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2007年3月29日 (木)

恐竜牧場

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 地球上最大の肉食恐竜
『ティラノサウルス=レックス』。ここの牧場で飼育しています。どのくらい大きいかというと、普通の2階建ての家より大きいです。

 本当はここは『ダチョウ牧場』。ちなみにここは北海道ですが、アフリカにいる鳥がどうして北海道に?というところですが、以外に気温には順応しやすく、中国辺りでも家畜として飼育されているそうです。現在、北海道内でも数箇所、ダチョウを飼育する牧場がありますが、観光部門も充実しているところは私の知る限りはここだけです。

 こちらの恐竜は、牧場開設者の現会長が飼育指導を受けに中国にわたった折にこのような模型を作る会社を見かけて購入。この、ティラノサウルスは船便で3つのコンテナに分かれて輸入したファイバー製です。下に立つと膝のあたりにやっと手が届く程度です。近くに来るとまず目に入るので便利です。

Dscf2342  観光部門はダチョウのほかエミュー、七面鳥、ヤギ、ポニーなどがいて、ダチョウの試乗(体重60キロまで)もできます。商品はダチョウ肉、卵はもちろんのことダチョウ原料のジャーキー、餃子、焼肉などもあり。食べてみると鳥というより味に癖の無い牛肉的感じ。HPから通信販売も受付けています。でも部位によっては人気があり、すぐ売り切れることも。

Dscf2344  こちらのログハウスは現会長が業者に見積もりを立てたところ凄く高かったので、自分で製材マシーンを開発、地元産材を使い建てたものです。牧場長は、牧場経営のかたわら、ダチョウの調教、製品製造、建築、家庭教師(!)、HP管理、絵画(画家の美術館受講生)もこなすバイプレイヤー。笑顔の似合う顔つきからはそんな多才ぶりが分からないほどの素敵なお兄さんです。

Dscf2337  それにしてもダチョウ大っきいなー。こんな身近で雪のあるところで見るのは不思議な感じがします。恐竜もいて不思議ワールドなこの牧場。年に数回いっています。
 前に読んだ本で『恐竜は滅んでいない』というのがあり、恐竜の骨盤の形と足の関節の付き方、羽毛の痕跡のある化石の発見などから恐竜は気候変動を鳥に進化することで生き残っているという説があって、そこから考えるとここの恐竜はあながち無関係ではありませんね。

ダチョウ牧場オーストリッチファーム・クロダ

 今年度の観光部門はGW辺りからです。できれば長靴持参が良いですね。(雨上がりだと靴が汚れるので)

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2007年3月27日 (火)

ラ・セーヌ

Snuck

 郊外を走っていると時々見かける『廃バス』。物置や休憩所に使われているものがほとんどです。看板が分かりにくいですがこちらは『Snackセーヌ』
 現役時、車両として生きていれば、洒落た穴場だったのかもしれません。高台とか展望台で開店すれば、グラスの琥珀色ごしに遠くの夜景を臨むのもおつなものでしょう。
 それだと、どこで開店しているか分からないからダメか…ミステリー列車みたいで良いと思いますが。じゃ、玄関口まで迎えにきて頂いて…というのも屋台くさくて『セーヌ』のイメージではないですね。
 なおかつ、運行中だと悪酔いしそうです。なるべく前のほうのボックス席で外を凝視しながら飲まなければなりません。カラオケの歌本をじっくり見るのもご法度です。酔った勢いでマスター(運転手)にちょっかいを出したり、ゴチしたりすることは自殺行為です。
 良い酒の飲み方ができたとしても入店時に整理券をとり忘れるとチャームを始発からの分で払わなければならず、痛い出費になるので気をつけねばならない。また、業務連絡は全て末尾に『オーライ』をつけるのもお約束です。

 だんだん話が脱輪していくのでこのあたりでバスストップです。
色々いいましたが、よりによってこちらは幼稚園バス。しかも幼稚園自体は現役なのでスナックとはえらい飛躍です。
Photo_3 『ママー、園バスにパパが乗ってるよー』
『じゃあお出迎えしましょうかね……』
『マスター!ボトル入れるから、もっかい回ってー!』

…脱輪どころかパンクしそうです。

 店内はどうなのだろうとドアを押してみましたが既に錆付いて開ける事ができませんでした。側面に回って少し開いた窓からデジカメ越しに中の様子を伺うと…

 閉店時、常連のお客様がボトルと一緒に備品まで引き取ったのか、なーんにも残っていませんでした。ここは廃農場の一角、閉店の原因は人里離れ過ぎたから…?

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2007年3月26日 (月)

荒っぽい追悼

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 となり町に史跡を散りばめた私設の自然散策公園があることを知り、行って見ました。
私設とはいえ、山林の中に設けられた山道の長さは凄いもので、全て回ると1日はかかるであろうと思われます。
 無料で公開されているとはいえ、散策路の途中が明らかに管理者の自宅の庭先を横切るように設計されているのは、歩いていてちょっと後ろめたい感じもします。
 この公園。その途中、途中に管内の歴史的な資料が展示(野ざらし)されています。そのいくつかは追々に紹介していくこととしまして、まずそのひとつです。

 『馬の碑』というのがありました。開拓に貢献した道産子馬のために建立された獣魂碑の類だと思いましたが趣は随分異なるようです。

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 『アオ』の壮絶な生涯ですが、利口というより『ア●』という気がしないでもありませんし、その後の近所の追悼も強引な感が拭えません。

 十勝開拓の初期、晩成社の依田勉三という人が詠んだ『開拓の始めは豚とひとつ鍋』という句があります。開拓初期は凶作続きで蓄えの食糧も底をつき、豚と同じものを食べてしのいだという意で、その開拓生活の厳しさを物語っています。(別解釈で『開拓地に渡るために全財産を投げ打って豚と鍋ひとつしか残っていなかった』というのもあります。)

 今ではほとんどが家畜の飼料の燕麦(オーツ麦。カラス麦ともいう)も当時は人の主食となることも多く、馬の分まで回ることはあまりありませんでした。(以外にもタンパク質、ミネラル分など栄養価は高い。でもオートミールはおいしくなかった…)
 そんな時代、馬にとっては贅沢なものをお腹が破裂するほど食べられた『アオ』はある意味、幸せだったのかもしれません。

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2007年3月25日 (日)

マザーグースの学校 進学

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 ここはサンダーバードの基地。
ではなくて、前回の小学校から2キロほど南へ行ったところにある中学校です。

Dscf1201  昭和22年創立、この校舎の落成が昭和37年。昭和53年に新設中学校に統合され30年の校史に幕を下ろしました。
 閉校時の生徒は26名。昭和43年頃から距離競技スキー(トライアスロン?)を部活として取り入れ、閉校まで各種大会の常連入賞していたそうです。

 現在校舎は地域の農機格納庫となっており、施錠中でガラス窓の隙間から様子を伺うも存校時の面影はあまり見えませんでした。校門も残っていますがこの日は雪に埋もれていました。グランドは現在、近郊の道路工事の土場になっています。
 何か存校時の面影はないかと周囲を探してみました。(体育館は前回までの小学校へ移築済み)唯一、校舎の裏側に見つかったのがトイレ。

本来は校舎と渡り廊下で繋がっていましたが、現在分離されています。Dscf1206  このトイレも地盤凍結による凍上か、校舎と切り離したときに重機で壊されたかして、床が危なっかしくなっています。学年、教員・来客用と別けられていたようです。

Raihin  閉校ではなく、統合であることからか閉校に関わる記念碑などは作られていないようです。小学校や高校と違い、学歴の途中経過の感が色濃く、集いの場所という感覚が希薄になってしまうのか中学校は閉校後、跡形も無く消えることも多いようです。この時期の生徒たちが一番、多感だというのに…いずれにせよ器だけでも残っているのが救いなのかな?

 ここへ向かう前に同じ学区の小学校(前回までの小学校)で、犬がしきりに合掌していたのは、この学校に対する弔いだったのかもしれません。(なーんてね)

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2007年3月24日 (土)

マザーグースの教室 卒業式

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 小学校を卒業して久しいので、廊下の白線が妙に懐かしく感じます。『綱渡りだ!』とか言ってホイホイ歩いていたことを思い出します。バッファロー(バイソン?)が『右側歩け!』とにらみつけます。(怖い) 奥に見えるのはススキで作られた『繭玉』みたいなもの。創作意欲に改めて感銘します。

Dscf1185  正面入口の玄関脇に大きな水槽、高さだけでも1メートルは超えますね。子ども達が当番で管理していたことでしょう。ウサギやニワトリなどの小動物園もありましたし、17名の学校となると、ほとんど係ではなかったかと思います。当然夏休み中も通いです。それだけに、ここから巣立っていった子供たちの責任感と命に対する考えはしっかりしていたのではないでしょうか。
 オタマジャクシとかザリガニをクラスで飼育していた記憶はありますが、これほど大きな水槽だとニジマスとかヤマメだったのかな~

Dscf1191  この冬は雪が少なく、十勝管内でも比較的雪の多いこの地域、いつもの冬ならば屋根の上に1メートル位の積雪もあるそうです。校舎も徐々に老朽化して屋内の数箇所に雨漏りの跡もあり、越年の変化も否めません。過疎、少子化の象徴である『廃校』。訪れる先々で存校時の面影が多いほど、寂しさも心の中に雪のように積もります。でもこの学び舎の中にはまだ、熱いものが脈々と存在しています。 また近いうちに…

 こちらは作家の工房で通常、一般に公開されているものではありません。管理人の方はすぐ近くの教宅にお住まいです。
 突然お伺いした私に快く内部を見せていただきましたことに心より感謝致します。近いうちにまた訪問できればと願っております。

 『マザーグースの教室』 ひとまず卒業

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2007年3月23日 (金)

マザーグースの教室 CLASS-C

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『体育館がふたつですか?この時期の学校でそれは珍しいですね。』
『やはり、さっきの体育館では狭すぎたらしいですね。地域会館にも利用されていたようですが…』 地域有志の間で作られたもので技術的に高い建物は難しかったというところが真相かもしれません。

Dscf1181  この工房は、廃校当時のまま受け継がれていたため、学校の備品、掲示物、卒業記念作品なども豊富に残り、存続時の子ども達の影が見え隠れしてとてもいい感じです。
 どこの学校でも『学校の怪談』ネタでありがちな音楽室の大作曲家の肖像もしっかり残っています。こちらは現在、楽器の変わりに木工マシーン(バンドソーまである、かなり玄人レベルの設備)が創造の音色を奏でています。その音色が必ずしも美しいものではありませんが…

Dscf1184 『こちらが新しいほうの体育館です』 
『これは懐かしい構造ですね。私の通っていた学校も構造的にほぼ、同じですよ。』
『ここは、近くの廃校になった中学校から移設されたものなんです。』
『あ~なるほど…それでふたつになったんですか!』 校史の意外な一面です。

 この学び舎は、地域住民の労力奉仕が積極的で、小動物園、炭焼き用の釜、フィールドアスレチックなども作られ、昭和56年にはソニー教育振興財団から優良校受賞(ソニー賞)を受賞したこともありました。閉校時の生徒数から考えると運動会は地域住民総参加型の年中行事だったのでしょう。小規模校にはありがちな形ですが地域一番の行事には違いありません。
 今、この体育館には大量の解体材が積まれています。そして情熱的な校長先生によって生まれ変わりを待つ優等生なのです。『廃』の冠をいだきながら壊された廃材はその紋章を【廃→High】へと変貌させる。単にリサイクルなんて言葉で片付けたくない。そう思いました。

 夜になると窓から差し込む月灯りに紛れて固い体をコキコキ鳴らしながら古材ジャングルやグランドを歩き回る動物たち。そんな絵を想像するとどこか“不思議の国のアリス”の世界みたい。そんな気がしました。

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2007年3月22日 (木)

マザーグースの教室 CLASS-B

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『おお~っ!カバ!』これは凄い!ほとんど実物大ですよ!これで構造がほぼ理解できると思いますが解体材を寄木風に集めているんですね。前回のにわとり先生と子ども達も一体一体すべて同じ構造です。物も凄いが作風も凄い。しかもその接合に木ネジも使っていますが全てネジの頭を1段中に下げて、木のくさびで蓋をするダボ処理(ネジの頭を隠すため)というのを施しています。

Dscf1170  思わず本筋を外してしまいそうですが、気を取り直して校内を案内していただきます。
正面の入り口、生徒が出入りしていた玄関は雪に埋もれていて校門側に近い通用口から入りました。
 廊下の照明が丸いペンダント式(吊るし)で珍しいですね。良く見るのが蛍光管2連のペンダント式が多いので学校というより、病院風な感じを受けました。
 真っ直ぐな廊下、走りたくなってきます。開校時だったら生活委員のチェックは免れないでしょう。下校時には職員室に呼ばれます。白い壁、薄いグリーンの天井、サーモンピンクの建具、安心感のある配色です。

 体育館に来ました。『おや?変っていますね』天井が低くてバレーは無理!バドミントンなら何とか…という印象。据付のステージは柱があって何だか旅館の宴会場のような気がします。壁には何やらサインがたくさん…
 『数年前、村と交流している町の交流少年団が来村したときに宿泊する場所の確保が間に合わず、数日間、ここを利用したんですよ』 なるほど、でもその子たちもここを見てびっくりしただろうね。何となくそのときを想像すると自分のものでもないのに悪戯っぽい笑みが浮かんできます。ここは現在、完成した木工家具が並べられています。

『向こう側に、もうひとつ体育館がありますよ。』
『えっ?体育館がふたつもあるんですか?』 

続きは明日、“Class-C”に移動します。

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2007年3月21日 (水)

マザーグースの教室 CLASS-A

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 こちらはグース(ガチョウ)では無く、レグフォン(にわとり)です。でも現実と夢幻のおりなす不思議な雰囲気のひろがるこの学び舎から『マザーグースの教室』と名づけてみました。

Dscf1169  この学校はS村の西端、日高山脈が間近に迫る丘陵地で自然のロケーションも素晴らしい土地です。平坦な十勝平野の中でも適度な起伏が連なり自然の偏重的リズムが織り成す中、酪農家が点々としているのどかで牧歌的な風景です。
 ただ、現実は風景と共存的だったわけではなく、この学び舎は平成を迎えることなく、昭和59年に56年の校史に幕を閉じました。
 昭和3年創立、1,010名の卒業生を送り出しましたが閉校時の児童は17名。ここと同時代の学校建設はそのほとんどが教員住宅を含め、父兄の手で行われていていました。
 農業人は意外と何でもこなすバイプレイヤーなのです。ただ現在のような鉄筋数階建ての形では、さすがに玄人仕事になりますが平屋のブロック積みはお手の物だったようです。ただ、本業と平行しての建築はその労苦は計り知れないものだったでしょう。だから、閉校止む無しとなった時の無念さは実際にその学校で学んだ子ども達より感慨深かったでしょう。ですからこの学びの地に立つ閉校記念碑は、学び舎に関わる全生徒と全職員の名が余すことなく刻まれているのです。

Dscf1168_1  幾年か後、この学校に3人の新しい校長先生がやってきました。今まで紹介してきた学校と違い、ここの先生は役目を終えた木々たちに新しい命を吹き込むバイプレイヤーの、言うなれば『魔法学園』だったわけです。
 朽木、枯れ木、枯れ草、解体材、倒木など一風景、一時代を生きた木々たちに不思議なエッセンスを使って生まれ変わらせる、そんな学園です。
 そこは、木々たちの前世、来世を予感させる命の工房。そこに集まる一塊の大自然の躯が無限な可能性を持って語りかけてきます。

 この学校に訪れて、校地内で生活する校長先生の一人にお願いして、前時代と現時代の交差する不思議な校内を案内していただきました。

 続きは、また明日…

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2007年3月20日 (火)

イーハトーブの化石

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 三寒四温なんて言葉がよく聞かれる今の時期。日中は気温のプラスになる日も珍しくない。(北海道の話ですよ。)道は氷がとけてすっかり舗装が露出して、路肩に積もった雪山もギザギザな形に溶けていく。雪解け水が排水溝に流れ込む音も久しくご無沙汰な『せせらぎ』のようで癒されるような気がします。

 昼休みの時間、小春日和の街中をぽてぽてと歩いて、街中の公園にいってみました。
今年は暖冬で雪が少なかったとは言え、園内にはまだ雪がたくさん残っていています。その雪もシャーベット状になっていて、露出した芝面を過剰に潤し、歩くのには少し厳しい。

Dscf2126  何やらカサカサと音がするほうを見ると『エゾリスだ!』四方を厚い建物群に囲まれたここにもエゾリスは生きているんだなーっと少し感動。昨年のクリスマス時期ころから園内樹木をライトアップして夜間の幻想的風景を現出させていたここも照明器具やらが無造作に散乱し、その影からエゾリスが数匹行ったりきたりしていた。こいつらもしばらく人と出会っていないのか平気で近くをチョロチョロしている。

 他には、まだ雪に埋もれているベンチ、水の代わりに雪で満たされた噴水、ゴミだらけの東屋、何やら大きな庭石みたいなもの… んっ?何か書いてある?

 読んでみると、宮沢賢治による文らしいです。緑色の大きな自然石に実にあっさりと彫られたこの文章。

Dscf2124   ああ ここは
    すっかりもとの通りだ
  木まで
    すっかりもとの通りだ
  木は 却って
    小さくなったようだ
  
みんなも遊んでいる
  ああ あの中に
    私や私の昔の友達が
  いないだらうか

よその公園林について書かれたものからの引用のようですが、この石の中で宮沢賢治の言葉が永久不変の化石となって、回りの木々や人の変化を静かにそして刻々と記憶している…そんな気がしました。

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2007年3月18日 (日)

秘密の公園

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 『この辺りにファミリースキー場が作られるんだ』という話を昔聞いたことを思い出し、何か残っているのかな?と探してみました。
 ところが記憶と風景がすでに一致せず、見えるのはどう見ても林道入口ばかり…とりあえず見通しのあるところまであがってみようと数十メートル上がった先が人工的に拓けている。

Imga0169_1  『ビンゴ!…あれっ?』 果樹園のように等間隔で植えられた木々。中ぶりな中島を持つ池がある。ボートが1そう裏返しに伏せてある。回りには回遊路があって途中の山側に小さなせせらぎがあって、『第1の滝(本当に小さな滝、3か所ほど)』と表示板も立っている。

 コテージ風の小さな建物あって、これも利用されている雰囲気は見えない。ただ、その脇で水道が勢い良く出しっぱなしになっている。

Imga0170_1  最大の特徴は、ブロンズ像が数基、園内にあること。冷たい雨が降る中、静かに佇んでいます。

 後日、地元の知り合いなどに聞いてみるが、誰も知らない。町史・広報誌、ネット検索で調べても出てこない。仮説として私設公園の線を考えましたが自然保護対象地域になっているこの地でこれだけのものを作るのは現在可能だろうか…
 道をはさんだ反対側の自然公園のサブ施設としてオープンしたが本体の営業不振で休業中というのが今のところもっともらしい推理ですが。
 手入れ(草刈など)されているような、されていないような…明日になったら無くなっているんじゃ?というふうなちょっとした異空間。

 泉で舞い踊る乙女はボツボツと降りしきる雨の中、少し複雑な表情をしていた。

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バンザイと牛乳 ②

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 Y君とは、親が同じ常会同士。小学校併設の保育所の頃からいっしょでした。とは言え、この広い北海道では隣の家までもそこそこ距離があります。Y君の家は数件隣という距離なので地元風に言うと数キロ。車なら10分程度の家でもまだ、自転車も乗れなかったねこんには地の果てと同じ印象の距離。自転車をまるで軽業師のように扱う兄(そう思っていました)なら難なく行けたのにマイペースな彼は面倒がって連れて行ってくれることはありません。
 まれに父の用で一緒に行ったこともありましたが、そんなときに限ってY君は留守(入院していた)で残念な思いもありました。

Dscf0669  夏休みのある日、朝からY君の家に行くことになりました。何だかウキウキして、ポケットにはY君に見せようと大事な宝物(畑の脇で見つけた散弾銃の薬きょう!よりによって…)を忍ばせて勝手に軽トラに乗って待っていました。
 Y君の家には人がたくさん集まっています。今まで見たことも無い幌付きの大きなトラックが2~3台。『なんだろう?』
 Y君はちゃんと家にいて、満面の笑顔で『いらっしゃい』と行ってくれた。(今、考えると上品な言葉使いをする子だった) 招き入れられて家に入るとあまり物がなくて、何だかガラーンとしている感じ。大人だけがせわしなく動いている。

 『今日でお別れだね…』でも、その言葉の意味はよく分からなかった…
 大事な宝物を見せてみた。 『凄いもの見つけたね。大事にしなよ。』本当はY君にあげようと思っていたけれど何だか渡しそびれてポケットの中に押し込んだ。
Y君の兄は、ツンとした顔で覗き込んでいる。

Dscf0673  父に呼ばれて外に出た。近所のみんなが1ヵ所に集まっていて、気がつくとY君の一家4人が家の前に並んでいる。
 良く分からない大人の話が長々と続いて、ある大人が凄く力の入った話をしたあと『バンザーイ!』と大声で叫んだ。間髪入れず回りの大人も『バンザーイ!』つられて自分も力なく両手をあげた。Y君一家は大きなトラックに乗り込むと先頭の車から出発しだした。
 Y君に聞きたいことがあったのだけれど大人の影になってY君の顔すら見ることもできず見送った。『夏休みが終わったら聞こう…』そう思っていましたが、これが最後。

 『離農』を間近に見た経験です。この後、数年間同じことが数度ありました。
だから『バンザイ』はとても寂しい気がしてきます。今は身近なところでは結婚式でしか聞きませんがそういう時、場の雰囲気とは別の方に心が向かうのは、こんな経験のなせる業かもしれません…

 Y君の引越し先は、以外に近い所だったかもしれません。親戚筋も近くにはありますし。
でも、いまだに再会はありません。というか、会おうともしなかった。記憶はあの頃のまま、解凍されることを望んでいないのでしょう。

数十年ぶりにこの家に来て、何か思い出せるかなと期待しましたが、記憶に家のこと自体はあまりなかったようです。

『Y君ごめんね 牛乳は飲めるようになったけど、今でも嫌いなんだよ』
そんな罪悪感があったから、会えなかった…?

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2007年3月17日 (土)

バンザイと牛乳 ①

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 『牛乳飲めたんだね、おめでとう!』

今も記憶の底から聞こえてくる言葉… そして、あの笑顔。

Dscf0671  当時、小学校1年生。通っていた小学校は、4クラス…勘定が合わないではありませんか。 それというのも一部が複式学級制で、1-2年・3-4年で1クラスづつ。それでも二学年合わせて12人、学校統合時には全生徒数28名という小規模校。それでも学校が淋しいなんて気持ちは全然なかった。始めっからそうだったから…

 当時、牛乳が大っ嫌いで給食に出たものはもちろんのこと、家でも飲んだ記憶がほとんどありません。しかし、給食委員という使命感に燃えた子(上級生)がいて、『●●ちゃん、残したら昼休み遊ばせないからねっ!』と言われるのが辛くて、机の上の嫌いなものとジッと睨んで時間が過ぎるのを待っていました。「これを飲むくらいなら遊べなくてもいい!」と決めていたからです。

Dscf0672  家が酪農家なのに牛乳が嫌いなのかい? というところですが、肉屋さんの子が日常的に枝肉を見ていたら食べられなくなったみたいなもので、牛舎の牛や堆肥や消毒液などのミックスした匂いと牛乳の味が記憶の中で関連づいて、ダメだったのです。親は必要以上に無理強いはしませんでしたが、給食委員長はそれを許さず、目の前に腕組みで仁王立ちしていたのでした。今ではアレルギーとかの関係でそんなことはしていないでしょうがね…
 こちらは頑として拒否していたので、飲まずにはいられましたが、そのおかげで給食の時間が苦痛で、いつしか給食の他のものも食べるのが苦痛になり、家でも食べなくなり、ちょっとした拒食症というのになってしまったのです。全ての原因を給食委員にするのは少し筋違いというやつですが、その結果として極度の栄養失調と神経衰弱(?)から激しい脱毛症になってしまったわけです。
 回りが気を使ってくれたので、当時の写真などは一切残っていません。

Dscf0668  こんな私を母も心配していて、それがヒシヒシと伝わってくるのを感じて、「このままじゃいけないな」と考えたわけです。

 1学年上の男の子、Y君は体の弱かった子で心臓の手術をしたこともあったそうです。そのため、顔色はあまり良いとは言えず、でも表情の明るい子です。
 もう、完全に匙を投げた給食委員も私には無関心。必死に大嫌いな牛乳を飲む私。誰もこの努力に気がつかない…(かえってそんな自分を見られたくない気もしていた)

 ひとり、気がついていた。Y君がスタスタッとやってきて、満面の笑顔で冒頭の言葉…
 『牛乳飲めたんだね、おめでとう!』
 ドッと涙が出てきた…     (つづく)

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2007年3月 5日 (月)

ひとりぼっちの十代

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 なにか身につまされました。ベイシティローラーズが懐かしいとかではなく、これだけのものがここにあることに。
 ここは、線路どころかバス路線もない離農の進んだ過疎地域。あと数キロ車で走れば北海道内でも屈指の『僻地五級』レベルの学校があり、(既に廃校)人家はここと同じく廃屋のもう1件がある、ほとんどの畑も荒廃した荒れ野の地域。町内の市街へいくのも車がなければ無理です。
 BCRといえば主に70年代中期─80年代前期の間まだ日本に爆発的アイドルが存在していないころに活躍した英国のロックグループ。「エジンバラの貴公子」と称されていました。折りしも時代は骨太なハードロック、グラムロックなど、重厚なサウンドを人々が欲しだしたとき、日本ではアイドル的要素の強さでは追随をゆるさなかったと記憶します。

Dscf1697  背景として、キッスやエアロスミス、イーグルスなどの円熟期でもありました。ただし、今のように音楽ビデオなどが見られたわけでもなく、ライブに行けないとなるとラジオと雑誌とレコードだけが自分の憧れとの接点でありました。
 その接点も地域の商店事情から察すると、情報の乏しさから生まれる意識の地域格差は、都市とは雲泥の差があったことでしょう…

Dscf1704  ごく普通の一軒平屋。戸口が風で打ち壊され獣の類が出入りした痕跡もある廃屋。残された物量から察すると、あるいは事情で一次この地を離れたが…という雰囲気です。居間のカレンダーから推測して廃墟年齢およそ23年。すでに床も抜け落ち始めている。

 この部屋にいた彼女は、多感な時期にはかなり過酷なこの地においても夢を見ることはできたのでしょう。そして、この地を離れることになって夢はかなり近いものになったのかもしれません。夢の方向も変って当然。
Dscf1699  ただ、彼女がいつしか自分の夢を思い返すとき、その材料を遠くに、あまりにも多く残してきたということが少しいたたまれないですね…
 ドアの小窓、BCRの象徴のタータンチェックの端切れに綺麗に並べられた缶バッジ。うっすら色も抜けてきています。このドアの向こうに20数年もの間、夢の本質が封印されていたはず。でも、その夢を開放するのは、この部屋の主だけという気がして、そこはそのまま家を後にしました。BCRのナンバー『ひとりぼっちの十代』。山間の荒野に今はその曲がぴったり。

 ある映画のコピーでこういうのがありました。
『夢は見るもんじゃねぇ!叶えるもんじゃい!』

それは間違い…夢は育てるものだ、と私はそう思います。

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2007年3月 1日 (木)

静かなカーニバル

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 この学校は昭和63年の春、周辺の数校と共に新設校に統合して子ども達は全て学び舎を去りました。卒業生574名、閉校時の児童数33名、校史69年の学び舎『中伏古小学校』現在の校名は『画家の美術館』

Dscf1514  現在の校長先生は、村元美海(むらもと はるみ)氏。元。教職の身で画家と校長の二つの顔を持つ方です。でも、ここを訪れると先生のもうひとつの顔(本当の顔)に気がつくことでしょう。それは『大好きだったおじさんのイメージ』っていうのでしょうか…
 「画家」という肩書きの先入観で訪れると非常に脅かされます。「あー!良く来たな!」といった感じでまったく屈託がありません。

※美術館の詳細については、上記の『画家の美術館』名リンクから同美術館のHPに入れますので、ここでは、ねこんの印象を書きます。

 現在この学校の生徒たち、それは村元先生とその父君、故村元俊郎(むらもと としろう)氏が生み出した絵画の作品群。静かな教室、体育館、特別教室、職員室…あちらこちらから賑やかに見つめ返してきます。
 絵を鑑賞に来たのか、見られに来たのか、大小含めてその膨大な作品群に圧倒されます。そしてここが子ども達の見慣れた場所『学校』であることで、こちらも妙に肩に力の入らない素直な鑑賞ができます。

Dscf1518  絵画は目で見ると同時に心で感じるものである。
 なぜならば、画家は自身の心をその腕を持って白いキャンバスに定着する術を知っているから絵画もまた、心が現出した存在で対面する者の心に容易に入り込めるからです。
 人は全ての生き物がそうであるように『食』の中から生きる糧を得ています。ただ、唯一人間は「見ること」「聞くこと」などからも生きる糧を得ることができる。ただし、全ての人がバランスの良い「糧」を得ているわけでもありません。普段の食生活のように偏ってくると「心」もバランスを欠いて来るのかもしれません。心にも「野菜」や「ビタミン」が欲しいものです。

Dscf1529  それにしてもこの作品たちはカラフルですね。こういう絵を描く先生だから笑顔も素敵だなと思います。反面、これだけの作品を量産し続けるバイタリティは「画家」の称号が正にふさわしい。
 子ども達がボール遊びをした体育館に大判の絵画がならんで心の玉が飛び交わせ音の無い静かなカーニバルが繰り広げられます。
 学生時代、油彩絵の具の香りが不快だったことを思い出しますが、それすら心地よく感じられるような…
Dscf1517  かつて集った「夢見ること」を教えられた子ども達の歓声や感動が染み込んだ校舎の中で今は、この作品たちが代わって『夢』を伝えてきます。
 誰もまだ『夢見る頃』をすぎてなどいないのだよ…とでも語りかけてくるように…

 訪問の際、ここは基本的に入場無料となっていますが、この学び舎を維持していくためにも校内の「カンパ瓶」に志のカンパをお願いします。

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