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2007年6月19日 (火)

希望の家 ①

Kibou_top

Dscf0804  市街地を抜けて郊外の高速道インターを目指す幹線の途中にこの小さな家が見えます。モルタル平屋建てで牛舎とサイロがあるので酪農家です。10頭~15頭規模の経営であったようです。
Dscf0805 この辺りは現在は畑作中心地帯ですが、一昔前は酪農兼業も多かったと記憶します。元々、北海道の牛飼いは雪に覆われる期間の収入を得るための導入で、畑作基本の当時は酪農専業は見られず、大半は畑作の副業のイメージがありました。
 農作物と家畜、同じ農業のものとはいえ、大きな差のある兼業。近代化、機械化の波で耕作地は増え、より大きな経営を現実のものとできましたが、その過程で農業から酪農が分離されること、近代化の波に乗り切れず離農すること、そんなテーマの小さなドラマが広大な平野の中で繰り広げられました。

Dscf0807 その中のひとつが、この家であったのでしょう。まだ、後継者不足という時代ではありませんが、全ての酪農家が近代化に乗り切れたわけではなかったのです。
 こんな小さな農家がたくさんあって農村風景とはいえど、見渡す視野の中には家がたくさんあった頃です。町史や地域史の戸別入植地図の類を見ると大正期頃は信じられないほど家があり、現在までに10分の1程度まで減少しています。

 現在営農中の農家は、近代化にのって経営規模を拡大できたエリートばかりとも言えますね。そのエリートも後継者不足の問題があって先行きが不透明。また、規模拡大経営が主流の現在、資金などの点から新規就農はかなり困難です。
 さらに経営規模を拡大(近隣農家の集合体)したメガファームの登場。オートメーションミルキングパーラー(全自動搾乳)の導入などもあり、酪農はいわゆる工場とそれほど差のない職業になった感もあります。

Memo_1 今回の家は屋敷の明るい色の外観でさほど古さを感じませんが牛舎の状況から比較的初期の時代に酪農は廃業して畑作専業化していたようです。
 すぐ前を主要幹線が通ることから道路整備を機に離農と思われましたがカレンダーなどから70年代初期から中期の離農であるようです。

Obake  中にはいってみると仏壇がまず目に入り驚かされます。位牌や仏具は残されていないことから仏壇自体は転居先に持っていけなかったようです(もしかすると他所からの投棄?)。ものがものだけに少しショッキングですが…外観が新し目の壁は中を見ると実はブロック積みであるのがわかります。外塗装は後から行われたものなのでしょう。
 隅の1畳程度部屋が子どもの勉強部屋だったらしく、壁に『図形の面積の求め方』や落書きが見られました。
 仏間の仏壇があったらしきところは内側に金色の壁紙が貼られていて華美というか特別扱いの演出があります。ご先祖様を供養する気持が厚かったようです。入植期には開拓作業が軌道に乗り、暮らしが落ち着いてくると故郷の神社やお寺を誘致するのが通例で信仰も開拓の重要なツールであったようです。

Dscf0809

(つづく)

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コメント

おはようございます。
これまた名場面のある廃屋ですね。
一番下の写真はレンズのゆがみじゃなく、柱がそのようにカーブしてるんですね。シアン化したアイドルはアサダさんかな?

投稿: カナブン | 2007年6月19日 (火) 08時26分

調べてみるとそのようですね。
でも、ねこんの中では『赤い風船』と『バスボン娘』をいっしょに考えていたことに今、気が付きました。
年代的にこの家の歴史とは一致するようです

投稿: ねこん | 2007年6月19日 (火) 14時36分

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