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2007年6月30日 (土)

コンクリートの海 祈りの島 ③

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Dscf3932  明治2年、新政府は北海道に開拓使をおくことにしました。
 開拓判官の島義勇が現在の札幌市に本府を定め、街づくりは大通りを中心に南を商店街に、北を官庁街とする構想で進め、開拓使本庁舎(現在残る赤レンガ庁舎は二代目)を石造りとすることにしました。
 これは野火を心配したためで、大通りは当初、防火線(類焼を防ぐ)として整備されました。

Dscf3939  明治5年3月、請負人の大岡助右衛門が円山頂上で良質の石材を発見して採掘を出願、20人ほどの工夫で採掘を開始。
 円山頂上はもともと土で覆われて樹木も密生していたそうです。現在、岩石が露出して展望台のようになっている部分は石材を採掘した切羽跡ということです。ここで切り出された石材は、そのまま急斜面を山下へ転がし落としました。
 斜面の緩やかなところまで転がり落ちた石材は運搬しやすいように小割にして、現在の丸山墓地の辺り(石工夫の作業場と宿舎を兼ねる)まで運んで製品化していたそうです。

Dscf3942  現在も丸山の南側を沢伝いに行くと斜面に引っかかった岩塊(楔跡が残る)や半製品化した物を見ることがあります。登山道も上へ向こうごとに岩石の露出が増え、切り出したものを固めておいた場所を確認できます。(登山道の整備や園内を流れる川の護岸にも利用されているようで楔跡が見えます)

 明治5年7月、開拓使本庁舎の建築が始まり、石材生産も本格化しました。石工たちは作業場である丸山に守護神として「山神」を祀ろうとしたのは、ごく自然なことで、付近の石が選ばれて、それが現在の「山神」だったのです。石工頭は増産の合間を見て山神の一字一画に心を込めて彫りこんだことでしょう。

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 山神碑の建立は明治5年12月12日が選ばれ、準備が進められていました。

 ところが、新政府は11月9日に突如、大政官布告を発令。「太陰暦を廃し、太陽暦を用う。すなわち明治5年12月3日をもって明治6年1月1日とする」という旨のもので事実、明治5年の12月はたった2日間しかなかったことになります。
 「山神碑」製作は、まだ途中で、しかも建立予定の12月12日が存在しなくなることになります。幸い、建立の日付はまだ入れていなかったので、とりあえず仮建立されました。

Dscf3946  もともと冬の採掘は休止であることと、太陽暦の採用で1か月も早く正月が来るということから、工夫たちは故郷で正月を迎えるため、あわただしくなりその年の作業を切り上げて「山神」は翌年に定置することにして旅立っていきました。

 ところが、工夫たちは丸山に戻ることはありませんでした。いったいなにが?

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2007年6月29日 (金)

コンクリートの海 祈りの島 ②

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Dscf3945  昭和21年、登山口の大師堂の世話役が、丸山頂上で半ば土に埋もれた石を起こしてみました。
 すると、正面に「山神」、側面に「明治五年十二月」の文字が刻まれていたのでした。

 何故、この山に「山神」が存在しているのか?
 何気なくみていると、どうとも思われませんが山神は、山を仕事場にする者(造材・採石・採炭・炭焼・トンネル工事等)が祀る習慣があり、山岳信仰に端を発するものと考えられるそうです。
 すなわち、この山は何らかの作業場であったということです。
 更に「山神」は別名『十二様』とも呼ばれて1年に12人の子を産むとされ、産神の性格を持っています。農作物・林産物・狩りの獲物など山の幸を生み出してくれる守護神で女性の神です。
 「山神」の祭日は、その職業集団により月が異なりますが主に「12日」。これも十二様との関係があるようです。

Dscf3947  丸山の山神は「明治五年十二月」の彫り込みは、ありますが日付がありません。これは、正式な建立がまだ行われていないおそれがあることをものがたります。

 大師堂世話役により発見された山神は、発見場所に仮安置してお参りされていましたが、昭和31年、再び倒れるおそれもあることからしっかりした基礎が必要になり、世話役は知人を通じて札幌地区林材協会に話を持ち込みました。
 協会では、木材業者の守り神でもある「山神」を近くに祀りたい考えもあったため、同協会により、石組みの基礎台を付け、祀られることになりました。
 近年まで鳥居も据えられていましたが現在はありません。「山神」を正面に見てすぐ右方(山の南方あたり)に岩場があり、地平線まで続く、家波(本来なら「甍の波」と言いたいところ)が絶景を作ります。

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 山に登って感動するのは、山自体ではなく自分の足元に広がるものに対してなのですね。

Dscf3961  「山神」正式建立の話が成されていた頃、札幌史編纂委員によりこの山は明治五年当時、石材を採掘する現場となっており、碑はその人たちによって建てられたのであろうということが分かりました。
 昭和31年9月12日山神碑の復興際と明治五年以来85年にあたることから「丸山山頂山神碑創設八十五周年記念祭」が行われ、2年目以降は札幌地区林材協会が引き継ぎ毎年例祭として祀られています。

 ところで、丸山を現場とした石工達は、「山神」をこの場に残してどこへ行ってしまったのでしょうか?           

(つづく)

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2007年6月28日 (木)

コンクリートの海 祈りの島 ①

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 明治5年。時の新政府は11月5日にある大政官布告を発した。あまりにも突然で強引な─それが知る人の少ない山の奇妙な歴史の始まりでした。

 ここは札幌市の西部に位置する丸山。標高226メートルの小さな山林のその姿は周囲を建造物群に地平線まで取り囲まれていて遠巻きに見ると、さながらコンクリートの海に浮かぶ小島のようです。園内には北海道神宮をはじめ、動物園・球場などが整備されています。
 この日、開花宣言はまだ発表されていませんが桜が2分咲きで多くの市民が花と焼肉に酔いしれて、香ばしい煙があちこちで立ち昇る中、一心に登山道へ向かう「ねこん」には辛い行脚でした。

Dscf3916  登山道入口に到着。焼肉の香りをおかずにおにぎりをいただいてから装備をチェックしていざ、丸山へ…といっても市民も日常的に利用する軽登山道(散策道)ですが。
 登山道入り口と言いましても少し物々しいですね。それというのもこの登山道は神宮側に弘法大師(空海)を祀る大師堂があり、山道は四国八十八ヵ所にちなんだ観音様が祀られています。そのためか、不気味な雰囲気もありますが市民もごく普通に登っていくので後ろに従って山道を登っていきました。上り口には恐ろしい表情の馬頭観音、不動明王などが祀られています。

 各像の台座には番号と寄進者の名が刻まれています。主に大正・昭和期に設置されたようです。名前が刻まれていることから墓所と勘違いする人もいますが本来、四国地方に空海ゆかりのお寺が八十八ヵ所あり、師の業績をたたえて88のお寺を結ぶ1,400㎞を通称『お遍路』として現在も巡礼されています。これを模したものが日本各地に形成されて、この丸山も現在の形になりました。

 登り始めてほどなく現われるカツラの大木。こんな木がところどころにあるのが「天然記念物丸山原始林」の所以です。大蛇のようにのたくりまわる太い根と観音様。「悟り」に向かって菩提樹の下で最後の瞑想に入った仏陀を連想します。

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 山際まで建物に囲まれた陸の小島の中にこんな大木が当たり前のように残っています。
 休日であるのも伴い、老若男女・諸外国の人たちも登るこの山。体力づくりにほぼ毎日登る方もいて、この山の数奇な歴史に関して聞いてみましたが現在、それを知る人はそれほどいなかったようです。

(つづく)

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2007年6月27日 (水)

銀河の架橋

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「お~っ!なんだかかっこいいぞ」
小さい頃に畑の真ん中に立っている高圧送電線の鉄塔をその強大さに憧れの目で見ていました。ロケットの発射台というか、巨大ロボットの作りかけみたいで、ワクワクしました。いつか、あれに乗り込んで闘うんだ!(無理)と想像にふけったものです。
下から見るのは初めてですね。全体像に比べて細い鉄骨で緻密に作り上げられています。見ようによっては遊園地の遊具のようにも見えます。

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Dscf1658  目的地に行く途中からいきなり脱線です。おっと今回はそんな言葉を使ってはいけませんね。しかし、こちらは脱線ではなく『廃線』です。
 国鉄・JRを経て第3セクターの路線として地域の足、鉄路マニアに愛された『ふるさと銀河線』。
 「廃キング」の途中、路肩で弁当を食べながら道沿いに走る路線跡を目で追うと「あっ橋脚だー」橋を見つめながらとりあえず箸を動かします。マヨラーではありませんが、今日はキュウリにかけすぎてマヨ弁当。何をつまんでもマヨネーズの味。

Dscf1657 線路の残る橋脚は、近くで見ることはめったにないのでドキドキしますね。今年は雪が少なかったので助かりましたが、例年はこういかないでしょう。
 箸の…もとい橋の両側は、廃線後に安全のためバリケードが立てられています。まだ、廃線から日が浅いので本格的な整理作業に入っていないようです。

Dscf1652  そのため、まだ重厚感はしっかりしていますね。雪が積もっているので下がうかがえないうえ、横のメッシュの通路も強度が計れず、落っこちたらやなので線路の上をスタンド・バイ・ミー風に歩いていきます。廃線と分かっていても時折、振り返りつつ…

 現役期に乗ってみたいと思っていましたが願い叶わず、というか単に腰が重いだけで残念な想いです。路線に関わらず、近くにあるからと言って色々なことを先延ばしにするのは、やはりよくないですね。人も景色も廃墟もいつまでもあるわけではありません。いつでも一期一会の気持で「侘び」と「錆」の毎日です。

Dscf1656  「ふるさと銀河線」に関してはもっと詳しい旨があることなので、今回は橋の外観を見ます。まだ、廃れきっているものではないので「廃」的魅力には欠けますが、下へおりて見上げてみようと回り込み、さきほど上がっていたあたりを見上げると上では気がつきませんでしたが橋脚の北側接続部分はレンガ積みになっています。それもかなり年期の入った風な。これは、国鉄時代からのものでしょうか。以前、廃線後の取り壊された橋脚跡を偶然みたことがありましたが、レンガの残骸が散乱していてレンガ積みの橋脚は結構多かったようです。

Dscf1654  さらに近づいてみると…なにやら書き込んでありました。少し崩れたところを囲ってあって点検の痕跡が。点検の結果、問題なかったのか忘れてしまったのかそのままになっているようです。この橋もやがて橋脚だけが残り古の遺跡になるのか、全て打ち壊されて跡形も無く消えてしまうのか、それは何ともわかりません。

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 廃線とはいえ、一期一会の出会いができたのは喜ばしいことです

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2007年6月26日 (火)

憧れのティータイム

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Iriguchi  見渡す限りに雪で覆われた畑作地帯。
この冬は雪が少なかったとはいえ、自然は豊かなところ、そうではないところの分け隔てなく純白の絨毯を敷き詰めていく。区画を仕切る防風林は単調になりがちな大地にビビットなコントラストを加え、景色は寒色の絵画のような山際から始幾何学模様のようです。

 郊外を車で走るとどこまでも続く耕作地帯。小さい頃から見てきた光景だから、それは当たり前のようですが、数百年までは樹海のごとき大原生林。
 それをここまで開拓してきた先人の労苦は、当然一人の業ではなかったとはいえ、我々の想像の及ぶものではありません。

Buck  農業機械が現在ほど普及しておらず、人馬作業の時代、多くの開拓従事者は馬など所有できず手作業が普通でした。彼らがその大原生林を眼前にしたときにまず『夢』が第一であり、故郷を遠く離れて最果ての地で生きるのは強靭な精神力は全て『夢』が突き動かしていたのでしょう。

 明治、大正、昭和の各入植期に多くの人たちが訪れ、去っていきました。『夢』を見失ったのか…自分の見た『夢』の大きさに臆したか…いずれにせよ、現在この北の大地を守り、暮らす人々は過酷な自然を戦い抜いたエリートの末裔であるのかもしれません。
 しかし、かの地の『夢』に見切りを付けて去っていった人々の鍬の一振りは、この蝦夷地開拓には、無駄なものは決してなかったのです。

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 こちらの廃屋は戦後、比較的新しい時期に農業に従事した方の家です。住宅以外は残されていません。周りは植樹林と化して、畑であったか庭であったかの区別もつきません。段丘の比較的平らな部分を選び、切り開いた場所のようです。
 旧家とは趣が異なって、暮らしの最低限としたようなコンパクトな家屋。風呂はともかく台所の痕跡すら屋内には見当たらないので、炊事自体別棟か水場以外を居間の中で全て行っていたかのどちらかでしょう。

TateguHatsudenki  簡易発電機が残されています。発動機(エンジン式動力機)とモーターをベルトで結び発電していたようです。戦後でも古い時代は電力の普及が及ばない地域も少なくなく、このようなもので電力を得ていたようですね。しかし、発動機の音は尋常ではないので常時使っていたわけではなく、電力の普及より機械化の波の方が早かったのでしょう。ですから、主に作業に関わるもののためとして発電機が必要だったと思われます。発動機は音のわりには、さほどパワー(回転速度)は無かったと記憶します。ベルトをもって力を伝達するのであまり高速だとベルトの脱落ということもあり、効率的な電力が得られたかは定かでありません。
 今では、郷土資料館などでしか見られないものと思っていましたが五右衛門風呂の釜と同様によく見かけることがあります。

Zikanwari  赤錆だらけながら電気釜らしきものがあって、最終的には電化生活も訪れていたようです。ただ、照明器具は無用と考えてか痕跡もありません。
 壁に時間割表が残っています。当然、ゆとり教育前なので土曜日もしっかり4時間あります。科目は読み取れませんがギリシャ数字を使っているあたりは中学生ではなかったかと思います。これが貼られているのが南側の居間でも一番明るいところ。子ども部屋が用意できないまでも、勉強できる場所として明るい場所を与えた親心でしょうかね。

Kaidan  奥は建具が立てかけられて、暮らしの痕跡はあまり残っていません。
上方からの明かりを感じて見上げると吹き抜け風になっていて角に目立たないほどちいさな階段があります。

「まだ登れるのかな…?」肩幅ほどもないような階段をつま先で寒色を確かめるようにして上ります。途中の壁に竹製のネズミ捕りと思しきものがかけられたまま…
 あがった2階は中腰でなければ進めないほど天井が低く、壁は断熱のため、新聞紙で目張りされていました。『昭和32年』の新聞や商店の包装紙などが重ね貼りされて時代を写した壁紙のようです。
Mouse_catchi  さらに壁と天井の隙間は藁をたばねたもので隙間を埋めて、きびしい冬を凌いでいたようです。それでもこんな家族の暮らしは当時、ごく自然だったのかもしれません。
 分家をした当初は、家を持てず本家の鶏小屋の使っていない部屋を改造して住んでいたというような話は、経験者が多く今でも聞かれる話です。

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 のこぎりが2本、板製のカバーに収められたまま放置されていました。振りが大きいので製材用(板を作るため)の手鋸でしょうか。この家もこれで作られたのかな…

Wall

Tea_family  帰り際、目に入ったのがお茶屋さんの広告。カレンダーか注文先の覚えとして残していたかもしれませんが、家族3人が居間の小さな、しかし小奇麗なテーブルでお茶をいただく。向こうには細い4脚の箱みたいなテレビ。その上には部屋に異質なランプシェード。右には障子も見えます。コーディネーターなどいたとは思えない時代の広告ですが、これが時代における憧れ(夢)のティータイムだったのかもしれません。

 

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2007年6月25日 (月)

卵の殻と観峰先生 ③

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Dscf2280  実を言いますと、ねこんの通っていた小学校(3年生まで)も街の学校へ統合になりました。更に言いますと後の小学校、中学、高校全て建て替えで懐かしの学び舎はなくなりました。
 最初の小学校は現在は解体されて体育館だけが残されて僻地保育所の体育館として利用されています。中学校は新築移転し、旧校舎は一部の教室棟が商工会館として現存。高校は近年建て替え。正直なところ廃れてもいいから記憶の断片を引っ張り出してくれる旧校舎が良かったと思います。だから、『ルイドロ』の一端は自分の故郷探しの旅かもしれません。

Dscf2281  ここは比較的いい形で残されていますが、残っているとはいえ、顧みられることも無く、惨めな姿をさらす学校も少なくはないでしょう。それも近年では、景観が悪いと次々に潰されているようです北海道中部には、数少ない2階建ての校舎が現存しています。広報誌によると、町の財政面の問題で補修・改修費が捻出できず民間業者に再利用を呼びかけていますが、なんらかのアプローチがなければ今年度中に解体されるそうです。
 『田園博物館構想』と言う公共事業計画があって、モデル地区で屋外博物館的に物件を結び、情報を発信する試験的事業が我町を含めた3市町村で数年前、公開されました。旧家や戦争遺跡、歴史的建造物(サイロや住宅)などが登録されていますが、保存状態などの理由からか廃校は含まれなかったのが残念です。

Kouka  屋内ゲートボール場として機能しているこの体育館は存校時を完全に保ちながら地域を見守っていました。
 少子化、過疎化により休校・閉校・廃校を迎えた学校は増え続け、限界ギリギリの数まで減っているようです。それでも毎年聞かれる廃校のニュースはまだ絶えることはない。
 閉校記念祝賀会。記念碑建立。記念誌発行。それらをもって全ての学校が大団円の中、使命を全うできたわけではありません。ただ静かに時間を停止し、記憶を凍結させた幻灯箱として徐々に自らを変化させていきます。木造校舎も数階建て鉄筋コンクリート校舎も…

 人の暮らし、集いのあった場所は、廃れた後も記憶装置として『存在』をもって場に機能し続けます。空(くう)の大地に還るその日まで…しかし、『空』は『無』ではありません。
 仏教的に解釈すれば万物は『空』から無限に生じ、無限もまた『空』に還る。故に消えること、失うことは『苦』ではないと…そう思いたいものです。

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そんな人の世の刹那を巡る旅はこれからも続きます。

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2007年6月24日 (日)

卵の殻と観峰先生 ②

Dscf2277  床の無い教室から、やっとのことで廊下に上がりました。こうしてみると学校の基礎も深いものです。
 ようやく上がった廊下は学校の大きさからしても幅が狭いですね。これでは床の中央に白線を引くのは無意味。しかも教材の棚などは置けなかったようです。複式学級(児童数の少ない学校によくある授業の仕方。異なる学年をひとつのクラスにして、担任は交互に教える)だったようなので特別教室は充実しており問題はなかったことでしょう。 

Dscf2278 上を見上げると懐かしい大音楽家の肖像が並んでいます。
 夜になると目が動くんですよね。これ。でも、音楽室ではなく廊下というところは、器楽に実力のある学校だったといえ、手狭な不便さは、あったのでしょう。でも、天井の近くに張り過ぎているようです。首が疲れる…

Syouzyou  この学校は器楽に定評があったそうですが、習字にも力を入れていたようで原田観峰(はらだ かんぽう 昭和28年、西日本書道通信学会【日本習字教育財団の前身】創立を機に「正しい文字 美しい文字」の普及に半生を尽くして国内・国外で自らも指導に回る。通信制の書道教室で、月々送られてくる手本とアドバイスを参照に書き、地域でまとめて本部に送付。ちゃんとした朱墨で指導、アドバイスが書き入れられて、通信制とはいえ人の温かみがありました。ねこんも入っていたし。)せんせいからの賞状が掲示されて残されています。

 ここでは、学校単位で加入していたようで、観峰先生からの表彰も学校名です。作品自体の張り出しは残っていませんでしたが…
 ねこんは嫌々書いていたので半紙を手本の上に重ねて細筆で文字の輪郭をトレース、中を通常筆で塗りつぶすという荒業で誤魔化していましたが、戻ってきた半紙に『あなたの文字をぜひ見せてくださいね。』と朱文字で書かれていたのを見て、ホロホロと泣いてしまった覚えがあります。結果的にちゃーんと出来なかったので未だに字が汚いですが…

 一緒に送られてくる機関紙に観峰先生のプロフィールというのがあって、『若い頃は声が女性のように高くて、よく間違われました』という下りがあり、そこだけが頭の中に残っています。実際には会った事はありませんでしたが身近な『おじいちゃん』のひとりでした。
 先生は既にお亡くなりですが会は受け継がれて財団として続いているようで何よりです。

Dscf2279  思いがけず「思い出」に浸ってしまいましたが、先へ進みます。
 生徒自らの目標が天井から吊るされています。でも妙にリアルですね。『体をきたえましょう』
 小学生の頃、夏休み前に配られた生活目標のチェック表に『生水を飲まない』というものがありました。うちの水とは違うんだろうけれど、どんな水?と思っていましたが誰にも聞かないまま大人になりました。ようするに沢水の類ですね。北海道では特に『エキノコックス』の媒体になることもあるようですから…ずいぶん昔に挙行的には失敗でしたがエキノコックスに蝕まれて余命短い少女の青春と葛藤と恋を描いた映画で『きつね』というのがありました。少しシュールな感もある映画でしたが探しだすことができたらまた、みてみたいものです。

 また、脱線してしまいました。それというのもこの学校、妙にねこんの思い出をくすぐるのですね。先々で思い出にふけってしまいます。

 なにやら近くに獣の気配がしました。『?』 どこだ? 野生の息遣いを感じたその先には…

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Dscf2285  着色した卵の殻の貼り絵で描かれた野性のバンビ。背景は面倒すぎてバンビ本体だけのようです。山下清の『清の夢』のように細かい欠片でモザイク状に作られたそれは、また記憶の糸を引っ張ってきます。

『お家から卵の殻を持ってくるように』 朝、思い出しましたが殻が見当たらず、冷蔵庫にあった小ぶりの薄赤いものをひとつランドセルに忍ばせて学校へ行きました。

学校についてランドセルを開けてみると…

結果は、あなたの思っていた結果を3倍越えています。とてもここには出せませんので、どうしても知りたい方は、メールで…

(脱線転覆したので明日に続きます)

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2007年6月23日 (土)

卵の殻と観峰先生 ①

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 今回の学校は、ねこん在住の町にある小学校です。細長く広がる町のちょうど反対側にあたり、町界に近いところなので、中心市街から学校へは23㎞。こちらから市街の分を足すと40㎞は離れているでしょうか。ここに行き着くまでにも廃校がいくつか点在し、ほぼ、同時期の閉校(新設校へ統合に伴う)で現在町内で現役の学校は、高校も入れると8校ほどになるでしょうか。廃校全てが現役ならば27校ほどになるので現在は3分の1以下ということですね。

Dscf2298  最も奥地の現役校地からも十数キロ離れており、至る道は舗装されているとはいえ本線と複線の差があまりなく、いくら走れど畑ばかりの地域です。事前に最寄の市街地で聞いていなければ、ミズバショウ園に迷い込んでいたことでしょう。(取材時は冬)

 ところが、いざ付いてみると日高山脈を正面にデーンと据えた見事な景観の学び舎です。山肌の木々が見て取れるようで正に「山がここにある」といった趣。
 これほど奥地でありながら僻地級は3級。道路事情は意外に良かったからでしょうか。

Dscf2267  大正5年創立。昭和58年3月をもって、近隣校に統合されました。閉校時の生徒数は12名。しかし卒業生は543名と決して少ない数ではありません。
 昭和56年、「こども郵便局優良校」として表彰されていますが、子ども貯金のことだと思われます。全校器楽で毎年、十勝子ども大会に出場の経歴もありました。

Dscf2294  閉校に伴い、校舎脇に第12代校長揮毫による閉校記念の『蛍雪の友』の碑があります。学校からグランドをはさんで向こう側の道路際を流れる川に架かる橋の名が『学校前橋』。近隣には廃屋もありますが、教宅跡や新築で住人も多いところです。

Dscf2283 校門は朽ちかけて校名もいずこへ?となっています。
教室のあたりに巨大な引き戸が…まさか?と思ったらその通り。現在は農機具庫として使われているそうです。ちょっと雰囲気台無し…多いんだけどね車庫利用って。
 とりあえず、生徒の足跡を探して中へ入ります。

 当然のごとく、教室に床などありません。車庫なんだから。『学校の床下の土なんてそう見られるものじゃないよねー』と変な自問自答。車庫に使われているのは半分程度で残りは地域館として利用されているようです。真新しい白いサッシがまぶしい。
 入れた教室は車庫として使われている部分のみで、ここには黒板などは残っていませんでした。
ブロック建ての校舎も多い中、ここは木造が中心です。

 ふと見上げると… 『ふうすい?』と思うような方角を示した紙が天井に貼ってあり、そばには入学式か卒業式の飾りの名残もつけられたまま。風化が少なくていい感じ。 教室をふたつ繋げた車庫の中は他にめぼしいものもなく、廊下へ上がってみることに。

『おーっこれはこれは』 半分、失意に落ちかけて光明が射してきたようです。

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そこには、かなり懐かしいものが出てきました。

※天井の隅の穴は何なのでしょう…
                                   (つづく)

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2007年6月21日 (木)

希望の家 ③

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Dscf0810  音の無い静かな空間。ここにいる自分も時の経過からはじき出されてしまった気がします。時折聞こえてくる車の通過音が、かろうじて現実世界に引き戻してくれます。
 窓枠が額縁に見えて、外の風景があたかも縁遠い『理想世界の風景画』のように見えてきます。

Dscf0825_1   先にも触れましたがこの牛舎は15頭ほどの収容力。搾乳形式はエアーポンプ(圧縮空気を動力としてミルカーと呼ばれる搾乳機本体のポンプを動かす。:エアーの出入りを交互に繰り返すためちょっとした人工心臓のようです。このエアーにより、牛の乳頭に装着されたライナーというもののゴム部分が収縮・膨張を繰り返し、手搾りと同じ状態を作り出します。)によるバケット式(搾乳機とチューブでつながれているバケツ状の器が付属。内部が真空状態になるので牛乳はこの内部に溜まる。1頭分でも結構な重さになります。)と思われます。

Dscf0835    出荷は送乳缶と言われる容器(持ち手と蓋のついた金属製容器)によって毎日集苛していた時代でしょう。送乳缶今では博物館や郷土資料館で見る程度で現在はバルクタンクという冷蔵機能(送乳缶では冷却機で温度を下げた後、冷水槽につけておくため保存性が悪い。現在のタンクでは、ほぼ1日置きの集荷)のあるタンクが主流でミルクローリー車によって集荷されます。また、タンクまではパイプライン化しているため搾乳機も軽量化。現在は搾乳機自体が牛の乳頭を探して自動着脱する完全オートメーション式もあり、ねこんが思うに酪農とパチンコ店は見るたびに『へ~っ!』というほど進化し続けているようです。
 手搾りの時代はともかく、バケット式の当時も重い物を持つ作業が多くなりがちで腰を痛めてしまった人は多かったようです。この方式が最新だったのでしょうが…

Dscf0823 給餌槽の上部の柱にここにいた牛の名前が記されています。多くの牛(ホルスタイン種)は外国(主に米国)産を種にもつ由緒正しい血筋なので名前は全て、父母の名からなるカタカナです。登録名でもあり、決して「太郎」とか「花子」や「吉田君」ではありません。成績と年齢の差はあってもエリートなんですね。
 誤解される部分ですが牛は人と同じく子を産むことで乳を出すので元から乳を出す動物ではありません。
 ちなみに黒っぽい牛からコーヒー牛乳は出ません。茶色の牛もフルーツ牛乳など出しません。念のため…

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 散乱した寝藁。給餌槽の食べかす。牛に擦られて角の取れた柱など現役時の様子が色濃く残っています。
壁には投薬記録や子どもの落書きが見られます。

K3  そのなかにまじって数十箇所にわたり、書かれた文字…『希望』
 日々の暮らしに未来を見出せなくなったのか
 都会に憧れ、自分の境遇を悲観した子が書いたか
 好きな言葉をモチベーションの呪文としたか

K1

 それは、計る事はできませんが後の暮らしが希望に満ちたものだったことを願ってやみません。

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2007年6月20日 (水)

希望の家 ②

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Dscf0806  この家の脇、壁がグレーになっている部分は、五右衛門風呂の釜が転がっているので別棟でお風呂とトイレがあったようです。
 牛舎の向こう側にも作業機の車庫らしく倒壊した残骸が残っています。在住時は屋敷回りにも防風林があり、それなりに手入れされた庭もあったことでしょうが、今は、この地に忽然と現われたようにも見えます。近くを走る幹線は朝夕の通勤時間帯は交通量も多く、道警のネズミ捕りも頻繁に見られます。車上から何気なく目をやってもこの家が廃屋とは気がつかないでしょう。

Dscf0819  住宅も牛舎も暴風のためか、荒らされたのかガラスは全て割れてほとんど残っていませんでした。
 幹線沿いにあるのですが、元は町道でここが廃屋になったあともしばらくの間は現在ほど交通量は無く、静かな場所でした。高速道整備に伴い沿線は企業用地と環状道路が作られました。いずれ、この辺りの農村風景も失われていくのでしょうか。

Dscf0805_1  市街地近郊の酪農は宅地拡大によって徐々に営農が困難になります。宅地化のスピードも速くなることから立ち並ぶ住宅の合間にポッカリとサイロが建っていたりということも無いことではありません。札幌のような大都市でも比較的中心部に廃業しているとはいえ、牛舎・サイロが残っているという不思議な光景も目にしたことがあります。

Dscf0820  この町では建築制限領域を設けて、農地を守る動きもなされながら後継者等の問題で営農を断念し、畑は買い手・借り手がなければ雑種地と称した原野に戻っていきます。半面、現役をドロップアウトした世代が都会の喧騒を離れて郊外で半自給自足の暮らしを求めて小さな土地を耕作しています。
 こういった家がそんな方々が手直しして入居ということもまれにあり、『この辺りに廃屋があったな…』と探していると記憶にあったその家は、修復されて『あの家が?』と思うほどの姿に生まれ変わります。古民家再生も全国的には小さな動きですがブームになっているようです。それはそれで嬉しいことです。

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 この家も誰かの目にとまり、そんな転生をして欲しいものです。ブロックの壁はまだまだしっかりしているのだから

 明日は『希望の家』の所以に触れてみます。     (つづく)

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2007年6月19日 (火)

希望の家 ①

Kibou_top

Dscf0804  市街地を抜けて郊外の高速道インターを目指す幹線の途中にこの小さな家が見えます。モルタル平屋建てで牛舎とサイロがあるので酪農家です。10頭~15頭規模の経営であったようです。
Dscf0805 この辺りは現在は畑作中心地帯ですが、一昔前は酪農兼業も多かったと記憶します。元々、北海道の牛飼いは雪に覆われる期間の収入を得るための導入で、畑作基本の当時は酪農専業は見られず、大半は畑作の副業のイメージがありました。
 農作物と家畜、同じ農業のものとはいえ、大きな差のある兼業。近代化、機械化の波で耕作地は増え、より大きな経営を現実のものとできましたが、その過程で農業から酪農が分離されること、近代化の波に乗り切れず離農すること、そんなテーマの小さなドラマが広大な平野の中で繰り広げられました。

Dscf0807 その中のひとつが、この家であったのでしょう。まだ、後継者不足という時代ではありませんが、全ての酪農家が近代化に乗り切れたわけではなかったのです。
 こんな小さな農家がたくさんあって農村風景とはいえど、見渡す視野の中には家がたくさんあった頃です。町史や地域史の戸別入植地図の類を見ると大正期頃は信じられないほど家があり、現在までに10分の1程度まで減少しています。

 現在営農中の農家は、近代化にのって経営規模を拡大できたエリートばかりとも言えますね。そのエリートも後継者不足の問題があって先行きが不透明。また、規模拡大経営が主流の現在、資金などの点から新規就農はかなり困難です。
 さらに経営規模を拡大(近隣農家の集合体)したメガファームの登場。オートメーションミルキングパーラー(全自動搾乳)の導入などもあり、酪農はいわゆる工場とそれほど差のない職業になった感もあります。

Memo_1 今回の家は屋敷の明るい色の外観でさほど古さを感じませんが牛舎の状況から比較的初期の時代に酪農は廃業して畑作専業化していたようです。
 すぐ前を主要幹線が通ることから道路整備を機に離農と思われましたがカレンダーなどから70年代初期から中期の離農であるようです。

Obake  中にはいってみると仏壇がまず目に入り驚かされます。位牌や仏具は残されていないことから仏壇自体は転居先に持っていけなかったようです(もしかすると他所からの投棄?)。ものがものだけに少しショッキングですが…外観が新し目の壁は中を見ると実はブロック積みであるのがわかります。外塗装は後から行われたものなのでしょう。
 隅の1畳程度部屋が子どもの勉強部屋だったらしく、壁に『図形の面積の求め方』や落書きが見られました。
 仏間の仏壇があったらしきところは内側に金色の壁紙が貼られていて華美というか特別扱いの演出があります。ご先祖様を供養する気持が厚かったようです。入植期には開拓作業が軌道に乗り、暮らしが落ち着いてくると故郷の神社やお寺を誘致するのが通例で信仰も開拓の重要なツールであったようです。

Dscf0809

(つづく)

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2007年6月18日 (月)

砲弾サイロ

Dscf0608 北海道の風景に無ければ絵にならないものはたぶんサイロでしょう。
 その素材は様々で、左のような本体がコンクリートブロック製のもの。赤レンガ製。軟石ブロック製。コンクリートブロックにモルタル塗り。完全鉄筋コンクリート製など…

Dscf0609 代表的なものはコンクリートブロック製で先端部が鉄板葺きの屋根のもので、風景写真にもよく登場します。

 でも、そういった風景写真に出てくるサイロはポツーンと建っていて明らかに離農跡か遊休サイロのいずれかです。無ければ絵にならないもの、それがほとんどの場合『廃』なのです。そういった風景写真に北海道の雄大さよりも心の隅でくすぶる空虚な感じが付きまとうことは否めません。

Dscf0610  これら全てが、すなわち離農を指すわけではなく、酪農家の経営規模拡大で搾乳頭数が増加。冬季給餌用の備蓄庫だったのも通年給餌になり、複数のサイロを持つ農家。さらに巨大な新建材製マンモスサイロの建設。それすらも手狭になるほどの飼育牛の飼育でバンカー式という古墳状に平に積み上げビニールで密閉するものが今の主流なようです。

新建材製は密閉性に優れて腐敗が少なく、内部に自動排出装置を備え当初は便利なものでしたがその機械が数年で内包物の酸にやられて稼動しなくなり、高層部まで登って手作業で排出という返ってわずらわしいものになったようです。同時に優れた密閉性が災いして作業中に発酵ガスで中毒死という痛ましい事故も聞かれました。安全性・効率性を考えると今は絵になりませんがスタック式が主流のようです。
 そのため、後発型のサイロも遊休状態ということが少なくありません。

 今や象徴的な存在となったサイロは、農家の庭先で余生を楽しんでいるように見えます。その地域によってサイロの形、色、素材、工法が異なって見比べると面白いものです。

 今回の物件もこの地域ではあちこちに現存しますが。他所と比べると屋根までモルタルを使用するのが特徴的です。ほぼ築70年級のその姿は巨大な砲弾にも見えます。
 酪農の状況を知らない旨には、鉄板葺きの先端部分を持つ代表的なサイロは住宅と思われているようですが、このタイプはどのように見えるのでしょうか?

Dscf0606 【遊休サイロの不思議】
 どういうわけか、こういったサイロの下や近くには犬(番犬)がよく繋がれています。
どうして?

今日のわんこ。 人懐っこすぎて番犬にならないサイロ守。

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2007年6月17日 (日)

緑に抱かれたユリの花 ③

Dscf5686  考えてみると鳥のさえずりとカーテンの隙間から差し込む光で目覚めるラブホというのは今ではとんとお目にかかりませんね。どうしても『秘め事』の場であることには変わりませんが、都市部ならまだしも郊外型でも窓は完璧な密閉式です。
 清掃が完璧なだけで目張りの宿には変わりないのではありませんか。換気が完全でも人の色々な思いが行き場を失って溜まりこんでいるようなそんな雰囲気があります。それゆえに有るもの・無いものを本能的に感じ取ってしまうのかもしれません。

Dscf5675  また、そういうものを不本意に場に残してしまうのが人なのかもしれません。
 今や、枯れた姿をさらす廃ホテルは人の気配は無くとも痕跡をはらんだ現代遺跡のようです。

うっ血した何かをぶつけて穴を空けられた壁。
居るはずもない戦う相手を求めて割られたガラス。
無意味でおせっかいな部屋の模様替え。
ここには不必要な届け物など…。

 宿は無防備にそれらを受け続けつつ、大自然に同化すべく今、最後の変容を始めたようです。

Dscf5684

 建物は人がいて管理されている間は、ある種の力を持っているようですが人が去るとその力も消えるのか急激に衰えていくように見えます。まるで存在意義を見失ったかのように…孤独に打ちひしがれたように…。そして、朽ちゆくものの美しさを放ちながら…

Dscf5706

 初夏の風に揺れる葉のささやきが緑色の鎮魂歌として廊下を通り抜けていく…
それに応えるかのように閉まることのなくなったドアが揺れ、照明器具は安堵のため息をつく…遠くを走る車の通過音もいつしか潮騒にも感じられていく。
あと幾昼夜か繰り返し、いずれ静かな眠りにつくことでしょう。

Yuri

残るのは最後まで立ち去ることなく見守りつづけた緑と風だけ…

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2007年6月16日 (土)

緑に抱かれたユリの花 ② 

Gakubuci  

Dscf5681  まだ、午前中だったため、小鳥のさえずりと共に遠くのカッコウの声が心地よく響いています。ちょっとセミには控えめにしていただきたいところです。
陽は既に頭上に来ていましたが木立に囲まれた敷地内は、清清しい風も吹いています。
 閉められてから30年近い月日を経過したこのホテル内は閉ざされた期間も長かったため、カビ臭さも残っています。開け放たれた箇所もあり、さほど気になりませんが…

Dscf5679 利用客の落ち込みで、ホテルの今後を検討していたようですが結果的に閉鎖して再就職の道を選択したようです。採用見合わせ書など、再就職模索の痕跡がありました。
 これ以上、家族のその後のことは他人の計るところではないでしょう。

 残されたホテルは記憶の缶詰として封印されていましたが、いつしか都市伝説といくつかの事実によって、いわゆる心霊スポットと化していきました。寂れていく建物の宿命なのでしょう。
 戸口は破られ、ガラスは割り放題。タバコの吸殻、ビールの空缶、不法投棄、破壊など…肝試しの名の下に辱められていくホテル。それすらただ謙虚に寛容に受け入れた功労者は、緑の癒しに囲まれて自然に戻っていくようです。
 人の時間的感覚を別にすれば人工の建造物が自然に帰るのは意外に容易いことなのかもしれません。

Dscf5678

Dscf5672  2階の客室のほとんどの窓は目張りされているため、室内はとても暗い。外から染み込んでくる光も緑の照り返しで、中が緑色に染まり幻想的に見えます。

 それぞれの部屋の作りは、ほぼ同じですが洋室と和室があり、ベッドを据えているか床が畳しきかといった差しか見受けられないシンプルなものです。一部ベッドを壁に組み込んでいる部屋もありますが基本的に部屋とバス・トイレの造りで、備品はベッドのほかは洗面台と暖房機程度。

 いくら数十年前の物件とは言え、当時もラブホテルのデザインは内装・外装共に激化し、『丘の上のお城は何だろう?遊園地かな?行って見たいな』と子供心に思うような見た目の派手なラブホも乱立。現在は派手すぎるのも敬遠されるようでシティホテル調もしくはセレブっぽい造りが主流なようです。
 そんな時代にもまれながら『ゆりの花』はその開花期を終えていったのでした。

Dscf5698

 ゆりの花言葉 『変わらない愛らしさ』 まさに変わることをしなかったようです…
(つづく)

★昨日の問題の答え
 『音のしない世界を音で表現するには?』→時計(柱時計)の音だそうです。知ってた?

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2007年6月15日 (金)

緑に抱かれたユリの花 ①

Yuritop まだ、本格的な夏は先とはいえ、暑い日が続く北海道です。
 緑に覆われたこの辺りは新道が整備されて一時の喧騒から開放されたため、命の短いセミ達には天国です。この日も会話が聞きとりずらいくらいセミが命の喜びをたたえあっています。

 しかし、セミの声を聞くとただでさえ暑いのに尚更暑さが増してきます。
 余談ですが、「音のしない世界を音だけで表現する」にはどうするかご存知ですか?
 答えは明日にしますので考えてみてください。

 今回は、酪農王国十勝を離れて緑鮮やかなホテル跡にきました。
 桜の季節がついこの間だったような気がしていたのにいつのまにか葉がこんなに増えていい季節です。
 とかく、手入れの行き届いた庭では雑草は邪魔者ですがこういった『廃』の風景においては充分彩りになります。もちろん、「過ぎたるは及ばざるの如し」ですが。

Dscf5642  こちらのホテルは昭和40年代の造りとされてカレンダーなどから昭和53年ころに閉められたとされています。実際には物証からそれよりも2年は管理者の出入りがあったようです。巷ではラブホテルということになっていますが一般宿泊も可能だったようです。ただ、郊外のカーホテルとなるとどうしてもラブホテルという印象が先立ち、日常的にお客は男と女のカップルということになります。

Dscf5683  ホテルの名は「ユリの花」の意。ただそれだけではなく、管理人の奥方の愛称を名前に使っていた印象もあります。
 創業時は地域でも先駆ということもあり、素泊まりで安価な宿泊所ということも手伝って利用者も多かったようです。
 現役時、高台に建つこのホテルは雑多な木々も今ほどうっそうとした雰囲気ではなく、それなりに整理され、市街地近郊でも自然の空気を感じられる絶好のロケーションであったことでしょう。
 今も聞こえるセミの音のほかに小鳥のさえずり、遠くから聞こえるカッコウの呼び声。それら自然の賛歌は当時も聞かれたことでしょう。

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Dscf5645  一家は当ホテル在住で家族構成は3人。全員従業員として受付と客室清掃に従事していたのか保健所の登録人数も3人です。奥方は美術に理解のある方だったようで、画友会などからのお礼状も見かけられました。
 そのためかホテル内装にも適度に自然木があしらわれて、現在のようにムードを誇張ぎみで窓は現役時から窓を鎧戸で目張りのラブホよりも山荘的開放感があったようです。

Dscf5644_1   ただ、客室に全室、最高の日当たりを想定したため(郊外で2階でもあるためプライバシーはカーテンで充分)管理人宅の居住空間はちょっと可愛そうなくらいです。
 客室前は広いスペースを取りながら管理人宅はこじんまりとして洗濯物を干すのもままならない感がありました。

Dscf5652  昭和50年代、比較的安定した暮らしを維持できた家業に陰りが出始めました。花の盛りが過ぎたようです。
 1日の利用者が休息・宿泊を含めて2~3組にまで落ち込みます。幹線道の充実、同業の登場、お客さんの嗜好変化など…料金の値下げで集客の回復を試みますが、他所同様に宿泊施設というだけでなく付加価値をつける大胆なリニューアルを加えなければならない時期に来ていました。

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 同じころ、我が子の一生を左右する進学が控えていました。

(つづく)

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2007年6月14日 (木)

拓殖鉄道・河西鉄道交差橋

Dscf5845

Dscf5846  haru様より情報と詳細の提供により行ってみました。現在は緑に覆われて見つけるのに少々手間取りましたが、元よりねこんがこの町の出身でありながらその存在は知りませんでした。
 そもそも、北海道拓殖鉄道(新得─上士幌間53.4㎞)は存在は知っていましたが河西鉄道(下清水─上幌内ほか40.2㎞)の存在は全く知りませんでした。
 その2路線が交差していた地点が現存していると言うことで興味をひいて、ここに来たわけです。

 事前に調べてみたところ河西鉄道は、十勝鉄道と同じく甜菜の輸送目的で敷設され、当初は日本甜菜製糖株式会社運営の専用軽便鉄道であったものが分離し、大正14年から貨物・一般乗客を扱う河西鉄道になったとのことです。後に十勝鉄道に吸収されますが自動車時代の到来で採算性が悪くなり昭和26年廃線。

Dscf5850  一方、北海道拓殖鉄道は、鉄道の開通によって沿線に入植者が集まるだろうという予測で、道内商工業者が出資し、発足しました。1924年(大正13年)に新得側から工事を始め、足寄町の池北線接続を見込んでいましたが、石北本線の開通で意味がなくなり、さらに凶作続きで入植者が増えなかったこと、そして、昭和の恐慌で資金不足に陥り途中の士幌で工事は中断しました。
Dscf5844  木材輸送で賑わいもありましたが、トラック輸送の増加、そして沿線の人口が伸びなかったため、経営は苦境続き。そのため、中古の機関車(国鉄払い下げ。廃業時、雄別炭鉱鉄道に譲渡)や気動車を導入して経費削減を図ったり、利用の少ない区間を廃止。しかし、設備の老朽化に資金を回すことができず、熊牛トンネルは変状が進んで危険な状態となりました。会社は改修に必要な資金を捻出できなかったため、札幌陸運局から行政指導を受け、運行の継続を断念し、1968年(昭和43年)に廃線になりました。同社は現在バス会社として存続しています。

 この2路線の汽車が出会うのが、この交差橋だったわけです。上を拓殖鉄道が走り、下を河西鉄道が走っていました。現在軌道跡はほとんどが熊笹や雑木に埋め尽くされ当時の様子は計かれません。河西鉄道の走っていた橋下は、キタキツネなどのアニマルロードとしては存続しているようです。

Kousa

往年の写真を見つけましたが、汽車が小さいのか本当に通っていたのかな…。なーんか現状と全然違うような気もします。
重さでつぶれちゃったのかな?

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2007年6月13日 (水)

とり残された僕。②

Dscf4641

Dscf4642今日は、暑かったですね。ねこんエリアでも今日は30℃を越えました。でも、30℃を越える日は、さほど多いわけでは無いので今ひとつの辛抱です。ただ、この時期になると虫が多くなるので探索の折、虫対策も必要になってきます。今日の予想最高気温は32℃?!

 この家の校区は既出「廃校」の『マザーグースの教室』と思われます。
サイロらしきものは残っていないので畑作専門だったのでしょうか。ただし、カレンダーなどから、この学校の閉校以前に転出している様子です。

 子ども1人の3人親子。それがこの家の家族構成のようです。
さほど物は残っていないらしいですが、奥の部屋にいくと多くの物が残っていました。おそらく後で取りに来るつもりで残していったがそのまま有耶無耶という感があります。

 一方の部屋は締め切られていたにも関わらず、畳の風化が進行していて藁を撒き散らしたようになっていました。

Dscf4646

 作業ズボンがぶら下がったままで、中身の入った大きな布団袋もそのまま置いてあり、転出と思えない雰囲気もありました。でも、このまま30年以上は経過しているのでしょう。新たな仕事の都合で家族と共に一時転出。日々の暮らしの中で我が家には戻らなくなったのか、我が家を忘れてしまったのか家は取り残されたままです。

Dscf4645 部屋の奥に視線を感じて見上げると…
ひとり 家にとりのこされた少年がいました…

「ずっと 待っているよ…」

 

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2007年6月12日 (火)

とり残された僕。①

Dscf4635

 物件を求めて郊外を走っていると、ここには絶対にきたことが無いはずなのに妙に記憶があります。それはいわゆる『デジャブ(既視感)』というものですが要するに覚えがあるが思い出せないという「やっかいな感覚」です。

「これって前にもあったよね…」とか「ここは前にも来たことが…」というものでバラバラになった記憶の断片が成せる記憶の悪戯みたいなものなのでしょう。
 それより、性質が悪いのが「この角を曲がるとこんなものがあった気がする」と思って進むと本当に存在していたということです。人間はデフラグできないので困ったものですね。
リセットできなくていいからせめてデフラグしてみたいものです。

Dscf4643  さて、枕言葉はこの辺にして、実際の「この角曲がるとホントにあった家」です。
造り自体が昔見た誰かの家に似ていたのか既視感が全開で、しばらく考え込んでいました。  
 離農が進んだ所らしく、家畜の放牧場らしいところは荒れ放題。畑作には向かない場所なのか(石が多い等)耕作地は見当たらず、ススキのような枯れ草が幾重にも重なっています。このようなところでも道はしっかり舗装されています。国道からは遥か遠くはなれています。
 まず、この辺りを通りかかることは今まで無かったはずだし、前世の記憶というにはここは新しすぎますね。

 玄関は閉ざされていますが横の居間の辺りの窓が崩壊していました。そこから中へ。

Dscf4639

 奥に見える台所には定番のコンクリート製のタイル貼り流し台。机が横に据えてあり、調理台に使っていたようです。ガスコンロの台も木製の足付きでかなり台所らしくないところもあります。人が去ったのは、さほど遠い昔ではないらしく比較的新しい時代のガス釜がありました。

Dscf4640 時代を彷彿させるものがチラホラとのこされています。何となく家全体が低い作りで天井、建具が少なくとも10㎝は低く作られているようで自分が大きくなったような気がします。当時の規格サイズなのか家主に合わせたのか、素材(建具)のサイズに合わせたのか…

Dscf4644 小●館の学習雑誌の表紙が見えます。新年号で巨人軍特集、映画「キングコング(最初のリメイク)」の紹介、お人形さんカタログ、付録は「がんばれ!ロボコンかるた」。

 市街地から20キロ程度離れているので、毎号買ってもらえたわけでは無いのでしょう。それでも大事に読んでいたのでしょう。

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2007年6月 9日 (土)

こいつは驚いた!

Dscf1145

 O市の南部にたしか廃校を見かけたことを思い出して行ってみました。
なにせ淡い記憶なので場所の記憶がはっきりしませんでしたが、確かにこの方向に小学校と中学校が存在するのでとりあえず目指してみました。途中、廃小学校は見つけましたが「うーん…何か違ったな…」と道を変えて近辺をウロウロ。

Dscf1136 『あった!たぶんあれや!』 やっと見つけた。断片的な記憶ともほぼ一致。中は見られるかな?とりあえず様子を見ようと寄ってみました。雪が降ってしばらく経つので暖冬の影響で硬くなった雪の上が難なく歩くことが出来ます。

Dscf1147  『良い擦れ具合だな~』 と周囲を見て歩くと鉄筋を使っているようで、見た目より新しい感じです。たまに垣間見える内部はほとんどが物置場と化しているようです。中に何をしまいこんでいるのか窓も網で厳重に囲ってあります。
 校舎の周囲は有刺鉄線で遠くまで囲っていて、現在は牧場の様子。物置の中にも農機具やら電柱の山積みをみかけました。

Dscf1151  たぶん向かいの農家の持ち物になっているのかな? 校舎がまるごと農機具庫になっていたり、牛の学校になっていたりということは良く見てきたのでおそらく、ここもそうなのでしょうね。グランドは放牧場となってしまったのか痕跡もみあたりません。

Photo_21  郊外に出ると住所は分かっていても番地表示や案内板が必ずあるわけではないので、けっこう迷ったりします。「こっちだな」とあたりをつけると反対方向だったこともありますから。また、古い資料にたよると区画整理などで住所や地区の呼称が変わったりすると本当に難しく、結局勘に頼ることになるので、近頃は忘れていた勘も蘇ってきたようです。

 「そうだ!校門。」 学校名でも残っていれば後で資料と照らしやすいですね。正面にいってみるとゲートを据えてあって、校門の名残はないようです。

Photo_23

よーく見てみると…「●●刑務所所管 ●●農場」   「げっ…」

廃校ぢゃなかった…服務作業農場の建物だ…

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2007年6月 8日 (金)

赤い社と供物

Dscf4728

Dscf4727 育ちも暮らしも内陸の山育ちのためか、海はいつ来てもいいですねー。
浜の人たちは「オラ こんなもん飽きてるだべー」とまでは言わないでしょうが山の者ほどの感動はあるのでしょうか。
 それに好天の海というのも久しぶりでトーチカなどを廻りながら暫く海をながめました。
「まともに海に来たのは、いつ以来かな~」と海岸線をトロトロ走っていると赤いものが目に入りました。

『お社?』 赤い鳥居と祠です。 でも少し様子が変です。倒壊しているようです。
冬場に雪の重みで崩れたのか。数年前の地震に伴う津波のためか。鳥居は無事ですが祠は押し倒されたように崩れています。

Dscf4729  海辺の祠は赤いものが多いですね。この辺りは内陸の方になると馬頭観音が多く稲荷はあまりありません。稲荷はほとんど神社の併設か単独の神宮の形になっています。
 海場に多く見る赤い神社は、稲荷なのでしょうか。中を伺うことが出来なかったので真相は分かりませんが稲荷の赤は生命の色なので稲作の神と言うだけでなく命あるもの全てをつかさどるのかもしれないですね。いずれにしても崩れたままというのはいただけません。
と、思ったらすぐ横に新築移転しているようです。しかも、いかがわしい雑誌がお供えしてあるようです。

 廃墟探訪していると近場に馬頭様や道祖神が良く祀られています。信心は薄いけれど探索の安全と好物件に出会えるようにお参りするようにしています。さすがに八十八箇所とかは割愛していますが…

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鳥居の辺から海を覗き込むと… うつろな目のクマが数匹。

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2007年6月 7日 (木)

純よぉ~っ!いつ帰ってくるんだよぉう!

Dscf4362

 ファンの方なら、まずピンとくるこの家。『この家は、あの家に似ているな…』と思ったなら間違いありません。廃屋とするには語弊がありますが、『廃』から生じた家です。
日本で最も愛されている『廃』ではないでしょうか?

Photo_16  ここは富良野市六郷。『拾ってきた家─やがて町─』です。
でもこんな家はドラマには出てこなかったな…と思いますがそれもそのはず、ドラマ『北の国から ─遺言─』の終了後、新たに作られた家です。
 訪れる人たちは無意識に鼻歌(例の曲)が出てくるようです。

 本編では羅臼で牧場の借金を返すために奮闘していた純が色々あって富良野に戻ることになり、向こうで付き合っていた女性“結”が富良野にやってきて純と暮らすことになるという筋書きでしたが(すごい大ざっぱなあらすじ…)、その後を想定して作られたのがこの『純と結の家』です。

Photo_18 それにしても作りがまた一段と大胆になりましたね。廃物利用がコンセプトとしてもバス1台が家を貫通しているのは、かなり大胆です。ねこんが『北の国から』にはまっていたのはこの「拾ってきた家」の存在が大きくて、『黒板五郎の流儀』なる本(家のコンセプトや細部のスケッチと作り方、生活の仕方のノウハウ)を入手したりもしていました。

Photo_19   ドラマの人気も手伝ってということもありますが、大胆の一言につきる家々に、訪れる人は口々に『こんな家に住みたいねー』とつぶやいています。
 うーんその気持わかります。みんな本当は新建材に飽きたのでしょうか?それとも曲がった窓に新鮮さを感じたのか? ドラマの一部に自分が入りたいのか…?

 でも、こういう家をいざ作ってみて普通に登記できるのか…
バス部分は居住空間に入るのでしょうか?(基礎がないので固定資産とみなされないユニットハウスやトレーラーハウスは固定資産税の対象にならないのだそうです)

Photo_20

 そういうことを考えるのはヤボというものですね

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2007年6月 6日 (水)

巨大生物に襲われた廃屋

Photo_14

 以前『ドラッグ中毒』のトップに登場した廃屋です。見通しの良い高台にあり、回りの景観は申し分ありません。その分。真夏と真冬はきついかもしれませんが…
 ようやく日の出を迎えたばかりで新鮮な空気の中、草原に囲まれたこの家へ向かいました。幹線道から程よく離れているので、草原をそこそこ歩きます。元は家に通じる道もあったのでしょうがすっかり草原に呑まれて痕跡も残っていません。

Photo_15

 この住宅、左の大部分は和風の作りですが右側は全くの洋風。それも回り込んでみると異国の香りがする作りです。
 豪農とまでは行かないまでもそこそこ力のある農家だったのでしょう。それにしても右と左で基礎も全く異なる造りです。

Dscf3532  この住宅、実は毎年、5月から10月までの間、巨大生物に取り囲まれます。それというのもここは現在町営の育成牛の放牧場の敷地になっていて、この屋敷の土地も離農の際に買い取られたのでしょう。暑い夏の日など、この屋敷回りは日陰を求める牛のたまり場になります。それだけではなく、家のあちこちで牛達がかゆい横腹をこすりつけるので家がどんどん傷んでいきます。

 辺りの木立も生贄になり、樹皮が剥がされてしまうので立ち枯れする木も少なくありません。
 家には板張りが施されていますがこれは、人の侵入というより牛の侵入防止のためのようです。約半年の間、辛抱して牛の猛攻から開放される屋敷はモルタルの角あたりが丸くなったり変色したりしていました。

Dscf3535  中はと言えば、やはり風当たりが強く、屋根を葺いたトタンがかなり散らばって雨風の侵入により、あちらこちらが苔むしているようです。床もすでにボロボロ。

Dscf3541 一方、和室の方は 、南側に位置するため比較的痛みは少ないですが床に近い辺りは、牛によって壁が剥がされ。 部屋の中が見えるほどの状況でした。

 納屋や物置などの類は一切残らず、屋敷だけが残されたのは、近くに管理詰所らしきものもあるので当初、牧場事務所として使われていたのかもしれません。

 今では、育成牛に取り囲まれる以外は松の木の下枝を剪定した際のごみ箱代わりにされているようで随分とまた、ぞんざいな余生ですね。

Dscf3537

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2007年6月 5日 (火)

オルガンの調べは遠く ②

Dscf1045

 昭和47年3月、残った4人の子ども達の巣立ちを見届けることなく、学び舎は廃校となりました。
 当面は地域館としての機能は保たれたのでしょうが開校50周年式典以降は目立った事業はなく、閉校と共に風雪に耐え忍んだ板壁は静かに朽ち始めました。やがて、校舎裏手の学校トイレも雪の重みで倒壊。学校の倒壊はトイレから始まるのか?というくらい朽ちる廃校はトイレから始まっているみたいです。

Dscf1031  それから約25年後の平成9年、学び舎に変化が訪れました。
O市内の工芸作家が自然素材を利用した染物、羊毛を紡いで敷物・クッション・帽子・アクセサリーなどの生活小物を生活小物を製作するためにこの学校を工房として再生しました。

 『山の工房』
 
その活動は体験工房としての側面もあり自然派思考のブームも手伝い、訪問者とそのリピーターもいたようです。製作で、染織は準備や行程に手間がかかり、時間を要するためか、2段ベッドも用意され、簡易宿泊も可能だったようです。
 その後、ナバホ織(19世紀頃、ネイティブ・アメリカンのナバホ族によって織られ、作られた衣装は彼らのマストアイテムであった)や木の皮で編んだバスケット製作にも意欲的に取り組まれました。

Dscf1037

Dscf1040  しかし、ねこんがこの学び舎の存在を知った郷土廃校研究誌の発刊時(平成15年)には、既に同校は未利用とされていました。すると『山の工房』の存続はわずか5年で経営者の何らかの理由で存続が困難にかつ、突発的に中断したようです。工房の中には作品・道具類・染織や工芸の書籍などがそのまま残されています。壁には染織の知識などの掲示物や訪問者からのお礼の手紙や写真などが貼られていて往年の繁栄振りが垣間見えます。

Nagashi_1 この地区は近家もすでに離農しており、この工房に関しての情報が少なくて詳細は不足しています。主催者は判明していますが所在はつかめませんでした。でもこれ以上調査を続けるべきではないでしょう。

 現在、校舎裏手の流し付近の窓が壁ごと飛散して、致命的な崩壊が始まりました。このまま数年後には歴史や思い出など全てをはらんだまま倒壊してしまうのでしょう…。この時も屋内に積もった雪が床板を変質させているようでした

でも、自然の成り行きに逆らうような、そんな気がして今だに何もしていませんが…

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 すでにここはオルガンの調べも児童たちの歌声も聞こえることが無くなってしまいました。
そんな学び舎に上記のような一文が静かに掲げられています。

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2007年6月 4日 (月)

オルガンの調べは遠く ①

Dscf1026_1

 もうすぐ立夏というところで季節はずれですが、今の時期に涼しげな雰囲気の物件を…。
 訪問時は例年になく暖冬。雪も少ない冬でしたが数十キロ走っただけで雪質が変わります。暖気と寒気に交互にさらされた雪は上に乗れるほどカチカチになりますが、この地に来ると寒気の方が強いのか新雪のようにフカフカでグランドを横切るのも一苦労。

Dscf1028  大正3年創立、昭和47年3月に59年の校史を終えて近郊の学校(昭和52年廃校)へ統合されました。閉校時の児童はわずか4名。
 創立後の大正6年に山麓一帯を焼き尽くした山火事のために校舎が全焼。11年には暴風雨のために校舎が倒壊。当直の教員が殉職するという事件もあり、後年の昭和29年にも暴風のため桁上・屋根全て飛散という災害被害に見舞われました。

 その後、大正14年地帯・住民の寄付により移転新築。ただしこのときに隣の地区の学校も移設・新築され、当時より児童数の少ないこの学校を編入し、この学校を廃校するという案が出されましたが地域住民の反対で再建にこぎつけた経緯もあります。

 現校舎は、さらにその後昭和9年に現在地に新築移転。その時、学校の位置を巡って部落住民が対立し、部落が分断される事件がありました。

Dscf1029  昭和47年までの41回の卒業生(卒業生のいない年も有り)は、のべ170名に及ぶ。
 当時は、部落会館というものがなく地域の集会などは主に学校が使用され、教育の場であると共に集落の中心施設としての役割も担っていました。

 昭和38年には開校50周年式典を挙行。同年ようやく学校と職員住宅に水道が完備されました。しかし、その9年後には、足踏みオルガンの音と子ども達の歌声が聞こえてきそうなこの学び舎は、その歴史を閉じることになります。

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 ただ、この学校にはその後がありました。

(つづく)

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2007年6月 3日 (日)

もうひとつのシャトルステーション 廃ラブホテル『Y館』

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全国の廃ラブホテルファンの皆様こんにちは
日頃のアクセス・ご閲覧にお答えしまして、不完全取材ですが好物件をご紹介します。

『Y館』
鮮やかなピンク色に彩られたこの物件、トップ画像で『ルイドロ』常連の方は「廃ソサエティ(?)な勘」にピンとくるでしょう。総ピンクの奥に見覚えのある形状のものが…

Dscf3487 「廃墟ラブホ“C”」 紹介済み物件の人気ルームであるシャトルと同形の部屋が見えます。
 ホテルの誕生時は、どちらもほぼ同じ。しかし、現役の頃、形状的に特異な“C”に人気が集中したため、便乗して導入したらしく後付の感があります。
Dscf3506  当時、このタイプのユニットハウスが流通してたのかこの『Y』と既出の『C』。そして現存はしていませんがカーショップの事務所に使われていた例もありました。
 『Y』に関しては尾翼なども『C』とまったく同じで同一業者の売込みがあったと想像されます。ただ、シャトルがメインの『C』と違いピンクとスカイブルーのツートンカラーで塀に囲まれていない開放的なホテル本体とミスマッチな感もぬぐえません。

Dscf3501  このあたりには元々ラブホは少なく前者2件がこの辺りでは最初になります。現在までに点々増えていき、人気も当然移り客層が流れ、利用者を維持するためには適度にリニューアルも必要になります。個性を出さなければ飽きられるのがこの手の業種。『Y』の場合は噂による情報ですがリニューアル失敗とは事情が異なったようです。
Dscf3482  それというのもラブホ経営までは良かったのが手を広げようと飲食店を建築。それも認可を出す前に見切り発車だったことと周囲が農地であったこともあり実際には飲食店の認可が得られなかったため営業できず、ホテル経営も同業者乱立のため斜陽になり閉業になったとのことです。シャトルは設置されたものの内装は着工することなく、使われないまま擦れていったようです。何もないためシャトルの基本構造がよく分かりますが大部分が芯まで赤錆が回り、自然崩壊も時間の問題。 また、うっかり足を踏み入れると確実に底が抜けるほどの錆具合。遠巻きに見える茶色のボディは丸々赤錆色なのでした。いまでも銀翼の健在な『C』と違い塗装も成されなかったのでしょう。

Dscf3497  現在近所は宅地となり一般住居や事業所が建ち並び、ホテルから見える位置には小学校もあります。後年の入居者が多いので近所の方からは経営者の情報は得られず、農家の方から噂としての情報でした。

 ●屋ぺーばりに細部(電気メーター)までこだわるピンクと派手さを抑えるスカイブルーのカラーで曲線を微妙に使ったオーソドックスな作りの外観。派手な印象よりさわやかな印象のラブホ『Y』。現在ホテル本体は全ての窓と出入り口を非常に神経質な封印で閉ざして静かに眠りについています。

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2007年6月 2日 (土)

かむいが遺伝

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『トーチカはどっちか?』
などと海岸線をわき見八割運転(危ない…)。途中、道をエゾシカの群れと遭遇。うっそうとした林の中へ飛ぶように踊りこんでいく白い尻尾を見送りながら走るうちに林が切れてきました。
 その林の際に銀色に輝く雄姿を発見。といいますか春の暖かい一日でも木々の緑は少なく、松林の幹の色に溶け込んで銀色の車体は、むしろ目立たない感じです。

Dscf4783  バスというのは結構利用価値があるのか郊外を走っていると農家の庭先や畑の隅で休憩所・物置・薬品庫(農薬)・子ども部屋などに。街中でも2台つなげて地域集会所・ドライブイン。他には老人クラブのゲートボールや学校スケート少年団の休憩所・スナック・ライダーハウス(簡易宿泊所)など多彩です。

 座席(客席)を取り外すのはかなり面倒と思われますが、無くなってみるとかなりフラットになりますね。でも、もともと『廃』を利用したために愛着はさほどないのかそのまま朽ち錆付いていくものも少なくないようです。
Dscf4785  この『かむい』は、林の際で畑のそばにあるので近隣農家の休憩所として使われていたのかもしれませんが内部には農業関係の遺物は一切なく、カーテンもあることから宿泊用か部屋として使われたものでしょう。
 現在はこの場所で回りを木立に囲まれ、いったいどこから運び込んだの?という状況です。

 『かむい』の名と天窓のある作りから通常の路線バスではなく観光用なのでしょう。蝦夷地の神の称号を戴くわりにぞんざいな宿命ですが中に数個、比較的新しい発泡酒の缶が置かれていたので密かにまだ利用している人がいるのかもしれません。

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2007年6月 1日 (金)

石亀、平和の海へ帰る ③

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『猿の惑星』…ではなく、A浜トーチカです。

 トーチカ その製作行程は…
●1m程度の深さの穴を掘る
●そこにコンクリートを流し込み自然乾燥で3日ほど置く(土台)
●土台の上に型枠を置き、コンクリートを流し壁にする
●最後に上部のふたを作る
●銃眼が覗く程度に土を被せ、草を植えて隠す。

Dscf4760  1基、おおよそ1週間で作られましたが、実際はかなり雑な造りでセメントの中に20㎝級の石までじゃんじゃん投げ入れていたそうで、たまに木杭まで入り込んでいるのが見えます。

 工兵は皆、口に出さないまでも敗戦ムードの高まった対戦末期。空腹の中、実戦にはとても使えそうもないトーチカ製作もとにかく早く終わらせたい一心での作業でしたが『負け戦』と分かっていたような状況で作業に身が入らなかったそうです。

Photo_13  トーチカ製作には、地域住民の労力も大量に投入されたことから全くの軍事機密ではなかったらしく、構造や使用目的は、ほぼ筒抜け状態で、実際の戦況は知らされないまでも何のためにここにトーチカが築かれるのか(米軍上陸の備え)は簡単に予想できました。 
 ただ、地域住民にとっては農作業との平行であったため大変だったようです。

 結果的にこのトーチカ達は戦後もこの地に残され、現在まで生きながらえています。その間、埋められて外側から伺えなかった姿も海水の浸食により白日の下に晒されました。
その姿は、まるで海原へ向かって這い出していく海亀の姿にも見えます。

 海からやってくる脅威に対して据えられたトーチカ。
この石亀たちが海へ向かうのは、いまや脅威は海ではなく陸に見たからなのだろうか…
 やがてこの群れが完全に海中に没したとき、陸はどんな世界になっているのでしょうか。

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