大正10年創立。昭和35年に中学校を併設。しかし、地域人口の激減により昭和46年生徒は、わずか6名となり近郊(といってもかなり遠い)の学校へ統合されました。十勝管内でも数少ない『僻地5級』。昨年、廃止された第三セクター『ふるさと銀河線』足寄駅より28.5㎞。最寄の駅はこちらもまた廃止された『タウシュベツ橋脚』で有名な『国鉄士幌線』の清水谷駅。ここからも5㎞の距離です。ここに向かう道のりは耕作地、雑種地(畑として機能していない)、育林地と変化していき、とても学校がこの先にあったとは思えない様子になってきます。このまま走れば隣町の国道へ合流することができますが、すれ違う車など皆無。『道を間違ったかな?』という気持ちが80%位になった頃に左手にいきなり校舎があらわれます。
この学び舎に至る道は一番近い家(廃屋)でさえ5㎞は、離れていました。閉校時は、まだ数件の家は残っていたのでしょう。近辺のほとんどが育林地で学校のグランドと思われる場所も苗木が植えられています。
道も数箇所の待避所(道が狭くすれ違いのため避ける場所)を備えた1車線道路。これほどの条件ながら道は完全舗装で除雪路線でもあるようです。電線、電話線も通って何となく違和感があります。
もうひとつ奇妙なのは、壁がピンクとベージュのツートンカラー。手近な塗料で間に合わせたのでしょうか?
学び舎の中へ向かいます。(少し興奮状態)今年は雪が少なかったとはいえ、そこそこ積雪があるので道路側の一番近いところ(通用口の近く)から潜入開始。積雪の途中の層が暖冬のあおりで固くなって歩けそうです。上層は15㎝ほどありますが、こんなこともあろうとスノーボード用のパンツを着ています♪ と思いきや『ガスッ!』という感触で次の瞬間、雪面から頭だけ出ている状態。しばし目が点(・o・)/~~ 結構深い側溝に雪が吹き溜まっていたようです。気を取り直して雪中でうごめきながら通用口まで到達。やれやれ…
中へ入ると…天井が高いですね。というより天井が無い…壁もプレハブの鉄骨がむき出しで、床もほとんど剥がされて山積みにしてあります。大正10年創立から考えるとこの校舎は二代・三代目なのでしょう。体育館は跡形も無く(利用価値があるとかで体育館のみが残されている学校のほうが圧倒的に多い)。教室と思われる1棟がこの育林樹海の中に残されています。それにしても学校というにはあまりにも痕跡がありません。廊下の残されている部分が唯一それっぽいのですが学校とは言いかねますね…。
教室だったと思われる現在、土間に数箇所焚き火の跡が残っています。林業関係が休息場に利用しているのでしょう。剥がされた床板などはその燃料として使われたと思われます。

学び舎の痕跡を探そうと見回します。『あった』 非常口の文字。印象に欠けますがこれだけが痕跡と思われるものでした。大概、学校は廃校化しても子どもたちのいた感触は残っているものなのですが、ここは長年、風雪に晒され、すっかり抜け殻になってしまったようです。残念ながら内部を一回り見たあと、ここを後にします。
また、ノコノコと深い雪の中を虫みたいに進んで道に戻り。校舎の外を撮ってから行こう教室の窓が見える位置に移動。
『あ…あれはー!』 またウネウネと雪の中を泳ぎ、校舎窓側へ何とか到着。
コンクリート製で既に風化が進んでほとんどの文字は読むことが出来ませんでしたが正面に確かに“こどもの会”の文字。素人臭くて少しいびつで斬新な感じの記念碑。これが創立を記念してか、閉校を惜しんでかは分かりませんが確かにここに学び舎があった証拠です。これを目にしたときに閑散とした教室の中から子ども達の笑い声が聞こえるような気がしました。この碑が、この学舎の在りし日を伝える墓標となってしまったのでしょう。
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