子どもたちの集う場面はあまり見られなくなりました。
 世の中、色々と物騒だし子どもたちも忙しくなったようです。
今はもっぱら暗がりの中、中学生の集う場となっていることがよく見られます。

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 屋根に登って仁王立ちで枯れ枝を振り回し「行け!行け!」と叫んでいた機関車の同じ場所でDSに嵩じている子がいる。そんな風に時代はどんどん変わりましたが、この機関車は良きおじいちゃんのように今も昔も子ども達を静かに受け止めているのでした。

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2007年7月12日 (木)

香る校庭

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Dscf6705 この学舎に至る道は校地と隣接する農家と通路が共有されているため私有地かとも思える場所です。
とりあえず、近くの農家にお断りを入れます。
当家のご主人は「私は、前の木造校舎時代に通っていたんですよ。」学校のことを少し聞いて、目的の旨を伝えると「鍵は開いているから見ていってください」とこころよく応じていただけました。

 お言葉に甘えて、敷地内に車を置いて林道のような本当に先に校舎があるの?というような道を登ります。程なく開けた場所に出ました。野花が咲き見される先にこじんまりとした校舎が見えました。校門や校章は見えず、事前に知っていなければ学校とは思えない。そんな感じの造りですね。今、立っているところはグランドのようです。

 この辺りの集落は長野県人数名が当地に共同牧場を経営するため、大正元年11月に入地。大正4年12月に100町歩分の特定地貸付が許可となり、大正5年3月、特定地開拓団が渡道、近隣にて小作をしながら準備。大正6年3月、後続団体員渡道。同年12月、一同入地して開墾開始。大正7年3月、3人が来住して団体入殖を完了しました。団体のほかに、九戸の入地があり、全体中、長野県人が多数のため、いつしか長野が部落名になりました。

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Dscf6710 学舎の主な概要は
大正15年5月─長野特別教授所開設
大正12年3月─校舎落成
昭和10年8月─旧校舎を敷地西側より東側に移設
昭和14年12月─大雪のため校舎大破、改修す
昭和15年12月─木造校舎(先代校舎)落成。
昭和38年12月─現在残るブロック校舎落成
昭和45年4月─近隣校に統合
          校舎は部落会館として転用

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 現校舎落成も子ども達の減少からとても小さく、教室はひとつ。全学年複合式の授業だったようです。閉校時の児童数は9名。新校舎の使用は実に7年間でした。入学から卒業をここで迎えられた子は幾人いたことでしょう。集会室になった教室には黒板だけが往年の記憶であり、そのほかはストーブ、テーブルなど寄り合い場としての備品が入れられ脇には大きな神棚が祀られています。

 隣の小さな体育館(普通の4分の1程度)は存校時からのものか万国旗が飾られ、学校の歴史、学校と地域の功績が壁一面に張り出されて在りし日の思い出がしのばれました。
 現在は地域に残る戸数も減り、部落会館としてもあまり機能していないように思われます。それでも、まめに雑草が刈られて荒れずに済んでいるようです。
 時の経過は奥の物置部屋の床を蝕み始めていました。その部屋の壁に児童達の楽しかった日々が焼き付けられるかの様に書き綴られています。

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Dscf6715 野花に覆われたグランド。森林と湿地に囲まれてここだけが特別な場所であるようにです。近くに建立された開拓の碑を見てからここを後にすることにしました。

 どこからともなく白檀(ビャクダン)に似た香りがかすかにしました。元を辿ろうとするも分かりません。ここはそんな悪戯をする精霊の舞う学舎かもしれません。

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2007年7月11日 (水)

果てしない大空

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 『ルイドロ』に出すには、ちょいと誤解が生じるかもしれません。
時折、足寄を通りますが一度も行ったことがなかったのでつい…

 あちこちに「千春の家はこちら」と言う趣旨の看板があるので辿って行き着きました。
以前、日曜のお昼近くに放送のラジオ番組「季節の旅人」というのが流れていて、特にファンではありませんが聞けるときは聞いていました。

 根強いファンを差し置いて、松山千春氏の人間像を語るのは、おこがましいところですが人間的に器は大きい人だと思います。自分がねこ茶碗程度の器しか持たないから大きい器に憧れるのかな~。
 新しい歌はよく分かりませんが、ねこんの学生時は大人気で回りのみんなが聞いていた程なので、頭の中に歌が染み付いています。

 今は全国的に幅広い世代に支持されて大御所となりましたが、ラジオで聞く語りはそれを感じさせない、歯に衣着せぬ人なので、そこがまた人気の理由なのでしょう。
 ねこんは、けっこうラジオを聴くタイプなので、早く帰ってきていただきたいところです。野球と競馬の話は分かりませんけどね。

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「生きるのが辛いとか 苦しいだとか言う前に 力の限り生きてやれ」

うーんそれを考えるとまた、辛いかな…?

明日は本筋に戻ります

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2007年7月10日 (火)

拓殖鉄道・河西鉄道交差橋 その後

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 この橋を覚えているでしょうか。haru様の情報提供で、北海道拓殖鉄道と河西鉄道(軽便鉄道)が上下に行きかう交差橋が共に廃線となった現在も雑木林の中でひっそりと存在しつづけているのを知りました。

Dscf6552  おおよその場所は分かったので、現地に行けば分かるだろうとたかをくくって現場へ向かい、高台の上から林の中を覗き込みながら徒歩で降りていきました。その途中、この橋脚を確認し、現場に到着。
 上部を拓殖鉄道が通り、下を河西鉄道が通過するための橋ですが『小さいなー。軽便鉄道と言うくらいだからこんなものかな?』と思いつつ、頭の中には動物園の列車みたいな汽車がガタンゴトン…
 往年の写真と比べてみるとやっぱり似ている。『これだよねー』とルイドロにアップしました。

と・こ・ろ・が…haru様よりコメント『違うような気がします…』

『えぇえええええええぇっ?!』 ミスった?ヤバ…。
haru様から空撮の詳細を頂き『入ったルートが違うなー。こっちから入るんだ…』
やはりharu様!と感心しつつ、とっとと訂正をアップしないと資料を集めているだけに恥ずかしいですね。

Dscf6538  そう思いつつ、はや1か月。雑草が大きく背伸びしだす7月。今日こそは!
haru様も駆けつけてくれるそうで心強い。とはいえ、午前中の用事が押して、途中信号無視の大型車とニアミスしながら現場到着。
 haru様を待たせてしまったようで、ご挨拶もそこそこに現場へ。初対面のこともあり、藪を歩きながら、簡単な自己紹介でいつしか『世間って狭いですね』というようなお話。ねこんの片手には鎌。
 歩く先はいつしか細くなって、拓殖鉄道の軌道跡がはっきりしてきました。通常の軌道の土盛りよりはるかに高さがあり、先に憧れの交差橋があるという雰囲気が色濃くなってきました。

Dscf6532
 と、軌道が急に途切れます。ここが橋台らしい。藪で下がうかがえないので軌道下へ向かいます。思っていたより高さのある軌道を斜めに降りた目の前には正に疑うことなく交差橋の姿がありました。むしろ往年の写真より巨大ではありませんか。高さにして8m程あるのかな?玉石を埋め込んだ擁壁に苔がむしていい感じです。
 下を通っていた河西鉄道の軌道跡も林の木立に飲まれつつも途中までその姿は確認できます。
Dscf6536  『すごいなー』と呪文のように繰り返しながらルイン君(デジカメ)の出番です。
 唯一、国鉄の通らなかった町で輸送を担っていた2本の鉄路が出会う場所。それが林の中でひっそりとたたずんでいました。これがこのまま顧みられないのももったいない話ですね。

 その後、軌道沿いに進むと後年の河川改修工事により軌道の一部が切り取られ、少し先に前回ねこんの思い込んだ橋(近所の方のお話では拓殖鉄道の明渠排水路を越える橋だそうです)がありました。この間は実はとても近かった。100m程度だったでしょうか。
 軌道はやがて高さを下げて山際へ消えていきました。

 始めての合同探査で、フリーライター風のharu様でした。探査暦は、ねこんより長いそうで、行動が裏付けする情報が豊富で尊敬いたします。
 ねこんは、これからですよ。
 また、近いうちによろしくお願いします。

Dscf6533

 その越年を感じさせない屈強な橋台は、さながらバリ島で見られる割れ門のように密林の中に鎮座しています。この門は既に人の通り道ではなく人と精霊の世を繋いでいるかのようでした。間を通り抜けて軌道の切れ目から振り返った時、ここはもうそこではない世界。そんな気がしました。

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2007年7月 9日 (月)

自動車哀歌 ②

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 教習所事務所の全体です。どことなくモスラの幼虫にも見えますね。左側の正面入口のモルタルが全体と色身が異なるので何らかの建物の流用であったようです。いつもより暖かい春でしたがまだ、後ろの山は緑がお盛んではありません。

Dscf4843  窓はガラスがほとんどありません。●崎さんゴッコでしょうか。壊したい衝動も分からないではありませんが普通の学校とは違うし、ご老体(ご労体)はいたわりましょう。

Dscf4844『こんにちわ 失礼しまっすー』
『廃ーっ、どうぞー』
 とは返って来ませんでした。もちろん…

 おおよその中は伺っておりましたが、自分がこの場に立つライブ感は素晴らしいですね。発掘魂に火を付けます。
 営業の痕跡と言うより、生活の痕跡が色濃く見えます。ここにもタイル張りのコンクリートシンクが御鎮座。水場のわりに痛みは少ないものです。これってレトロブームで再燃しないかな…と思ってみますが重さは洒落にならないので『もどき』でもどうでしょうか。

Dscf4847

 何となく、事務机よりもちゃぶ台がお似合いな感じです。畳はすでにバラけて元の草みたいです。壁はストレスの餌食にされたようで石膏ボードが穴だらけ… 『?』石膏ボード?すると思ったより新しいのか?発見した新聞は昭和56年のもので、ここで読まれたものであればこの頃がこの教習所のバニシング・ポイントとなります。

Dscf4853 Dscf4852 ところが、かなり異質なものが目に入りました。押入れとおぼしき場所の襖の壁紙の下に古紙利用の下張りの紙があるようです。それも古い新聞のようですね。
どーれ…『えっ?』
『新潟新●:明治18年8月14日!これは古い!』裏紙に使われていたため変色もせずに残っています。障子も馬鹿にできません。まるでひとつの歴史書のようです。ほかにも墨書きの借用書らしきものもありました。なぜにこのようなものが?

Dscf4854  考えられることとして、襖を入れた建築当時は、近場に建具製作業者がおらず、内地から船便で入れていたという背景が浮かび上がります。大工とてそこまで造作はできなかったのでしょう。
Dscf4848 ちなみに明治8年とは、アメリカのマンハッタン島の自由の女神が完成する前の年で、ベンツやダイムラーがガソリン自動車を発明した頃です。札幌市(現在の琴似地区辺り)に最初の屯田兵が入植した年の10年後です。どうです?凄いと思いませんか?考え等によっては重要な郷土歴史資料ですよ。これは…新聞広告も漢文を見ているようです。

Dscf4855  しばし、へーっと関心して今度は2階へ。隠し納戸のような場所の階段を一段一段つま先で確かめながら上がります。
 ちょうど、モスラの頭の部分。2階はこの部屋のみです。ここの障子も何層にもわたり古い新聞が裏紙として残っています。ただし、ここのものは戦後の高度経済成長の頃でステレオの広告が見えます。『ステレオ』を謳っているほどなので、時代的にステレオ録音が可能で再生機も一般に普及し始めた頃ということで昭和60年代後期頃でしょうか。この頃には襖の製造も地元で可能になったのでしょう。

 このような思わぬ歴史的資料を内包しながらも本筋の自動車運転教習に関するものは皆無というのもまた、奇妙と言えば奇妙です。

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四角張ったモスラの幼虫は、ただ自分に課せられた使命を遂行し続けて教習コースを見つめ続けていました。
 明治・大正・昭和・平成と時代の欠片を抱きながら…

 自らは羽ばたく成虫になることのないまま、生徒たちの羽ばたきを見送ったのです。

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2007年7月 8日 (日)

自動車哀歌 ①

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『あの娘をペットにしたくって ニッサンするのはパッカード 骨のずいまでシボレーで あとで肘鉄クラウンさ…』と唄っていたのは、永遠のマイトガイ(ダイナマイトガイ)小林旭さんですが、こちらは廃墟化してすでにエレジー(哀歌)の雰囲気です。

 愛しの恩師、カナブン師匠の北海道廃墟椿において『H自動車学校』の名で、いち早く世の中に出ている好物件です。
 現在は、高校以上進学、自動車免許証取得は当然(地域差はありますが)のような世の中です。特に北海道のような土壌では、鉄路どころかバス路線さえも縮小の折、車がないとどこにもいけません。家族や夫婦で通勤先が異なれば1軒に1台というのも不便な話で、保有台数が多いからといって決して裕福になったというわけでもなく、自動車税・車検・ガソリン代と頭が痛いものです。

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 バイト代とバイト時間を工面してなんとか取得した免許証。そのために通った自動車学校。教えを得るところだから当然ですが、同期の人とも打ち解ける間もなく卒業していくような学校ですから情の移る暇もありません。それでも本免試験合格となると卒業記念写真を撮るサービスがあって、笑ってVサインの写真が今でもあるから奇妙です。

Dscf4834Dscf4831  おおよそ自動車学校では認可を受けているところだと、仮免許・本免受験資格を得られ試験場で合格できれば免許証取得となっていたと思います。
 ねこんは札幌在住期に近郊の自動車学校に通って受験資格を得、最寄の試験場で本免許証試験を受けた訳ですが、そこまでは試験場行きの路線バスを利用しました。各教習校が殺到する日でもあり、車内は満員で座る席は無し。時期は冬場で窓は白く曇っています。何を隠そう、ねこんは人一倍乗物酔いしやすい体質で道中のバスの中で臨死状態に陥り、なんとか試験は受けましたが、帰りに試験場の外で満面の笑顔でアプローチしてくる献血車の方々には応えることはできません。今でも相乗りだと黙り込んで外を見ているか即、眠ってしまいます。そんな学生時代に故郷と札幌の間をJRを利用していましたが、乗物酔いが嫌で発車前に眠って札幌駅下車のつもりが余市のホームに立っていて絶句したのも今では、いい思い出です。JRは脱線しませんでしたが、話は底抜け脱線しました。

Dscf4835_1  こちらの物件は、自動車教習所であったようですが地域資料や郷土要覧・郷土新聞を斜め読みしてもその名を見つけることができませんでした。
 創業時期は未確認ですが師匠のサイトの空撮映像資料の年代と状況から昭和50年代までは、営業していたと思います。
 受験資格をここで得られると最寄の試験場(当時は釧路まで出ないと試験場が無かったので警察署において試験という形をとっていたそうです。聞いた話では)へ該当者を乗せバスで向かうという他校にありがちな進行形式であったと思います。
 近年は、各自動車学校でも入校生獲得のため遠方まで送迎バスが向っての獲得競争の合戦状態でしたが地元だけカバーできれば経営していけたこの教習所では、たちうちできない打撃になったのでしょうか。

   訪れたとき、春の好天が続き雑草の勢力に侵食されそうな教習コースを目にしました。路面を割って顔を出す野草がコース攻略を難しいものにしています。
 コース外周は柵で囲まれていたのでしょうが、今は残っていませんでした。コースのすぐ近くまで宅地が広がっています。辺りは一般住宅が多く新興住宅地のためか、この教習所の現役時を知る方には出会えませんでした。まるで植物散策コースと化してしまった路上に信号が雑多な植物を監視するように立っていました。
 時折吹く風に山の者には敏感に感じ取れる潮の香りがします。

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 さて、山の懐に抱かれた教習所の管制室へ入ってみましょう。中に潜んでいるのは時の玉手箱か師匠カナブンか…ブーツの紐を締め直していざ、ホップステップジャンプ。(←するな!と師匠の声)

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2007年7月 7日 (土)

モノリス橋脚

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 郊外を走っていると時折、奇妙な建造物を見かけることがあります。
これもそんな中のひとつ。何度かこの道を通って見かけていたのに特に疑問も持たずに通り過ぎていました。今はその下まで降りていくのですから、人間変われば変わるものです。でも、この橋脚跡が何のものであるかは地元の人やその筋の識者には既に知られていることであるでしょう。無知であるゆえ、旧道の橋脚跡程度に思っていましたから…

 故郷の町は十勝管内で唯一、国道の入らなかったところで、それに変わって「北海道拓殖鉄道」と「河西鉄道」が旅客・流通を担っていました。
 その一方の「北海道拓殖鉄道」沿線から十勝川源流部へ56㎞遡る森林鉄道『十勝川上森林鉄道』があった…

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 『鉄道廃線跡を歩く Ⅸ(宮脇俊三編著/JTBキャンブックス刊)』でそれを見つけたときは感動でした。大雪の奥深くに数本の支線・分線を敷設したこの区間、隣接の秘湯温泉へ至るみちすがら無数の橋脚跡、軌道跡が目に入ります。その全てを見届けるには至っていませんが、その途中の廃校からさほど離れていない端の脇にこの橋脚が今もたたずんでいます。

 同書によると
大雪山トムラウシ山の南斜面には、あまりの奥深さゆえに戦時中も手付かずに残された原始林がありました。十勝川源流部から岩松ダムまでの流域の広いところでは幅3㎞にもおよぶ広葉樹林帯であったそうです。
 大正8年ころから馬車鉄道が敷設され針葉樹林が伐採されますが伐採地からその軌道までは十勝川に木材を流す『流送』という方法がとられ、他の伐採地においても同様の輸送法がとられて、「流送人夫」なる人も多く原木の上を鉤棒1本で原木と共に流れを下る様は圧巻であったことでしょう。写真でしか見ることはありませんが「川の羊飼い」といった趣です。
 ただし、広葉樹は流送では商品価値が下がるため手付かずの樹木が多かったようです。

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 戦後この地域が戦後引揚者を受け入れ、食糧増産目的の北海道緊急開拓事業入植地に指定されたことから北海道拓殖鉄道・屈足(くったり)駅を起点とする森林鉄道が昭和25年に着工、同27年に48.2㎞が完成。国有林経営区の名称から「十勝川上」と名づけられました。その後、昭和33年には69.9㎞まで支線を延ばしましたがトラック輸送に分を奪われ昭和41年に全面撤去されてしまいました。

 ここの橋脚は川の流れにさらわれ崩壊したものもありますが橋台・擁壁とともに30年強の経過を感じさせないほどガッチリしています。
 その懐から見上げた感じは『2001年宇宙の旅』で旧人類に文明をもたらしたモノリスのような威厳に溢れています。行き着くところまで行き着いた感のある我々は、この時代の遺跡から何をもたらされるのでしょうか…

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2007年7月 6日 (金)

ゴッホの家

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Dscf0275  あおり気味に撮った画像なので、良く伝わりませんが、ゆがみの激しい家です。
近くの建築事務所に利用されている廃校を見学させてもらっての帰りに見かけました。
波トタンの目張りを執拗に施してあるため、内部調査は不可でした。

 でも、どのパーツひとつとっても無駄の無い感じにアートしているようです。言うなれば『ゴッホの家』。巨匠ヴァン・ゴッホの絵画のようにデフォルメされています。
 土壁、トタン屋根、合板、新建材、波トタン、錆付いた屋根と煙突。材料に統一感は無いのにちょっといい感じです。

Dscf0279  ここから人が去ったのはいつのことでしょう。牛舎と物置があって、野ざらしの農機があちこちに点在、庭木も節度の無い成長をしているので、そこそこの年数は経過していると思われます。牛舎も住宅同様閉ざされています。壁に薬剤投与の覚書があります。近辺は河岸段丘に細い河川が数本入り込んでいる地形で起伏の激しいところです。雨で土砂が流れやすいか、火山灰の層が浅いのか畑作は盛んではありません。   
Photo_26 周辺は専業の酪農家が多いのが特徴です。
 家の屋根も年代のわりに個性的です。このような急勾配の屋根は住宅より牛舎に多いものですが、ここは牛舎の方が三角屋根でした。

 けたたましい何かの鳴き声に気がついて探してみると住宅の上にかすかにかかる枝の上にエゾリスが一匹。
 なにやら物凄い勢いでこちらを威嚇しているようです。

 警告されているようなのでこの辺で退散しましょう。

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2007年7月 4日 (水)

雪割姫 ③

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 雪割姫の戯れに春を待つものの中には、せっかちな奴らがいて、姫の歩みを追ってくるように勝手に芽生えを始めだしてきた。
 姫の後ろから足跡形に小さな春がすぐそこまで追ってきている。

  久しく閉鎖状態のコンクリートプラント。建物は既に撤去されていますが、その作業も中断状態。切断されたH鋼、壁が崩れて剥き出しの鉄筋、埋められもしないトイレ、砂を詰めたままのピット、充填物の詰まったまま放置されたドラム缶や消火器等。
 今年に入り、「私有地につき立ち入り禁止」の看板が立ちました。しかし、バリケードがあるわけでもなく、反対側に用事のある人は、老若男女問わず時折、横切っているようです。現在、個人の所有(管理)とされていますが倒産物件らしく、管理が及んでいるとは思えません。途中までの撤去作業も残骸の残り方から、鉄屑の現金化目的で正式な撤去ではない感じがしています。
 残された施設、雑草、立木も多く、道なりに見ると内部の様子は伺うことのできない状態で、不法投棄や犯罪行為の後始末(大量に見かける空のバッグや財布の類)にも利用され、無法地帯といっても過言ではありません。地域の問題として取り上げられているのでしょうが、おそらく治安対策として、効果の期待できない看板というより標識が数枚、立てられていますが、すでに雑草に埋もれようとしていました。
 人間を知らない
雪割姫の目には、これらの遺物もアンコールワットやボロヴドールのように消え去った文明の遺跡として映っていたことでしょう。

 雪割姫が城跡に入ってみると始めて見る壁画があった。これが『人間』の姿だろうか?

「そうではないよ…」 風がささやいた。

Dscf1972_1 ──ここは、人が城や塔の材料を作ったところだよ。

「人?そのひとは何処へいったのでしょうか?」

──何処にもいっていないよ。回りに見える小さな箱の中でジッと春をまっているよ。

「ここには誰もいないのですか…」

──ここはもう、いらなくなってしまったのだろう。さっきの老人も転がっていた連中も人がここに捨てていったのだからね。ここは、いらないものの街というわけさ… 

「『捨てる』とはどういうことなのでしょう。」

──約束と違う返し方をすることだよ。ひとは約束事をいつも溜め込んで忙しいので返し方を忘れたのだろう。

Dscf1962  風は通り過ぎていった。まだ、聞いてみたいことはたくさんあったのだが、そうもいかないようだ。足元に春をねだるものたちの感触を感じたからだ。
 考えることを止めたものたちが累々と横たわる大地とここを去っていった忘れっぽい者たちのことは、また知ることもあるだろう。

 雪割姫は、春を歌う。
それを待ち焦がれていた生命の種が静かにはじけて。すぐに春が大地を覆いだすことだろう。その感触を確認しながら姫は、何か思っていた。
 雪が消えて地上が春一色になれば、自分は眠りに付く。それまでのわずかな間、『人の世』も見て行こうとそう思った。
 そして、次の目覚めの場所はどこになるのだろうか?そんな期待に胸を膨らませながら雪割姫は春の風に乗って、空へ舞い上がる。地上には先ほどの城跡や赤茶けた老人たちが小さく見えた。

 季節の画家たちが新品の絵具箱のふたを開けてこの純白の大地に春を描き出していく、人間の集う小石をばら撒いたようなコンクリートの一角にも…

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季節は差別なく訪れる。人の世のゴタゴタなど知る由もないのだから…

(未完)

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2007年7月 3日 (火)

雪割姫 ②

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Dscf1970  この城跡のようなところには人影は無かった。雪割姫は、いつしかこの小さな探検を楽しんでいたのかもしれない。自分の生きる意味に使命とか宿命とか運命とか、そんなしがらみはなかったのに、いつもと違った目覚めの夢が何か誘惑めいたものをはらんでいたのだろうか…

Dscf1972  城跡というがそのようなものを姫は、それほど見たことがない。
少し覚えているのは、いつかの春の時。こんな感じの奇妙な石積を住処にしていた古木の話を聞いたときのことでした。住んでいたというより生まれながらにそこにいて、すっかりよりどころにしていたようでした。

Dscf3206 ここには、昔たくさんの『人間』がいて、狭い谷間に固まって暮らしていた。
彼らは毎日、決まった時間に集まって穴倉に閉じこもり、黒い石を大事に集めていた。

木を倒し、山を崩しながら黒くて新しい山を作った、自分達の顔も真っ黒にしながら煙が空を灰色に変えていても、楽しくて仕方が無いように笑っていてね…

やがて、空が元の色を取り戻し始めた頃、人間は悲しんで青空を呪い始めた。彼らにとって青空が帰ってくることは山の死を意味するらしく、多くの人間はここから去って戻らなくなった。
我らには、かえって住みやすくなったが、辺りにあるのがその『人間』の城の跡だよ。

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 四角くて穴だらけの壁の中から姫を見下ろして古木は、そう言った。
回りの木や草達は『人間』遺跡を物珍しげに覗き込んだり、拠所にしてのしかかったりしていたが、石の壁自身は姫の語りかけに答えるものではないようでした。古木の話は良く分からなかったが、自分とは違う仕事をする者たちには興味を持ちました。
 しかし、人の計りきれない年月のほんの一時期だけに生きてきた姫にとって人の命はあまりにも短すぎたのかもしれません。

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Dscf1992  ここの城跡には黒い石は見えませんでしたが、ここで生きていた『人間』達は砂や石を集めていたようです。宝物の袋みたいなものも隠してありますが、なぜ大事にしていたのか姫には理解できません。

 白い大地は、姫の心の異変に気がついたようでしたが、ただ黙って見守っているようです…

(つづく)

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2007年7月 2日 (月)

雪割姫 ①

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 凍てつく北の冬に春の訪れがやってきた
 『雪割姫』の目覚め
 彼女は雪の中から誕生し、命の調べを歌い、春の訪れを宣言する
 見渡す限り無のような白い大地はその歌で無限の命を現出させていく…

Dscf1947  ただ、今年の『雪割姫』の目覚めは奇妙であった…

 毎年、大地が春色に覆われたのを見届けると姫は再び眠りに付く
 「次の目覚めは、どんなところなのだろう」と期待に胸をふくらましながら…

 「ここは…いったいどこ?」
 雪の白は、いつもと同じだったのだが見慣れないものが回りには累々としています。
 姫は歌うことも忘れて辺りを彷徨いだしました──

Dscf1942  ここがいつからこのような状態になったのかは分かりません。話に聞いたときには倒産していたようで、それが既に十数年前。真意のほどは不明です。閉鎖されたことには、かわりないでしょう。聞いた話と見たものからコンクリートプラントであったようです。
 西は国道に面し、東は一角に工務店がありますが河川が横たわり、南北は、これが奇妙なことに新興住宅地にはさまれた孤立地帯です。
 後に建物は解体された様子ですが、今だ残る多くのもの・新たに加わったもの、それらを「雪割姫」の目線で見て行きましょう…

 姫は、赤茶けた大きな目の男に出会いました。
「ここは、いったいどんなところなのでしょうか?」

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Dscf1943「残念ながら、わたしには何もわからないね…」
 男はかなり老いて目もかすんでいるため、回りのことを全く知らないのだ。
 主人に雇われて長い間、荷物を運ぶ仕事をしていましたが体が思うように動かなくなり「迎えに来るまで、ここで待っているように」と言われ、もうずいぶん長い時間が経っている様でした。時折、血の気の多い若者が来てひどい痛手Dscf1948_1を負わせているようだが、忠実に生きてきた赤茶色で小柄な老人には、黙って受け入れる他になかったようだ。それは、自分の運命を悟っていてのようだがそれ以上のことは語ろうとはしない。
 『生命の息吹』しか知らない姫にとっては、おそらく理解できないことであろう。

   老人に軽く会釈すると姫は先を進んだ。途中、自分が何だったか分からなくなったものたちが固まったり、散りぢりになって一帯にたむろしている。
 彼らは、何も答えず考えることすらも止めてしまったようだ。
 近くには、まだ「春の訪れ」の宣言もしていないのにヒョロヒョロと伸びていたり、ずんぐりしているおかしな植物が気ままに生えている。これも姫の言葉には答えなかった。

Dscf1949Dscf1950  いつしか姫は、この土地のもつ毒気にあてられたのか自分の使命も忘れてしまったかのように雪の荒野の中を彷徨う。
 しかし、ひとつには今まで考えることもしなかったが、自分という存在と宿命に対して初めて向き会ったような気がしていた。
 それは春という季節だけに生きてきた自分への疑問であったのかもしれない。

 やがて、向こうに古い城跡のようなものが見えてきた。

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春の訪れは少し伸びたようです。『雪割姫』の旅が長引いてしまい今年の春は、あわてて始まったようで、いつに無く暑い春でした。

(つづく)

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2007年7月 1日 (日)

コンクリートの海 祈りの島 ④

Dscf3980  たった2日間で終わった明治5年12月。あわただしく故郷へ戻った工夫たちは、再び丸山に戻ることはありませんでした。

 開拓使入植以前の札幌はうっそうとした原生林で空も見えないほどです。
 開拓者たちは、この樹木を取り払うことから始め、ところかまわず切り倒して焼き払いました。
 さすがに開拓使は樹木の切り過ぎを懸念し、このままでは札幌は丸裸になってしまうということで、明治4年に特定の樹木の伐採を禁じます。6年には「道路両側の十間幅の樹木は特に支障のあるもののほかは伐採を禁ずる」との令を発布。
 特に丸山と藻岩山は豊富な樹木に覆われた美しい山であり、明治4年に落成されていた札幌神社の神域でもあることから樹木の伐採禁止から石材採掘も禁止されるのは当然の成り行きなのでした。

Dscf3939_1 丸山に変わる採石場は明治6年に現在の南区川沿地区で硬石が、8年には石山地区で軟石が発見され、石工が募集されましたが、今回は丸山採掘と別の組が呼ばれて丸山の仮安置された「山神」はそのまま放置され時代を越えることになったのです。

Dscf3944  そして昭和21年、大師堂世話人に発見され、石屋の造った神様は木材屋によって祀られるという数奇な運命をたどったのです。

 丸山はその後、八十八ヵ所が整備されます。北海道各地に入植した人たちの大半は仏教徒であり、西国三十三観音霊場や四国八十八ヵ所霊場の存在は知っていたことでしょう。
 生涯に一度は、こうした霊場を参拝したいという熱望は持っていましたが、当時、北海道に渡ってくると遠く離れた地の巡礼は、費用・時間・健康の面からそう簡単にはいきません。それで代わるものとして西国・四国両場のご本尊を模した石仏を安置し、参拝したのでした。
 開拓事業が安定し、生活に余裕が出てきた大正期以降、各地の有力者が奉加帳を作って善意の寄進を仰ぎ、豊かな人は1戸で1体。余裕の無い人は共同でと資金を拠出して霊場が形成されていきました。
 先人の想いが現代人に伝わるものばかりではありませんが、山道を行く人には寄進者の名を刻んであることから墓所であると思い込み、あるいは水子供養の奉納と誤解釈して本来の意図とは違う方向に認識されつつあります。本家両霊場も現在は略式で巡るバスツアーやDVDでお遍路旅などというものもあるそうです。
 もちろん正式な順路八十八番までの1400キロあまりを歩いて参拝するスタイルも現在まで受け継がれています。

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Dscf3920 Dscf3928 この巡礼、いわゆる「お遍路」の始まりは身の悪行を悔い、御仏の許しを乞うため高名な弘法大師の姿を求めて四国を巡った衛門三郎という人に単を発します。
 彼が病に倒れ、命が尽きようとするとき、枕元に大師が現われて現世の罪を許しました。
 「なお願いがあるか」との大師の言葉に三郎は「自分が家の世継ぎに生まれ変わりたい」と答えると大師は三郎の手に「衛門三郎再来」と書いた小石を握らせたといいます。

 三郎没後、数十年経って家に生まれた子どもの手には遍路の大願成就の証である小石が入っていたそうです。その石が現在も八十八ヵ所51番の愛媛県石手寺に寺宝として保管されているということです。

 現在、札幌市丸山は、市民・観光者の憩いの場であり、山道も気軽に登れる山として賑わい、人々は採石の切羽跡に腰掛け都市高度成長の証であるコンクリートの大海に感動のため息を漏らしています。それは、同じ場所から開拓の進む札幌樹海を眺めた石工夫たちのものと同じだったのでしょうか。

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