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2007年4月30日 (月)

放置された記憶② 『アイドル』

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 続いて隣のお宅です。ほとんどの部屋は引越しの後片付けのように物が残っていませんでしたが、ひと部屋だけは多くの物が残されています。

 ここは片づけを部屋の主に任せたのか、それとも故意で放置したのか、いずれにしても色々な物が残されていています。ところどころにネズミの亡骸が残っているので辺りにあるものを確認してみる気にもなりません。
 『イモ欽トリオ』や『中島みゆき』などのシングルレコードが大量に残っていました。(レコプレイヤーは見当たらない)椅子以外の机などの家具は無く『いらねーや』とばかりに放置していったようです。だらしないですが、それなりに楽しませてもらいました。(ネズミ以外は)

Dscf0693  建物の取り壊しが前提だとしても物が残りすぎですね。一応は借家でしょうに。
部屋の壁の方はといえば、既に現役を退いたアイドル、なつかしのアニメなど。レコードのジャンルといい、ミーハー振りが伺えます。ミーハーがゆえに飽きるのも早かったというところでしょう。そういうねこんも映画スターのをたくさん貼っていました。
 自分の場合は、些細な思い出をつまんでしまい、捨てるに捨てられず悪循環をおこしてカオスの砦を作るタイプですからある意味、この部屋の主の方は、いさぎよいのかもしれません。(今だに昔の雑誌を数冊持っているくらいだから…ビックリハウスとか)

Dscf0694  調べでは『ハイスクールララバイ』が1981年。
森高千里『森高ランド』が1989年。 『社葬』と一致しますね。

 こちらのお宅も日当たりは最低。南側に陽をさえぎるものは無いのに南窓付近すら充分な陽も得られず…。物には恵まれていたのに自然の恩恵には預かれなかったみたいです。

 それでも、当時は自分だけの城であったのでしょう。

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2007年4月29日 (日)

放置された記憶① 『社葬』

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 さほど昔ともいえない少し前にこの町を舞台にした映画が作られました。
その舞台の中心となったのはこの地域。本町と比較して過疎化が進んだというか商店街の店の数もめっきり減ってしまいました。それも空き店舗というよりも更地の間に店があるといったほうが的確なくらいになってしまいました。
 覚えている頃にはまだそこそこのお店が軒を連ねていましたが、自家用車の普及に準じて地元での用足しが少なくなり、お店自体も大手スーパーの物販量・値段に勝てるものではなく、後継者の問題も相まって歯が抜けるように減っていきました。

 すぐ近くには新設の『道の駅』があり、道の駅マニアや旅のバイカーで賑わっています。
この市街地の反対側のはずれ、お寺の近くにこの一塊の廃墟群が立っています。新しい建物と古い建物が混在している地域なので何の違和感も無く地域に溶け込んでいます。

 3件続きに小さな平屋の1戸建てが数件固まったこの一帯は借家であったものでしょう。聞き取りした近所には、ここの詳しいことを知る方がおらず所有者などの詳しい情報は得られませんでした。内部はかなり切ない状況になって関係者に何らかの対応が望まれるところです。それが長い年月の間ここに放置されたのは当事者自信の訳もあり、それを地域が気に留めないそんな現代的な要因も関係しているのかもしれません。

 それでは、始めのお宅 『社 葬

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Dscf0690  こちらは、住人が立ち退いた跡です。少なくとも1989年まではここに『暮らし』があった模様。玄関付近はフルオープンで風か何かで破れてガラスなどが散乱しています。
 1989という根拠は壁に貼られた『社葬』のポスター。よく映画館で上映作品のポスターを販売していてそれを購入したものでしょう。
 よりによって『社葬』ですか?とも思いますが、よほど感動したのでしょうから大きなお世話ということで…
 この映画が1989年 第32回ブルーリボン賞 監督賞受賞(舛田利雄監督:宇宙戦艦ヤマト・ハイティーンブギetc..)作品で、公開年に見たものらしく建物は1989以降に廃墟化したことになります。しかし、カレンダーなどの実質年度を特定するものがありません。ポスターはさほど色あせのない反面、奥の部屋の畳と床板が雨水の入ったわけでもなく陥没しているのでポスターを貼った頃からさほど経過はしていないと思います。

 物干しのロープ、カーテンはそのまま。流し台は部屋の中央まで引っ張り出されていますがこれまでもっていくつもりだったのではないでしょうが…毛布が投げ捨ててあったり、上着が壁にかけてあったりして大雑把な引越しだったようです。
 あるいはこの引越しは、建物の取り壊しを前提にしたものだったのかもしれませんが現在もこの状況で放置されています。

Dscf0688 南側の窓が意外に低い(小さい)ため部屋の中は比較的暗く、オープンな玄関ながら中はかび臭く、空気が淀んでいます。床下の辺に水が浸入し屋内の風化を早めたのでしょうか。
 あと数年もすると建物の根太(ねた)部分が腐敗し、この部屋から建物全体は崩壊していくことでしょう。

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2007年4月28日 (土)

頭上の苦悩

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 国道を走っていると視界に奇妙に違和感のあるものが…

ええええっ??
スパイダーマンだ!こんな北の地にまで出張とはヒーローも辛いものです。その点、ポアトリンみたいなヒロインは、ご町内の平和を守るのだからストレスが少なく健康的ですね。

 なんでもスパイダーマンは始めに日本に来たときはバブルのあおりのためか巨大ロボットも持っていたようですが散財して本国に帰ってからは、また身ひとつの存在になってしまったようです。

 映画に出演するようになってからもギャラが安いのかキャンペーンにも自ら出なければならないようです。この日はオフなのにバイトでイルミネーション照明の取り付けをしていました。

Dscf2096  この時はまだ3月の北海道。この寒いのにヒーローもつらいものです。
せめてもの救いなのは、ここにはオクトマンもグリーンゴブリンもこないことですね。
この場所はガーデンエクスステリア関連のお店。国道側の壁とはいえ、お店の正面からは全く気付かれないこの場所、既存のヒーローと比べても彼は明らかに人間くさく、私たちに近いところにいるヒーローです。

…今回はえらく脱線。

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2007年4月27日 (金)

たわわの幸福

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 天井から吊り下がった裸電球ひとつ
それすら目立たないほどに重なった名刺・葉書そのほか、ここを訪れた人々の思いを託した一葉の紙切れ。中にはキャンプ用品のコッフェルまで見えます。

 言い方を替えると個人情報の集製材で建てられたようなここは旧国鉄広尾線『幸福駅』の駅舎。その名は誰もが知るところですが現場でこの光景を見るとすさまじく圧巻的です。ともかく幸福は『貼る』ことで得られるようです。

Dscf0387  昔のテレビドラマなどの影響で廃線前から訪れる人が多く、ピークはとうに超えたとはいえ、入場者の出身地も全国津々浦々。外国人の名刺もかなり見えます。特にお隣の国の名刺はゴージャス!(物価の高い日本に来るくらいだから裕福なのでしょう)ほとんどブロマイドのようなスタジオ撮影写真が片面に刷られています。
 近くに台なんかないのにどうやって天井に貼っているんでしょうね。台でもかしてくれるのかな?
 隣の『愛国』駅も観光スポットですが雰囲気ではやはりこちらの方が絶品です。
 『廃墟』とは明らかに趣は異なりますが『廃校』と同じく『廃』の冠は取れないまでもその後の変貌に驚かされることもあり、ポジティブな『廃』といえるかもしれません。

Dscf0382  更に駅の名前と独特の雰囲気のためか、『廃線』・『廃駅』の寂しい雰囲気よりのんびりした感がここにあります。
 駅傍の道は、元『メルヒィエン街道』と呼ばれ、現在鎖国状態の『G王国』へ至ります。今だ黒船も現われず平坦な田園風景の中に古城を晒しています。

『大きな夢よりも小さな幸福を願う心の方が強い』ということでしょうか。
日本一切符の売れる『廃駅』でした。

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2007年4月26日 (木)

悲しみが雪のように ナイターコース

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Dscf0072  さーてと、ここまでやって来ましたが最上部のコースへは更に傾斜が上がり、かつ今までの道のりの1.5倍を登らなければならない。いくらなんでも萎えてしまいました。
 今日のところは(いつ行くのだろう)ここまでに…

 ここと同じ形で道東のT町が今シーズンでスキー場の営業を終了しました。ねこんの縁深い町なので非常に残念に思います。でも、町のHPで見られる同スキー場のライブ映像に写る人の数を考えると、いたしかたなしでしょう。

Cyouzyou

 Webで今回のスキー場を検索すると現在もかなりの数のヒットがあります。
今だ営業中であるような紹介も多くて、ある意味ネット上では生き続けているのかなーと思いました。現役時に通っていたころ、スノボのウエアがどうも地味なものが多くて気に入らなかったので重ね着の上にホッケーシャツ(ニュージャージーデビルス:大きいので重ね着にもOK!)で滑っていると、この町はアイスホッケー熱も盛んな町なので従業員の方に受けが良かったことがありました。どーしちゃったかなーあのパトロールの人。

Sayonara  ほとんど、ねこんの思い出の場所めぐりになりましたね。今回は当時と違った意図でまたここに来ましたが、ゲレンデとしては無理でも道内の不景気を跳ね飛ばすような活気あるイベントがここで催されればいいですね。

 いつからここにいるのか『スティラコサウルス』の模型がロッジ前に寂しくたたずみ、その背に薄ら雪が積もっているのを見ると恐竜時代の末日のイメージがします。その目元にも雪が涙のように積もっていました…

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2007年4月25日 (水)

悲しみが雪のように Dコース

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へえぇぇぇ~っ 疲れた…心臓バクバク、ちょっと倒れそう。いくらなんでもこんなスキー場で遭難はないですが…ボード現役中でもここまでは徒歩で上がらなかったのに。
 でもさすがに山岳地なので景色が良いですね。遠くの国道に車が走っているのが見えます。なんとなく、シーズンゲレンデ1番のりの気分。えへへへ…

Dscf0065  この町を取り巻く情勢は広報誌から読み取ると緊縮財源ではありますが自立は可能と謳っています。しかし、合併論議が盛んになりだした頃、どこの町村も地方譲与税交付金のカットが加速すれば自立は無理との見解をしていたのが合併協議がことごとく白紙化していき、自立ムードが高まったときには『緊縮財源だが自立は充分可能』との考え方にかわっていきました。ある町が自立を宣言し、各町村が追随して名乗りをあげていったときに本当は弱みを見せたかった町もあったのではなかったかと思います。

Dscf0066  このスキー場の閉鎖。そして町営の温泉施設も先行きが不透明になりつつあります。さほど遠くない昔に近隣町が温泉施設を持つところから『わが町にも温泉を』との動きで掘削した結果、どちらかといえば『冷泉』の部類に入りましたが20~30度の温泉を掘り当てることに成功しました。湯温の問題はボイラーで追い炊きすることで解決し、見晴らしの良い半高台から雄大な田園風景を望む温泉施設が誕生。近隣町からも常連が出来るほどの盛況振りでした。

Dscf0067  やがて、利用者の減少。昨年度の年間利用者が10万人にまで落ち込む結果となり、施設設備の老朽化の修復をまかなうことができず、民間業者に経営の委託を模索中です。

 皆さんご存知のU市が財政再建団体に認定されましたが、今はU市救済が半ばブームのようになっています。これがU市だけの問題ではなくなったときに業者が魅力を感じるような箱物を持たない町村はどうなっていくのだろうかと考えるとこの北海道の雄大さを象徴する風景にもなにか寂しさを感じます。

Dscf0069  雪がつもっているとはいえ、リフトの降り口には背の高い枯れ雑草が行く手を阻むように風に揺れています。監視小屋(リフト制御室)には最後の仕事の痕跡がそのまま残っていました。確かに自分はここに来て、このゲレンデを気ままに滑っていたはずなのにおぼろげで遠い昔のことのような気がしてきました。
 覚えているのはリフトに乗って山頂をジーっと見上げている間、ボードをぶら下げた片足が痛かったこと。そしてこの町ゆかりのシンガーソングライターのアルバムが延々流れ続けていたことを思い出しました。確かこんな歌…

『ウィ~ア~ ザ ナンバー1』 誰だっけ?  (つづく)

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2007年4月24日 (火)

悲しみが雪のように Cコース

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 ここまできたらゲレンデを登らなければなりません。でもボードの練習をしていた頃ならいざしらず、徒歩でどこまでいけるのでしょうか。幸いにして誰かが車で中腹までは登った轍の跡が残っています。跡が新しいので今朝のことでしょう。(おそらくヘビー4WDユーザー)
 とりあえず、轍に沿って登り始めました。何やら回りには低い苗木のようなものを固めて生えてあります。
 閉鎖になってからの年数が浅いためにリフトなどの設備は思ったほど痛んではいません。ワイヤーにリフトが取り付けてあればすぐにでも可動できるのではないでしょうか。

Dscf0062  運動不足と足元が雪のため息が切れてきました。それでもけっこう登ってきたようで、斜度はそれほど上がっていないのに振り返るとロッジは視界の下の方に小さく見えています。ゲレンデの途中にトイレのような小屋。2部屋あり、中は椅子のような台がひとつづつ。営業中には無かったものなので閉鎖後に何らかの理由で設置されたものです。取りあえず中で一休み。

 『閉鎖』を決定した町は、後始末に関して原状回復の資金も捻出できず、土地を買い上げることも出来ない状況から思案の上、ある答えを出しました。
「原状は、国に返還せずに自然植林公園の位置づけで継続する」というような決定です。なんとなく不可思議な感が…
 最大の問題であった赤字の膨らみ続ける「スキー場」は営業終了し、用途を自然公園と変更し、借り上げのままにするという中途半端な計画ながら、町の原状では的確な決定なのでしょう。ゲレンデの途中にある低木は、その植林によるものだったのです。しかし、ゲレンデに木を植えるだけのようで他は何も変わらない放置状態の山に、黄色や赤のリフトの柱が異常に目立っています。

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(つづく)

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2007年4月23日 (月)

悲しみが雪のように Bコース

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 すっかり春めいてきましたね。といいましても桜前線はどんどん上昇中。すでに盛りも過ぎてしまった所も多いのでしょうが、ここ北海道は、今だ桜も見られず日陰などには雪の塊が大地をいとおしむように鎮座しています。
 これからは、廃屋に取り残された桜や梅、ツツジ、ルピナスなどが主のいない荒れた庭の中でも咲き誇りまるで人を呼び寄せるかのような不思議な光景になります。
 北海道の短い夏。そこに向けて命のラッシュアワーが始まります。

 さて、舞台は冬に戻ります。『国設スキー場』です。今回はこの肩書きが大きなネックになったお話。

Dscf0059  折りしも、全国的に『平成の大合併』が取りざたされ、ここの管内でも住民意識調査や合併シュミレーション(財政シュミレーション:合併した場合の財政的な予測)が模索されてきました。新聞紙面や広報誌でも“●●町と●●町の合併論議”と称してまるでもう、合併が決まったかというような各町の長が手を取り合う写真が大きく報じられていました。
 結局、1町と1村の合併を除いては『白紙』という何ともおかしな結果になってしまいました。

 一方、このスキー場を持つ町は、国の合併パターンの中では近隣町との合併例が掲示されていましたが、実際の論議は各地方行政にまかされていたその中で、協議の対象にもならないのか相手にもされない状況になっていました。(その理由は広く知られているところではありますが…)
 各町が協議の末、最終的に(住民意識を踏まえ)自立を選択したことに対し、この町は最初から自立していかなければならないという立場に晒されました。

Dscf0078  合併云々以前に地方交付税交付金の激減でこの無駄な部分をカットしていく方針に伴い、スキー人口の減少によって赤字経営の続くスキー場の閉鎖がほぼ決定しました。
 問題は先に出た、『国設』の部分です。

 『国設』という名に『国営』という印象がありましたが実は『国有地』を借り上げて作られたスキー場だったのです。山林地であったこの山を町が借り上げてスキー場を造成したというのが正しい素性なのでした。
 よって、これを国に返却する場合は『原状に戻す』というのが約束事だったわけです。
 要するに、『建造物を全て撤去し、元の山林状態に帰しなさい』ということが返還時の条件だったのです。

 この『スキー場』を残すことも壊すことも難しくなっていました…

(つづく)

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2007年4月21日 (土)

悲しみが雪のように Aコース

Kyouryu 

 冬がきました。季節の空からの便りが今シーズンも分け隔てなく大地を純白に変えていきます。
 春の桜の色そして若葉の緑。夏、競い合うように色鮮やかな花が咲き乱れ、緑は贅沢に広がり、秋には気温の下降に抗うように山々を暖色に染め替える。
 気が付くと、使い散らしたその年の絵の具箱には『白』が1色のみ。来るべき春のために季節の芸術家は大地を元のキャンバスの色に塗り戻す。それが『冬』です。

 スキー場に雪が積もりました。まだまだ絶好のゲレンデ状態には程遠い15センチほど。でも、今シーズンまとまった雪を見たのはこの日が初めてです。

Dscf0054  でも、このスキー場に、もう雪はいらなくなりました。そうなってもう3年目です。
リフトもロッジもゲレンデもまだ、そのまま残っていて雪もちゃんと降るのに…。
もう、このスキー場は閉鎖になりました。

『●●国設スキー場』峠道の途中に位置するここによくスノーボードの練習に来ました。ねこんの住む町にもスキー場はありますが市街地から近いため、人が集中するために他所へいきました。もう一つ訳があって、当時はまだ、スノーボード自体が今ほどメジャーではなく、危ないとの理由で「コース限定」「時間限定」「ナイターのみ」「平日のみ」など制約が厳しい頃でした。意味なく飛んだり、コース途中で座り込んだりするなどの理由からスキーヤーからは『サル』と呼ばれたスノーボーダーたち。

Dscf0055  それを全面的に受け入れたのがここでした。今にして思えばそれは、スキー場の生き残りをかけた一策だったのです。街でここの『スノボ終日全面OK!のポスターがやたらと見かけられ、当然の如く欲求不満ぎみだったスノーボーダーたちは殺到しました。反面、スキーヤーからは敬遠される結果になったようですが、それを差し引いても十分すぎる集客はあったようです。混雑していたのでロッジでの食事もかなり待たされるほどでしたから…

 利用客の減少は何もこのスキー場だけの話ではなく、大きなリゾート系スキー場でもスキー人口の減少からバブル期に乱立したホテルなどがバタバタ倒産していき、各スキー場も生き残るためスノーボーダーの規制を全廃するまでには、さほど時間はかからなかったようです。
 それがリアルになった頃から利用者は他へ移っていきました。ねこんはイモ洗い状態をここで経験していたので「ノンビリ滑れていいな~」と♪気分でしたが、その頃からすでにスキー場を管理する町の議会では「存続」「閉鎖」の議論が始まっていました。

(つづく)

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2007年4月20日 (金)

笹海の箱舟

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 ねこんが生まれた家。じゃなくてねこんの実家にいく途中に見える廃屋です。
木々が葉を落とす季節にだけ車道からかろうじて確認できます。この小さな家、母屋には違いありませんが周りに他の小屋は無く、かろうじて暮らしの物証(一升瓶、古い動力エンジン・通称:発動機)が遺跡の遺物のように点在しています。
 さらにこの屋敷を囲むように深く切り立った小川が流れています。元々生活用水路としてあった小川に雪解け水が流れ込んで地表をえぐってしまったようです。

Imga0136  その小川をやっとのことで越えて玄関口についたとき、ちょっと住宅ではないのでは?という気もしました。回りは一面の熊笹。開墾の痕跡が見受けられない。「ない」というのは言い過ぎかもしれませんが周囲にあまり手が入れられていない気がしました。
 家の中も人が入っていた様子はある一方、部屋がふたつポカンとあって、寝起きをしたところという印象がありません。

 それでは、ここは?
ひとつの推測として学校、あるいは分教所の可能性があります。それならば納得できる間取りです。最寄の学校が破格に離れてImga0134 いるのでその考えが浮かました。残念ながらその推測を裏付ける物証や記録、証言は得られませんでしたが家屋内にDDTの箱を発見。「1074号 北海●●製 ●協DDT粉剤」。DDTなら戦後あたりでは?と、この線から調べてみました。

Imga0132  『1951年(昭和26年)2月26日登録/1971年(昭和46年)5月1日失効
 意外と認可期間に幅があり、時期の特定にはなりません。戦後5年後から70年台初頭。思っていたよりDDTの使用期間は長い。生産コストと効果には定評のある薬剤で普及が早かったそうです。
 他には部屋の隅のほうに地中に埋められた(埋まった?)大きな『かめ』があります。用途は分かりません。まさかトイレ…?
 屋根は雪の重みで抜けてしまい、中から空がまる見え。

 熊笹の海の中を漂うこの家の姿は、さながら「アララテ山」へ流れ着いた『ノアの箱舟』のような印象も受けます。

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2007年4月19日 (木)

廃の発展場

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 ここはT川流域の某所、E町。この道は右側に川、左側に山の登坂を伴うカーブ地帯。
右側の川面には、その昔近郊流域の稲作の用水のためT川の水位を上げる目的で作られた堰堤が見えます。一帯の稲作は少し昔、国の減反政策で徐々に水田が減っていき、現在は皆無の状態。水門や水路だけが当時の面影を残しています。

 道の向こう側にある建物、あれも廃墟です。(ただし、町の管理下にあります。)
 そして、この道も廃道となればここは廃墟の発展場です。

Dscf1577  昔、重版の大ヒットになりました故・中岡利哉氏の著書、『恐怖の心霊写真集』第3弾の最恐の写真の舞台がこの辺りになりました。丁度右側眼下に伸びる堰堤は秋鮭のダイナミックな溯上がみることができる観光スポットとして展望台(こちらも老朽化で閉鎖中)も設けられ、観光の振興に一役買っていましたが、「この道から見下ろした堰堤のシーン全体に白装束の女性の上半身が重っている」そんな写真です。
 真意の程はわかりませんが、この辺りで夜間、男性がひとりで車を走らせていると後部座席にいつの間にか女性が乗っているという話も過去に世間に伝わっていました。

Dscf1572  現在、山を縫うようにひかれたこの道も山を貫通するトンネルに取って代わられ、数百メートルのこの区間の前後は大きな土嚢で封鎖されています。

 北海道の広大なロケーションを実感できるこの場所ですが今は、訪れる人もまばらで堰堤改修に伴う護岸工事関係の車両の頻繁な出入りが見える真冬のある日です。

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2007年4月18日 (水)

わたしの臨死体験

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上の写真は『バッタ塚ドライブイン』そばのレーシングカートの墓場です。

 かれこれ『ルイン・ドロップ』を始めてからの記事の数は70を超えました。
改めて関係各位様およびアクセス頂きました方々にお礼申し上げます。

 思えば、開設初期は『ルイン・ドロップ』で検索をかけてもゲーム関係の情報に検索上位の座を占められ「同じ名前のものって結構あるんだ…」などと感心していましたが現在、この名前では最上位に出現することができました。あったり前かもしれないけれど、すごく嬉しかったりして…

 『廃校』やその他の『現代遺跡』と自分で位置付けしているものを巡って…と、いうより『ルイドロ』をはじめなければ一生行くことはなかったところを訪れて経験したことは、「悲しみ」や「忘却」・「寂しさ」・「懐かしさ」ばかりではなく、「驚き」や「怒り」・「微笑」・「感動」も当然ありました。『ひと』の暮らしや集いのあったところなので当然ですが、『ひと』が去っても消えないものがあることを知りました。それが、例えば『心霊』とか『精霊』といった存在なのでしょう。 その『もののけ』的なものの正体が家(場所)からくるものか、自分の内から発する感覚の見せるものなのか…それはもうしばらく探してみることにしましょう。

 夕べ、『ルイドロ』の更新をしていて、とりあえず記事の入力完了。あとは画像を入れて完成という段になり、急に睡魔に襲われて「とりあえず完成させねば…」とイメージ配置を始めました。
 しかし、うちのネット環境はADSLの圏内でありながら、中継機の能力の問題で今時のISDN。画像1点のアップに5~6分。へたをすると10分くらいかかることもあり、イメージ書込み待ち中についうとうとしてしまいます。
 夢見心地のなか、ふと顔をあげると「おっ完了してる…保存しよう…」

 そして迷わずクリックしたのは『削除』ボタン。ギィヤァアアアァ~…
図らずも臨死体験。
励ましのコメントよろしくお願いします。

ねこん

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2007年4月17日 (火)

廃墟ラブホテルノート/最後のページ

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 ラブホは、ある種の如何わしいところとされる反面、その人なりの正体が惜しげもなく暴露される場でもあります。ラブホテルのこれでもかというようなムードの演出は、誰しもが持ちあわせながらも晒すことのはばかられる、脆くて悲しい性の砦なのですね。
 その砦は屈強なだけではなく、そこに入る者の『ペルソナ』にならなければならないのか…

Dscf0576  やがて夜がやってくる。今は、灯りもともらないここであったそれぞれのドラマ。それはプロローグもエピローグもわからない途中の一話です。悲しみ・喜び・慈しみ・溺愛・一夜の愛・秘められた過去・希望・幸福・行きずり…それら多くの1シーンは、宵の中静かにクランクインし、朝焼けの中幕を下ろしていった。せめて演者たちがいつしか、ここの幹線を通り、今も残る『●すか』のサインポールをふと思い出して見上げたときに、かすかに笑みがこぼれるのであればこの廃墟と化した、ホテル『●すか』の存在意義は充分に果たせたのだと思います。

 しかし、方や地域の汚点であるかのように忌み嫌われていることも事実。下手なところに建てようものなら地域の猛反対運動にさらされる事も当然、覚悟がいります。
 良いとか悪いとかではなく、『秘め事』には適切な場所が欠かせない。でも、それを望む人が声を上げるわけでもないでしょう。プライバシーの砦もまた、眩さの反面、脆く悲しい…

Dscf0568  「悲しみの実をかじるたびに子どもは、悲しみを口に出せない大人になっていく…」
中島みゆきの歌でそんな趣旨のものがありますが、人は生きる過程で自分自身以外の力を借りて自分の脆さが漏れないように固く鎧を着込まなければならない。その鎧をつかの間、おろすことの出来る場所として『●すか』はあった。そう思いたい…この砦跡に関して。

 最後に再びノートの1ページ。一番ドラマチックなページを。この作者の思い出の場所として廃墟ラブホテル『●すか』は朽ちながらも存在していればそれで良いでしょう。

Yakusoku

約束は果たせたのでしょうか。たぶん…

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2007年4月16日 (月)

廃墟ラブホテルノート/6ページ

Side

 時は1月1日午後。 図書館よりも静かな部屋の中で、来るはずのないお客様の番をしている「ねこん」です。正午過ぎとはいえ、真冬のこの時です。もう陽が下がり始めている気がします。この辺りも立木に囲まれているために薄暗くなってきました。このまま『●すかノート』に没頭しているわけにもいかず、数ページを撮影して他を調査します。

Kyoka  ちょっと上の方を見上げると…額に入った『営業許可証』…?それも飲食店の営業許可証。ここでは料理を出していた?

 そういえば、最初に入ったとき(開かないドアのところ)に横手側に台所につながる学食の窓口みたいな開口部がありました。そこから裏口を通り、客室のオーダーを運んでいたのかもしれません。管理人個人用としてはずいぶん整った台所と思っていたのは実は、厨房!?
 食卓が2脚の小さなものであったのに炊飯器は2升以上炊けるサイズだったのは料理の注文を受けるための設備と思われます。メニューのようなものも見当たらないし、『●すかノート』にも何か食べたという記述がなく『許可証』を見るまで家族の住んでいた所としていたのは間違いだったようです。
 従業員構成としてフロント兼部屋係とシェフの2名。真っ赤なパジャマはこの厨房を仕切るシェフのものだったのではないでしょうか。郊外で当時コンビにもなかったこの辺りでは有効な営業手段だったのでしょう。

 この営業許可が平成6年4月。有効期限が平成9年5月。この間が『●すか』の最後の期間です。すると正式な廃墟化の始まりは約10~12年前と特定できます。
 それから現在までの間に雑木林に囲まれ、通じるのは一本道のこの場所で客室の取り壊しまでしておきながら幹線道からフロントまでの道が雑木と倒木に覆われるまで放置されたのは、実際は『放棄』だったのでしょう。
 それなら、客室も残しておけばいいのに…『吊りベッド』現物、見てみたかった。

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 なーんか変…人のこと言えませんが…

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2007年4月15日 (日)

廃墟ラブホテルノート/5ページ

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 元日だというのに廃墟内。でもこういう浮世離れも嫌いではないです。もう、すっかりお正月とは無縁の境地に入り込んでいます。フロント(制御室)に一人座り、ノートをパラパラと読んでいると今、ここにお客さんの車が入ってくるような気もしてきます。

 潜入(進入)だとこんなノンビリというわけには行かないでしょうがアポ取りで入ると廃屋の雰囲気に浸っているときにおじいさんが『どうだい?いい写真撮れたっかい?』と、やってきてガイドをしてくれたり、野良飼いの犬が終始そばでグルグルまわってたりしますが…今回は時期も時期なので遠くに時折、車の通過音を聞きながら『時間の止まった場所』でひとり時間を超越した人間になったような気分がしてきます。

Dscf2853_1  さて、ノートの内容は、彼は寝ちゃって…』『泊る場所を探してここにきました!』『旅行中です』『身の上話』『ガキはこんな所にくるな!(自分を棚上)など…
 今は亡き、部屋自体に触れたことはないのかとページをめくると

Dscf2860_1 『あった!』 ギリシャ神殿風?彫刻が施されている柱とかがあったのでしょうか。『サモトラケのニケ』とか『ラオコーン』の彫像が部屋の中に「ででーん!」とあると怖い。(ハンガー替わりにされるか…) 瓦礫の山の中にギリシャ風の柱は確認できなかったので、たぶん壁紙が下半分が大理石の柵で上が青空とかそんな装飾で雰囲気がギリシャ風とされた所以ではないかと思われます。

Dscf2862  更に5号室の『吊りベッド』の実体も見えてきました。
 実際は全然期待はずれだったようです。特定の部屋だけのベッドを吊り下げるのは構造的に無理でしょう。想像するに天蓋付きのカーテンを吊り下げたベッドではなかったかと思います。それが『吊り』と付くと吊ったベッドと誰でも思ってしまいます。語句的な説明不足が誤解を招いたのでは?それとも吊ってあったものを暴れん坊が落としてしまったのか…

 それにしても『彼が寝てしまった』というのが多いですね。(そんなに疲れるんですか?) なのでノートを記入するのは、ほとんどが女性です。日付もほとんどが1984年頃。漫画文字とかちょっとしたイラストにも時代を感じます。
 管理棟のカレンダーは1996年で、このノートはその頃から遡り開業初期、各部屋に置かれていたようです。盛んに思い出ノートの記入が行われた頃からほぼ12年後には閉鎖、その後、取り壊しを中途半端にして廃墟化しました。現在までのトータルは築23年です。

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 トムは全てを見ていたのかな…?

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2007年4月14日 (土)

廃墟ラブホテルノート/4ページ

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Dscf0580  1階に下りてきました。
奥のほうが明るいので行って見ると管理人用の通常玄関が開放状態でした。開かないドアで苦労したのは何だったのか…
 外に出てみると正面にガレージがあります。客室とは反対側になるので宿泊客用ではなく、管理人用と思われます。なぜか『13』の番号。ここは客室は8室なのでお客用ではなく他所から転用したものでしょう。すぐ横の小さな小屋の中は大き目の給水バルブがあります。給湯器などは管理棟内にありましたがボイラーではなく、8部屋をカバーするには小さすぎるので各部屋ごとに給湯器を設備していたと思われます。

Dscf0579  こちらから建物を見ると普通の民家のようです。外観は、近年のホテルのような雰囲気作りはしていないですね。正面から左の客室へ向かう道の側にまず料金表。そして受付口があり、ここでチェックインしてから入室の形になっていました。コンピューター営業とありますが流行言葉のようで、どこがコンピューター?な感じです。
 それにしましても『吊りベッド』とは何ぞや?興味はつきませんが時すでにおそし…。現役なら行くのか?という問題ですが…

 家屋内に戻ります。12畳くらいの広めの居間(?)。まだ、多くの物が残されていて雑然としています。なぜか両目開眼のダルマが放置されています。とくに選挙には欠かせない(当選・落選にかかわらず)もので、その役目は1度きりなのに縁起物のため、捨てるに捨てられずに巡りにめぐってここに来たのでしょう。
 正面奥にフロントとおぼしき一角が。ここにもエアシューターがあります。きれいに形が残っていて神棚、営業許可証などがそのまま残っていました。

Dscf0584  看板などのたくさんのスイッチ類や帳簿の綴りが所狭しと並べられていました。横の台の上にも帳簿類が詰まれ…?? !ノートの束がありました。

 表書きは『思い出(…?)』
 潰された客室の姿が見えてこないかと(誰かに読まれる前提で書かれたものだし…)10数年ぶりに人が座ったとおぼしき席についてパラパラとめくってみました…

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2007年4月13日 (金)

廃墟ラブホテルノート/3ページ

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 というわけで、ノブの壊れたドアに行く手をさえぎられてしまいました。ドアはその使命を遂げるかのように頑として動きません。工具など持ち合わせてもおらず、ましてや破壊行為は論外であるため、ここで探査を中断すべきか、しばし思案にくれます。
 ふと横を見ると壁に何やらぽっかりと窓が…まるで学食の配膳口のように枠で仕切られ、キッチンが丸見え。『ここから入れるのでは…?』

Dscf0589  とりあえず、そこから潜入を試みます。開口部の高さは充分とはいえ、床からの高さがあるゆえ、一苦労。炊飯器を蹴飛ばしそうになりながらもなんとかキッチン潜入成功。
 キッチン内は以外に狭く1戸建てよりは狭く、アパートよりは広いといった感じ。その中にシンク・ガス台・食器棚・冷蔵庫・炊飯器・ハイザー(米計量器)・ポット・二人掛けテーブルセットがコンパクトに収まっています。痛みはほとんど無く、ちょっと掃除をすればすぐにでも使えるのでは?というほどに…冷蔵庫、ハイザーともに中身は空っぽ。食器棚にはカップやお皿などがありますが、その数からやはり管理は1~2人といったところです。

Dscf0577  閉ざされたドアの脇にこちら側のドアノブが落ちていまし た。ドアのそばからまた、奥につながり階段があります。キッチンからこのあたりは普通の民家のようです。
 階段の手前にカーテンらしき布を画鋲で止めてあります。階段のあちこちに野獣(おそらく猫)の糞が放置されていました。廃墟後に侵入していたのでしょうか?
Dscf0571 2階へ上がると部屋がふたつ。いや、片方は和室が2間続き。そして洋室が1つです。しかし、1階に比べて荒れています。洋室の中はベッドと他に雑誌の山。発行日から廃墟年度を特定するには発行年がバラバラ…家屋内に張られたカレンダー(1996年)が正しいとすれば廃墟化後に誰かがここに来ていたことになります。住んでいた形跡ではありませんが秘密の場所ではあるようです。雑誌に埋もれてこのホテルの物品購入の領収書の綴りがありました。主にクリーニング関係です。他にダンボールや蛍光灯、中身不明のプラ瓶などがあり、マットレスも数枚重なっていることから物置にされていたと伺えます。

Dscf0574  隣の部屋もほとんど足の踏み場もない状態に物が散乱しています。衣類が特に残っていて物件を立ち退く際に置いていったようです。ダンボールがおかれて、物もそれなりに収まって引越し仕度の途中という雰囲気が残ります。ただし衣類が不自然にちらばっていたり、タンスの引き出を無造作に放置しているところは引越しの途中というより、誰かがタンスを荒らしていた…そんな感も拭えません。もしかすると、『夜逃』の状況があったのかも…

 この残された衣類の上に赤いパジャマやブラウスもあることから、若い女性が入居していたことになります。あるいは、旅館業を生業としてここに一家族が住んでいたのかもしれません。

ただ、それを裏付けるにはまだ生活感の形跡が少なすぎるようにも思いますが…

つづく

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2007年4月12日 (木)

廃墟ラブホテルノート/2ページ

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 それでは、取り壊されて瓦礫の山と化した『ホテル●すか』の唯一残された建物、管理棟』へ向かいます。

Mitorizu1 その前にこの廃墟の見取図を見てください。
 本来幹線道路からホテルへ至る道は現在、ツル系の植物で雑木林化しています。とても道があったとは思えないほどの状況ですが、何とか中程まで行けば開けてきます。
 住居地帯とホテルの間は針葉樹の木立で囲まれ、このホテルと瓦礫の山と化した客室は幹線側からまったく見えません。一見すると住居地帯に5メートルの高さの看板が立っているため、ホテルをつぶしたあとに住居が立ち並んだという印象を受けます。この廃墟が今まで保存された(つぶした部分は別として)のは、ある種この土地条件の成せた業でしょう。
 営業当時の客室割りは8室。『4』と『9』の部屋番号は欠番となっているところは、時代を感じます。
 休息でほぼ1室3,500円。1室だけが500円リーズナブルです。他の部屋は全室一律料金ですが3室の特殊部屋が含まれ、市街地から離れたこのホテルでも人気の部屋はすぐに埋まっていたようですね。

 今回は、客室の瓦礫の山から先に見たので客室側から管理棟へ向かいます。料金表から見るに、中途半端な設備が逆に呼び物となっていたようです。

 しかし、元旦早々なーにやってるんだろーと少なからずや自問自答…でも、心霊系サイトも含めて完全にオリジナル物件のホテルだなーと思うと、かなり興奮状態です。場所も場所だったのですが…

Dscf0566  管理棟と客室を行き来する通用口を見つけました。一時は閉鎖時に戸張していたようですが、今は外れてドアも開けられたままです。通路は…というより一般住宅の廊下のように狭い。途中の小部屋は洗濯室と給湯室。日当たりも悪いせいかかび臭い。長く狭い廊下を進む先にドアが。

『あれっ?』 ドアノブが無い!床にころがっていた。向こう側のノブはシリンダーごと抜け落ちている。ドアを押したり引いたりしてみるが全く動かない…

『困ったぞ…』 絶体絶命(?)のねこんは、この窮地をどう潜り抜けるのか?

以下次回を待て!

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2007年4月11日 (水)

廃墟ラブホテルノート/1ページ

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 主要幹線道を走っていると目に付くここの看板、これだけを見上げていると廃業しているとは気がつかない…看板は無傷建材で自己主張し続ける『▲●■』。
 夜は当然明かりが点っていないので存在がわかりません。一方昼間は、間違って入ろうとする人がいないこともないような…ただし肝心の入り口は雑木が入り乱れて絡み合い、入りかけて『あれっ?』という状況もありそうなほどの雰囲気があります。辺りを足で回るまでは半信半疑の物件でした。

 近くには、一般住宅が数件。犬もいます。この家が近いという条件が一見営業中に見え、一方廃墟にも見えない特殊な条件を作り出しています。
 よりによってこの日は2007年1月1日。『廃墟始め』です。新年早々ですが、ご近所へお伺いに…

『ここのホテルは、こちらの所有になりますか?』
 ご主人、めんどくさそうに…
『あれかい?うちらとは関係ないんだよね…』
『所有の方はどちらの…』
『●●町の●●の人でね…営業は十何年前にやめてるけど、取り壊しも途中で投げ出しでさ…』
『えっ…(壊してる?)●●の方がこういうホテルを営業してたんですか?』
『最終的にはその人だけど、その前にも持ち主は変わってたようだわ…まぁ、うちらは全然関係ないことになっているからね』

Dscf0562  この日は、とりあえず現地探索して後日了解を●●へ照会したところ、所有を認められませんでしたので、現場の安全に配慮した上で公開します。よって、シンボルの看板アップは差し控えます。

 先ほどのお話では、取り壊し中でしかも、中断のまま越年経過しているらしいく一般住宅群の奥にあるため近くに行くまで全容は見えません。事前に住宅地図で確認したところでは確かに建物はあり、手前の家は管理者宅と予想していましたが実情は複雑でした。

Dscf0563  とりあえずホテルへ向かうと…話どおりに取り壊し中。というより、壊しておいて放置状態のまるで産業廃棄物置場の様相。ベッド、照明器具、クズカゴなどの備品や給湯管、サッシ窓など…全てごみと化して一緒くたに積み上げられていました。
これでは、期待はずれというものですね。

先のお伺いした家のご主人は、こう言っていました。
『管理小屋以外はもう壊してるよ…』
そう、管理棟は当時のまま残っていました。

以降、次回へ…

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2007年4月10日 (火)

マルタの男

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 霧雨とはいえ、凍りつくほどに冷たい山沿いの晩秋。いつもの秋の楽しみも急激な気温の変化で一気に終わってしまいました。気温の降下に逆らうように暖色系に彩られた紅葉も消え、木々の幹が山肌に浮き出した血管のように見えます。
 ここは、地元の山岳地帯に国の『第二次林業構造改革』の認定を受けて創設された自然公園に併設されたレストハウス。公園とは間に横たわる渓流に架かる橋で結ばれ、パークゴルフ場、バーベキューハウスなどが併設されています。
 公園の方はこの年のシーズンはオフしていますが、レストハウスはすでに長い期間オフの状況です。

Imga0163  この建物に『勤労青少年健全育成事業認定施設』との肩書きも見えますがその真意はよくわかりません。当時、観光資源の模索と娯楽の少ない町の状況でオープン時の休日は広い駐車場も満車で、正面の幹線道が山中という場所の雰囲気にそぐわないほどの路上駐車(数百メートル)が続くほどの賑わいになり、レストハウスも席待ち1時間、オーダー待ち1時間も普通でした。入店は主に地元業者が選定され、メニューは一般的なものでしたが、明らかに里とは異なる大自然に手が届くようなところでラーメンを食べるのもおつなものでした。

Imga0161  町内外から人が流れ込み、公園も設備を増設し、キャンプ場としても人気の場所になり、かつ秘湯と名高い温泉へも十数キロという場所でしたからそれなりにリピーターも付いていました。その時勢の中、レストハウスの経営が思わしくなくなったのは、利用客が休日に集中し、平日に一般客を流入させることが困難な場所であったことでしょうか…

 営業は、公園に併設ということからオンシーズンのみでしたが、十数年後にはイベントが関わらなければ集客は困難な状況でした。ひとえにレジャーの多様化、そして最もダメージなのは地元の利用が減少していたことなのでしょう。第3セクター事業などにありがちな宿命。それでも地元の出店業者は充分健闘してくれました。その後新たな出店業者の公募となりましたが有効な打診にはめぐりあえなかったようです。

Imga0160  現在、公園も維持管理の面から再検討され、地元ネイチャー団体によって新展開しているようです。かつて、町民でにぎわったレストハウスは非常灯が点灯していることから建物としては生きているようですが、タイルや外壁塗装も剥がれはじめ当時の面影を残す周辺設備と共に静かに朽ちはじめているように見受けられます。

 前記の団体に関わって『自然学校』のようなものが催されたのか倒木で作られたオブジェたちがレストハウスのあちこちに座して寡黙な時間を過ごしています。
 ここにいた『マルタの男(侍?)』は聞こえぬ声でこの館の栄華を語る…。

 霧雨はいつのまにか雪。ニュースより早く見た雪は緩やかな風に舞いながらも、重く寂しい初雪でした…

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2007年4月 9日 (月)

モンドな神宮

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 すがすがしい青空。心地の良いそよ風。こんな天気の日は迷わずお弁当を持ってドライブに出掛けましょう。今日の目的地は真っ赤な鳥居と黄金の観音様!!!

Imga0278  道東自動車道を走っていくと途中の山間地帯で山の中腹辺りに黄金色の巨大な字母観音像が目に入ります。最寄の幹線道から向かうと農村風景の広がる中を山肌を縫うようにあっちだこっちだと走ることになるので迷いやすいかもしれません。
 ここは、その字母観音様眼下の温泉旅館付属のものらしく、集客に一役買っているようです。この観音様の参拝は自由ですが、そこに到達するまでの道の入り口がまず分かりづらい… 旅館の入り口にはタイガーバーム公園の仏像のようにカラフルに着色(頭が水色:剃髪部分にしては青すぎる)された『一休さん』がお出迎えします。

Imga0274  ここは、ラドン温泉も備えた地元の老舗温泉ですが主要温泉街とかけ離れた場所にあるため集客(客層)の方向性を変える一事業として建立されたようですね。ですから、この観音様のお膝元へ上がるためには、まず宿の正面に入ってから建物裏手へ回る道に入らねばなりません。この道も、砂利敷きで大雨の際、雨水の流れが路面をえぐったような跡もあり、軽自動車ではかなりきつい道でした。バスでもこの道は厳しいと思われます。

Imga0277  上まで登ると十勝平野の展望が広がる好スポットです。
遠巻きに見ていると、山肌に立っているため小さく見えますが、実に大きい!
でも、ここに来て見ると何か妙ですね。右に真っ赤な鳥居、左に字母観音像。
解説板に寄りますと『開拓先人と荒れ果てた世の建て直しのため、いずれの宗派にも属さない●野山霊●山寺の別院として建立(要約)』ということでした。でも違和感は否めません。稲荷とか密教とかごちゃ混ぜの民間信仰が体言化したようで…こういうところ、私は大好きです。この雰囲気と似たところは、あの『●の都』ですね。あそこの観音様はもっと巨大ですが。

Imga0275  観音様の足元にある小さな緑色の屋根の祠には、十二支に充てられた各仏様が祭られています。自分の干支のところでおまいりしました。
『素敵な廃墟と出会えますように…』
後日、ご利益があったことは言うまでもありません。
 中央の拝殿の中は50人は収容できそうな大きな仏間があり、祭壇下には木魚や綸子も見えます。ご神体は字母観音様とは異なります。無宗派とはいえ、何らかの型がありそうです。

 宿の案内には他の見所や宿のお楽しみと一緒に紹介されるこの観音様。そのやさしいお顔には『温泉とお参りとパークゴルフ』の構図は見受けられませんでしたが…

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2007年4月 8日 (日)

ドラッグ中毒

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※写真と本文は関係ありませんですよ…

 風邪をひきました。たぶん誰かから頂いたものです。インフルエンザではないようですが軽い頭痛が続いて、中途半端な微熱。首筋が重い。夜、布団に入るとやたらと咳が出てくる…決定的なのは覚えも無いのに関節が痛い。
 真冬は、体に防御能力が働くのか、めったなことでは風邪なぞひかないものを…

 仕方が無いので市販の風邪薬なぞ飲むことになるわけですが、この『風邪薬』というやつと、すこぶる相性が悪い。鎮痛剤とか胃薬とかは、何ら問題もないところを『風邪薬』となると規定量より減らしても激効きしてしまうのです。たぶん、成分的に相性が悪いものがあるんだな~と思います。だから製薬メーカーによっては良好なものもありますが、いつもの置き薬が切れると、つい薬のはしごをしてしまい、トリップゾーンに突入します。
 それが幻覚とか気分の高揚なら良いのですが、体がひたすら重く感じてきます。魂に体がもたれかかっているような気分で『頭が重い!腕が重い!足が重い!』で、ドベーっと横になっていると体がスライムみたいに自分の重さで部屋の中を液状に広がっていく気がしてくる…

 仕事中は、ドベーっと横になれないのでドラッグを抜くことになります。こんな宿命を負うのも今時期は中途半端に寒暖を繰り返すので体内時計が時差みたいなものを調整する機能の隙をつかれたんですね。手足が冷え性ぎみなので今日も1日、スキーソックスを履いて凌ぎました。

 とりあえず、今日のところは、お風呂で汗を出して、水分補給して寝ようかと思います。(今は4月7日午後9時)明日には元気になって(この記事の公開時間は午前5時)、予定どうり『はい!今日も廃墟巡礼』していることと思います。

 そうだ、みんな選挙には行くんだよ。間違って自分の名前を書かないように…

※不健康ネタを出すとカナブン師匠にまた怒られてしまうので、このへんにします。
 また、夢の抜け殻の中でお会いしましょう。

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2007年4月 7日 (土)

学舎の墓標

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 大正10年創立。昭和35年に中学校を併設。しかし、地域人口の激減により昭和46年生徒は、わずか6名となり近郊(といってもかなり遠い)の学校へ統合されました。十勝管内でも数少ない『僻地5級』。昨年、廃止された第三セクター『ふるさと銀河線』足寄駅より28.5㎞。最寄の駅はこちらもまた廃止された『タウシュベツ橋脚』で有名な『国鉄士幌線』の清水谷駅。ここからも5㎞の距離です。ここに向かう道のりは耕作地、雑種地(畑として機能していない)、育林地と変化していき、とても学校がこの先にあったとは思えない様子になってきます。このまま走れば隣町の国道へ合流することができますが、すれ違う車など皆無。『道を間違ったかな?』という気持ちが80%位になった頃に左手にいきなり校舎があらわれます。

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Dscf1715 この学び舎に至る道は一番近い家(廃屋)でさえ5㎞は、離れていました。閉校時は、まだ数件の家は残っていたのでしょう。近辺のほとんどが育林地で学校のグランドと思われる場所も苗木が植えられています。
 道も数箇所の待避所(道が狭くすれ違いのため避ける場所)を備えた1車線道路。これほどの条件ながら道は完全舗装で除雪路線でもあるようです。電線、電話線も通って何となく違和感があります。
 もうひとつ奇妙なのは、壁がピンクとベージュのツートンカラー。手近な塗料で間に合わせたのでしょうか?

Dscf1716  学び舎の中へ向かいます。(少し興奮状態)今年は雪が少なかったとはいえ、そこそこ積雪があるので道路側の一番近いところ(通用口の近く)から潜入開始。積雪の途中の層が暖冬のあおりで固くなって歩けそうです。上層は15㎝ほどありますが、こんなこともあろうとスノーボード用のパンツを着ています♪ と思いきや『ガスッ!』という感触で次の瞬間、雪面から頭だけ出ている状態。しばし目が点(・o・)/~~ 結構深い側溝に雪が吹き溜まっていたようです。気を取り直して雪中でうごめきながら通用口まで到達。やれやれ…

Dscf1717  中へ入ると…天井が高いですね。というより天井が無い…壁もプレハブの鉄骨がむき出しで、床もほとんど剥がされて山積みにしてあります。大正10年創立から考えるとこの校舎は二代・三代目なのでしょう。体育館は跡形も無く(利用価値があるとかで体育館のみが残されている学校のほうが圧倒的に多い)。教室と思われる1棟がこの育林樹海の中に残されています。それにしても学校というにはあまりにも痕跡がありません。廊下の残されている部分が唯一それっぽいのですが学校とは言いかねますね…。
教室だったと思われる現在、土間に数箇所焚き火の跡が残っています。林業関係が休息場に利用しているのでしょう。剥がされた床板などはその燃料として使われたと思われます。

Dscf1725Dscf1723  学び舎の痕跡を探そうと見回します。『あった』 非常口の文字。印象に欠けますがこれだけが痕跡と思われるものでした。大概、学校は廃校化しても子どもたちのいた感触は残っているものなのですが、ここは長年、風雪に晒され、すっかり抜け殻になってしまったようです。残念ながら内部を一回り見たあと、ここを後にします。


 また、ノコノコと深い雪の中を虫みたいに進んで道に戻り。校舎の外を撮ってから行こう教室の窓が見える位置に移動。

『あ…あれはー!』 またウネウネと雪の中を泳ぎ、校舎窓側へ何とか到着。

Dscf1727コンクリート製で既に風化が進んでほとんどの文字は読むことが出来ませんでしたが正面に確かに“こどもの会”の文字。素人臭くて少しいびつで斬新な感じの記念碑。これが創立を記念してか、閉校を惜しんでかは分かりませんが確かにここに学び舎があった証拠です。これを目にしたときに閑散とした教室の中から子ども達の笑い声が聞こえるような気がしました。この碑が、この学舎の在りし日を伝える墓標となってしまったのでしょう。

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2007年4月 6日 (金)

幻の公園 Ⅱ

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 公共施設で、これほどの失敗作はみたことがありませんが測量とか事前調査でこれほどの有様になるのは単に設計ミスというものではないのかもしれません。河川といってもこの付近だけに流れているというものでもありません。流域の町で何らかの治水工事があれば、水際の微妙なこの公園は簡単に水没してしまうのでしょう。

Photo_4  ここから下流へ下ったところの町に堰堤があります。川の水位を任意に上げて水田に水を引きやすくする設備です。これによって、流域の町では稲作が盛んに行われました。
 同時にこの堰堤に遡上してきた鮭が飛び跳ねて遡上していく光景が見られ、ひと昔前までは観光ガイド誌に載るほど地域の重要な観光スポットとなっていました。現在ほど北海道のような寒冷地向け品種があったわけでもなく、また近年の水田の減反政策によりこの地域の稲作は減っていきました。現在、管内で稲作を生業としている農家は無いでしょう。堰堤や水門は稲作在りし日々のなごりとして地域に存在しています。この堰堤付近の護岸工事、あるいは合流する他の河川のやはり、工事に伴う水位の変化、そういったものが関係しているのかもしれません。

 公園側面は波止場のように張り出した形になり、結構な台数の車が駐車できるように整備されています。夏場はここで花火を楽しむ人達もいますが騒ぎが高じて東屋の屋根に飛び乗ってみたり、ゴミの放置、川の水を汲んで洗車など、無法地帯化しているようです。
 本来の意図どうりに公園が機能していれば、あるいはこれほどの荒廃はなかったのかもしれません。

ジッと立ち尽くす東屋。 氷に囲まれて身を固くするベンチ。無秩序にはびこる雑草。
思い起こす古も無いままに、ただここに存在している公園…もうすぐその姿の大部分を再び水中に沈めていく。

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2007年4月 5日 (木)

幻の公園 Ⅰ

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今年の冬は雪が少なかったとはいえ、気温は氷点下。川の流れも緩やかなところはびっしりと凍っています。ひと冬に大雪という降り方が数えるほどのこの地方では、むしろ冬のほうが天候が安定して澄み渡った青空や本を読めるほどの月明りが比較的多く、朝晩の冷え込みはただ者ではありません。
 降る雪のほとんどは即座に川の流れに合流することなく、遠くの山々や近くの大地に寝そべったままです。
 一方、無休の川は絶えず流れ続けているため、供給がおぼつかず、途切れないまでも徐々に水位を減らしていきます。

 北海道遺産 『旧国鉄士幌線コンクリート橋橋梁群』路線の廃止と共に一時は忘却の彼方へ押し込められたアーチ橋たちは時代を超え、われわれに自然と調和したその在りし日の雄姿を今も見せてくれます。中でもタウシュベツ川に架かる通称『めがね橋』は糠平湖(ダム湖)の水かさが減る1月頃に姿を現し、もっとも水位の上がる10月には水中に没することから『幻の橋』と呼ばれています。

Dscf0616  この公園は『タウシュベツ橋脚』とは何ら関係ありませんが、ほぼ同様のペースで水中に没する困った公園。3本の川の合流点に治水公園として整備されカヌー発着場も備えたアウトドア公園ですが、結果として必要以上の水を引き込み増水期には東屋の屋根しか残らない有様になってしまいました。
 始めて見つけたときから10年以上経っていますが改善の様子はありません。国道沿線にあるとはいえ、河川公園の端の方へ離れているため地元の人しか知らないでしょう。1月の減水期にはこうしてベンチや本来の遊歩道が姿を現し、ロマンチックというより惨めな姿を晒します。
Dscf0614  合流する3つの川の流れてくる方向が異なり、圧倒的水量の2本の川に残りの1本が負けてしまっている風なのでこの公園にも必要以上の流入があり、かつ淀んでしまったようです。状況は「タウシュベツ」と似ているのになんともかわいそうです。
 近くにある案内板も「なりきれなかった感」をかもしだします。

 増水期には東屋の屋根しか残らず、普通に写真を撮ると、誰もが『洪水?』と思うことでしょう。実際、ここからカヌーを出したところはお目にかかったことがありませんが、特に利用禁止にはなっていません。ただし、この先の本流は1級河川の流れなのでカヌー初心者には危険とも思われます。
(カヌーのことは詳しくないですが)

 過去の栄華に縁のないこの子の「一生懸命がんばったのにうまくいかなかったよ…」という声が聞こえるような…そんな気がしました。本来の計画通りならカヌー愛好者でごった返しただろうに。

Map

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