2012年2月 5日 (日)

学校前の家

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「家が学校前なら良かったよ…」

02 小学校に通うのが苦痛でした。
別に成績が悪いとか、いじめられてたからでもないし、先生が怖かったわけでもない。
むしろ先生は好きでした。

小学校に上がって始めに通った学校は、家から1㌔ほど離れていて
その道の長く感じたこと。
道の両側には、歩けれども変化の無い畑の風景
数えるのも飽きてしまった電柱
遠くの景色をさえぎるように壁を作る落葉松の防風林…

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大人になってから知り合った北海道外から移住してきた人がこんなのとを言っていた。

「車でいくら走っても景色に変化が無いのはつまらないよね」

0011_2 そう、そのとおりだよ。
広い景色だからって癒されることばかりじゃないと思う。
保育所へ通っていた頃は、父か母が車で送ってくれたから、あっという間に後へ飛んで行く景色のことなんか考えることはなかった。

家の前から大きな幹線までは砂利道だったので、
石ころを蹴とばしたり、薄氷をパリンパリンと踏み歩いたりできたのに
交差する道に入ると途端に無機質な舗装の道に変わる。

学校が街の方と統合になり、スクールバス通学に変わるまでずーっと。
舗装でありながらその間、歩道が付くことはなかった。
朝早くから大きなトラックが、風をバラ撒きしながら勢い良く横を走り抜けていく。

「怖い…

3つ上の兄は近所に同級生が多かったので、いつもズンズン先へと行ってしまう。
私の同級生は学校を挟んで反対側がほとんどで、話しながら歩く友達もいない。
めんどくさいだけの道が、いつしかとても苦痛になって、一度ズル休みをしたこともあった。
途中の橋の下に隠れて沢地の方で時間をつぶしてた。

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しかし、所詮小1の浅知恵、当然のごとく家へ電話が入りバレてしまった。
あっというまに見つかって父に学校へ連れて行かれた。
不思議とその後、先生や友だちに聞かれたり、父や母に叱られたという記憶がないのは意外と大事にとられていたからなのかもしれない。

でも、それからは母が道に出て、交差する道にはいるまで見届けていたようだった。
無愛想な道は、足の下に寝そべりながら、相変わらず重荷になっていた。

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道を挟んで家の反対側にすぐ校門が見える家。
こんな立地が理想だった。
その時の思いにしてみればね。
それに…いくらなんでも学校が近すぎるし、農家という痕跡があまりしないから教員用の住居だったかも。

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09戦時中のこの辺りは、軍馬補充部用地だったそうです。
戦後解放されて、復員軍人の帰農により開拓されましたが、人道はほとんど整備されておらず、生活物資の搬入が困難なことと、平坦地もあるものの、丘陵地や山坂が続き耕作に使いづらいこと、極寒の冬の厳しさから地域人口の流失も激しかったらしい。

中学校も併設していましたが
学校は昭和44年に閉校。

現在は校門を残すのみで、校舎を含め当時の面影は極めて少ない。

平坦な景色に飽き飽きしていた私がここに住んでいたら…

廃屋の中で自分の身の上を思い起こしながらあれこれと考えていました。

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どこに住んでいたとしても、それはそれで辛かったのかもしれません。
たぶん…きっと…

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2012年1月 5日 (木)

ハカセ

「博士」の読みには「はかせ」と「はくし」 ふたつある。
PCの変換では、どちらでも可能。

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それぞれの意味に違いはあるのだろうか?
調べると「はかせ」は、古いどちらかといえば俗的な呼び方で、
「はくし」が本来正式な読み方になるのだそうだ。
でも、元から「はかせ」と読ませるものもあり、どちらが正しいというものでもないらしい。

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032 博士には博士号を持っていて、その筋の(主に科学・化学・医学など)の専門家というイメージがします。

それとは別に“ハカセ”とは呼ばれていますが、専門家の代名詞として、公式ではない博士があるようです。
例えば地元で“漬物博士”と呼ばれているお婆ちゃんや“詩吟博士”の名を欲しいままにするおじいちゃんなど。
そこには「権威」よりも「尊敬」の気持ちがあるように思えます。
 そうするとマニアもまた、ある意味では「博士」でありえるかもしれない。

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『ハカセ』の名を見かけた。
そこに『博士』は意外でしたが、確かに『ハカセ』がいたらしい。
どの分野の専門だったか、この場所から察するのは難しいのですが、宿だったようです。

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北海道の真っ只中。視界の90%が空。そう思えるほど空。
それなのに生きていく日々、いつのまにか足元ばかり見ている。
人が、世界や宇宙に舞台を広げても地上のものであることは変わらない。
口を開けっ放しで見上げるような高い建物も、遙かに高い空に比べれば、地上にへばりつく小さな突起に過ぎないのだ。
そして私たちは突起に翻弄される。

05 突起でしかない高い山の頂に感動や畏怖を感じるのは、人が己の大きさを知り、物事を見失っているわけではないということなのだろう。
人は突起の先端を目指し始める。想像力を駆使して。
想像力は飛べないものを飛ばし、宇宙へも行かせる。
想像力が届くならば宇宙の果てもいずれ必ず見えてくるだろう。
日常の当たり前のようにあるものも、かつては未知なものからが出発点です。
それを解明し、私たちにわかりやすく、身近なものにするのが、すなわち『博士』なんだ。
たぶんそう。そう思う。

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ハカセはどこへ行ってしまったのだろう。

09 宿主が博士だったのか、博士のいた家が宿になったのかもわからない。
小さな一軒家風の…たぶん民宿。
壁のあちこちに落書き…というよりも寄せ書き風の書き込みがたくさんある。
日付からは時代が平成に変わる前あたり。
「とほ宿」とか「ライダー宿」の類だったのでしょう。
“観光”ではなく純粋に“旅”を楽しみたいならそういった宿は良いところです。宿泊料も安いし。

 でも、1人が好きな人やスケジュールが混んでいる人には向かないかもしれない。
夕食後の会話のひと時が意外と膨らんで、気が付くと陽が昇りかけいる。そこからとりあえず仮眠のつもりが寝過ごしてしまいます。

ハカセはどこへ?

ハカセは、きっと研究の旅に出たのでしょう。
ハカセもまた旅人 旅人もまた研究者です。

ハカセは、行き場に迷ったものをまとめる専門家です。
だから「ハカセ」と呼ばれるのです。

親愛を込めて。

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2011年7月11日 (月)

木を植えた男たち

『このままでは十勝の大地は丸裸になってしまう!』

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02  開拓ブームに乗ってどんどん開墾がすすむ大地を前にそんな想いに駆られた人が、この帯広の地にいたそうです。
 おりしも時代は木を植えるよりも木を切り倒さねばならない時代で原始林の樹木は土地を開くために切り倒され、材木やその副産物は暮らしに使われ、役に立たない根は集めて昼夜燃やされて空が真っ黒な煙に包まれていたころもあったと開拓の書には記されている。
 そこに植林を提唱することは狂言としか思われかねない…そんな時代であったことでしょう。ただ、未来を見据えた気持ちは、狂言などではなく的を得た事実には違いなかった。
実際に事が起こってから対処に乗り出すことは現在の世にもたくさんあるものです。

 ともかく時代には、少しばかり早すぎた思想と、時を越えて現在は公園となった場所で空高く伸び上がる大木にはちょっとしたお話がありました…

05  明治31年9月1日、十勝支庁長の移動で新しく赴任してきたのが、諏訪鹿三だった。
新任の諏訪支庁長は着任早々まず管内を一巡、現地視察をした。これはどの支庁長もやることで、ことさら目新しいことではなかったが、彼の目に映ったのは急テンポに進む開拓事業とともに緑豊かな原始林が片っ端から切り倒され、焼き捨てられていく有様だった。
 しかも人々は土地を拓くことばかりに没頭していて誰一人将来のための植林など考えている者はない風だった。

「今は立木がジャマになる時代だから切り倒すこともやむをえないが、このままではやがて十勝に一本の木も無くなってしまう。今のうちに植林のことも考えておかなくてはなるまい」

彼はこう思いついた。やがて年がかわって32年の春が来た。音更の然別で牧場をやっている渡辺勝(※)のところへ支庁長から1枚の葉書が配達された。
その葉書には

『○月○日 植林思想を昂揚するために管内の有名知識人に集まってもらい某所に苗木数本を植えたいと思うのでぜひ出席してもらいたい』

といった意味のことが書かれてあった。

 勝はその日、作男の上村吉蔵をともなって諏訪支庁長の私宅を訪れた。

 支庁長は勝が現れると大いに喜び、部屋に招じ入れ緑化運動の必要性をひとくさりもふたくさりも説き、わが計画の遠大さを風潮した。
 だがどうしたものか昼を過ぎても勝主従のほか、誰も集まってこないのだ。

『どうも先のことのわからぬ連中ばかりのようだ。案内を20通も出したのに…まあ良い!渡辺君が来てくれただけでも運動の成果はあったわけだ。では植林にかかろうか!上村君、そこの庭先のドロ柳の苗を3本ばかり持ってきてくれ』

06 支庁長は上村に苗を掘らせ、それと鍬を彼にもたせ勝とともに植樹地へやってきた。そして3本のドロ柳の苗を等間隔に植え、3人は空を仰いで自分たちの壮挙を自ら自慢し、自分をなぐさめた。
 やがて引き上げる頃になって、もうひとりの参加者があらわれ、この人物も一握りの土を根元にかけ、計4人となったわけだが、この参加者の名前は記録に残っていない。
このささやかな行事が十勝ではじめて行われた緑化運動というべきもので、この時植えたドロ柳は1本が枯れ、2本はいまだ残っている。
旧十勝会館前の広場にいまていていと空を突き、直径2尺ほどのドロ柳の木がそれである。
故上村吉蔵翁遺話/天地人出版企画社『とかち奇談』 渡辺洪著)

(※)渡辺 勝(わたなべ まさる)
明治16年(1883)依田勉三とともに、北海道現在の十勝の海岸部に入植。
晩成社(ばんせいしゃ)三幹部の一人として、活躍。後に、西士狩(にししかり 現在の芽室町)を開墾し然別村(現在の音更町)では牧場の経営に力を注ぎました。アイヌの人々への農業の世話役となって、アイヌの人たちと親交を深め、1896年には第1期音更村会議員に当選するなど、多くの人から信望を集めた。

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 実際のお話は、かなり滑稽な感も否めませんが、これが十勝発の緑化運動にはちがいなかったようです。
 当時あった自然の森の大部分は失ってしまったものの、この想いはやがて継承されることとなり住民の手により都市近郊にも森が作られて植樹や森林愛護の活動は継承されています。諏訪支庁長もさぞや満足なことでしょう。

きっと雲の上から、改めてわが計画の遠大さを風潮しているのでしょう。

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【十勝会館】

昭和3年天皇即位の大典が行われたのを記念するため翌年建設。
宿泊施設と大小の催しや集会などに利用されました。
戦後改造されて利用されていましたが市民会館建設後に解体。
この写真の中のどれかが、その大木であるらしい。

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