学校前の家
「家が学校前なら良かったよ…」
小学校に通うのが苦痛でした。
別に成績が悪いとか、いじめられてたからでもないし、先生が怖かったわけでもない。
むしろ先生は好きでした。
小学校に上がって始めに通った学校は、家から1㌔ほど離れていて
その道の長く感じたこと。
道の両側には、歩けれども変化の無い畑の風景
数えるのも飽きてしまった電柱
遠くの景色をさえぎるように壁を作る落葉松の防風林…
大人になってから知り合った北海道外から移住してきた人がこんなのとを言っていた。
「車でいくら走っても景色に変化が無いのはつまらないよね」
そう、そのとおりだよ。
広い景色だからって癒されることばかりじゃないと思う。
保育所へ通っていた頃は、父か母が車で送ってくれたから、あっという間に後へ飛んで行く景色のことなんか考えることはなかった。
家の前から大きな幹線までは砂利道だったので、
石ころを蹴とばしたり、薄氷をパリンパリンと踏み歩いたりできたのに
交差する道に入ると途端に無機質な舗装の道に変わる。
学校が街の方と統合になり、スクールバス通学に変わるまでずーっと。
舗装でありながらその間、歩道が付くことはなかった。
朝早くから大きなトラックが、風をバラ撒きしながら勢い良く横を走り抜けていく。
「怖い…」
3つ上の兄は近所に同級生が多かったので、いつもズンズン先へと行ってしまう。
私の同級生は学校を挟んで反対側がほとんどで、話しながら歩く友達もいない。
めんどくさいだけの道が、いつしかとても苦痛になって、一度ズル休みをしたこともあった。
途中の橋の下に隠れて沢地の方で時間をつぶしてた。
しかし、所詮小1の浅知恵、当然のごとく家へ電話が入りバレてしまった。
あっというまに見つかって父に学校へ連れて行かれた。
不思議とその後、先生や友だちに聞かれたり、父や母に叱られたという記憶がないのは意外と大事にとられていたからなのかもしれない。
でも、それからは母が道に出て、交差する道にはいるまで見届けていたようだった。
無愛想な道は、足の下に寝そべりながら、相変わらず重荷になっていた。
道を挟んで家の反対側にすぐ校門が見える家。
こんな立地が理想だった。
その時の思いにしてみればね。
それに…いくらなんでも学校が近すぎるし、農家という痕跡があまりしないから教員用の住居だったかも。
戦時中のこの辺りは、軍馬補充部用地だったそうです。
戦後解放されて、復員軍人の帰農により開拓されましたが、人道はほとんど整備されておらず、生活物資の搬入が困難なことと、平坦地もあるものの、丘陵地や山坂が続き耕作に使いづらいこと、極寒の冬の厳しさから地域人口の流失も激しかったらしい。
中学校も併設していましたが
学校は昭和44年に閉校。
現在は校門を残すのみで、校舎を含め当時の面影は極めて少ない。
平坦な景色に飽き飽きしていた私がここに住んでいたら…
廃屋の中で自分の身の上を思い起こしながらあれこれと考えていました。
どこに住んでいたとしても、それはそれで辛かったのかもしれません。
たぶん…きっと…
最近のコメント