コンクリートの海 祈りの島 ③
明治2年、新政府は北海道に開拓使をおくことにしました。
開拓判官の島義勇が現在の札幌市に本府を定め、街づくりは大通りを中心に南を商店街に、北を官庁街とする構想で進め、開拓使本庁舎(現在残る赤レンガ庁舎は二代目)を石造りとすることにしました。
これは野火を心配したためで、大通りは当初、防火線(類焼を防ぐ)として整備されました。
明治5年3月、請負人の大岡助右衛門が円山頂上で良質の石材を発見して採掘を出願、20人ほどの工夫で採掘を開始。
円山頂上はもともと土で覆われて樹木も密生していたそうです。現在、岩石が露出して展望台のようになっている部分は石材を採掘した切羽跡ということです。ここで切り出された石材は、そのまま急斜面を山下へ転がし落としました。
斜面の緩やかなところまで転がり落ちた石材は運搬しやすいように小割にして、現在の丸山墓地の辺り(石工夫の作業場と宿舎を兼ねる)まで運んで製品化していたそうです。
現在も丸山の南側を沢伝いに行くと斜面に引っかかった岩塊(楔跡が残る)や半製品化した物を見ることがあります。登山道も上へ向こうごとに岩石の露出が増え、切り出したものを固めておいた場所を確認できます。(登山道の整備や園内を流れる川の護岸にも利用されているようで楔跡が見えます)
明治5年7月、開拓使本庁舎の建築が始まり、石材生産も本格化しました。石工たちは作業場である丸山に守護神として「山神」を祀ろうとしたのは、ごく自然なことで、付近の石が選ばれて、それが現在の「山神」だったのです。石工頭は増産の合間を見て山神の一字一画に心を込めて彫りこんだことでしょう。
山神碑の建立は明治5年12月12日が選ばれ、準備が進められていました。
ところが、新政府は11月9日に突如、大政官布告を発令。「太陰暦を廃し、太陽暦を用う。すなわち明治5年12月3日をもって明治6年1月1日とする」という旨のもので事実、明治5年の12月はたった2日間しかなかったことになります。
「山神碑」製作は、まだ途中で、しかも建立予定の12月12日が存在しなくなることになります。幸い、建立の日付はまだ入れていなかったので、とりあえず仮建立されました。
もともと冬の採掘は休止であることと、太陽暦の採用で1か月も早く正月が来るということから、工夫たちは故郷で正月を迎えるため、あわただしくなりその年の作業を切り上げて「山神」は翌年に定置することにして旅立っていきました。
ところが、工夫たちは丸山に戻ることはありませんでした。いったいなにが?
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