2012年1月 5日 (木)

ハカセ

「博士」の読みには「はかせ」と「はくし」 ふたつある。
PCの変換では、どちらでも可能。

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それぞれの意味に違いはあるのだろうか?
調べると「はかせ」は、古いどちらかといえば俗的な呼び方で、
「はくし」が本来正式な読み方になるのだそうだ。
でも、元から「はかせ」と読ませるものもあり、どちらが正しいというものでもないらしい。

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032 博士には博士号を持っていて、その筋の(主に科学・化学・医学など)の専門家というイメージがします。

それとは別に“ハカセ”とは呼ばれていますが、専門家の代名詞として、公式ではない博士があるようです。
例えば地元で“漬物博士”と呼ばれているお婆ちゃんや“詩吟博士”の名を欲しいままにするおじいちゃんなど。
そこには「権威」よりも「尊敬」の気持ちがあるように思えます。
 そうするとマニアもまた、ある意味では「博士」でありえるかもしれない。

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『ハカセ』の名を見かけた。
そこに『博士』は意外でしたが、確かに『ハカセ』がいたらしい。
どの分野の専門だったか、この場所から察するのは難しいのですが、宿だったようです。

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北海道の真っ只中。視界の90%が空。そう思えるほど空。
それなのに生きていく日々、いつのまにか足元ばかり見ている。
人が、世界や宇宙に舞台を広げても地上のものであることは変わらない。
口を開けっ放しで見上げるような高い建物も、遙かに高い空に比べれば、地上にへばりつく小さな突起に過ぎないのだ。
そして私たちは突起に翻弄される。

05 突起でしかない高い山の頂に感動や畏怖を感じるのは、人が己の大きさを知り、物事を見失っているわけではないということなのだろう。
人は突起の先端を目指し始める。想像力を駆使して。
想像力は飛べないものを飛ばし、宇宙へも行かせる。
想像力が届くならば宇宙の果てもいずれ必ず見えてくるだろう。
日常の当たり前のようにあるものも、かつては未知なものからが出発点です。
それを解明し、私たちにわかりやすく、身近なものにするのが、すなわち『博士』なんだ。
たぶんそう。そう思う。

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ハカセはどこへ行ってしまったのだろう。

09 宿主が博士だったのか、博士のいた家が宿になったのかもわからない。
小さな一軒家風の…たぶん民宿。
壁のあちこちに落書き…というよりも寄せ書き風の書き込みがたくさんある。
日付からは時代が平成に変わる前あたり。
「とほ宿」とか「ライダー宿」の類だったのでしょう。
“観光”ではなく純粋に“旅”を楽しみたいならそういった宿は良いところです。宿泊料も安いし。

 でも、1人が好きな人やスケジュールが混んでいる人には向かないかもしれない。
夕食後の会話のひと時が意外と膨らんで、気が付くと陽が昇りかけいる。そこからとりあえず仮眠のつもりが寝過ごしてしまいます。

ハカセはどこへ?

ハカセは、きっと研究の旅に出たのでしょう。
ハカセもまた旅人 旅人もまた研究者です。

ハカセは、行き場に迷ったものをまとめる専門家です。
だから「ハカセ」と呼ばれるのです。

親愛を込めて。

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2011年7月11日 (月)

木を植えた男たち

『このままでは十勝の大地は丸裸になってしまう!』

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02  開拓ブームに乗ってどんどん開墾がすすむ大地を前にそんな想いに駆られた人が、この帯広の地にいたそうです。
 おりしも時代は木を植えるよりも木を切り倒さねばならない時代で原始林の樹木は土地を開くために切り倒され、材木やその副産物は暮らしに使われ、役に立たない根は集めて昼夜燃やされて空が真っ黒な煙に包まれていたころもあったと開拓の書には記されている。
 そこに植林を提唱することは狂言としか思われかねない…そんな時代であったことでしょう。ただ、未来を見据えた気持ちは、狂言などではなく的を得た事実には違いなかった。
実際に事が起こってから対処に乗り出すことは現在の世にもたくさんあるものです。

 ともかく時代には、少しばかり早すぎた思想と、時を越えて現在は公園となった場所で空高く伸び上がる大木にはちょっとしたお話がありました…

05  明治31年9月1日、十勝支庁長の移動で新しく赴任してきたのが、諏訪鹿三だった。
新任の諏訪支庁長は着任早々まず管内を一巡、現地視察をした。これはどの支庁長もやることで、ことさら目新しいことではなかったが、彼の目に映ったのは急テンポに進む開拓事業とともに緑豊かな原始林が片っ端から切り倒され、焼き捨てられていく有様だった。
 しかも人々は土地を拓くことばかりに没頭していて誰一人将来のための植林など考えている者はない風だった。

「今は立木がジャマになる時代だから切り倒すこともやむをえないが、このままではやがて十勝に一本の木も無くなってしまう。今のうちに植林のことも考えておかなくてはなるまい」

彼はこう思いついた。やがて年がかわって32年の春が来た。音更の然別で牧場をやっている渡辺勝(※)のところへ支庁長から1枚の葉書が配達された。
その葉書には

『○月○日 植林思想を昂揚するために管内の有名知識人に集まってもらい某所に苗木数本を植えたいと思うのでぜひ出席してもらいたい』

といった意味のことが書かれてあった。

 勝はその日、作男の上村吉蔵をともなって諏訪支庁長の私宅を訪れた。

 支庁長は勝が現れると大いに喜び、部屋に招じ入れ緑化運動の必要性をひとくさりもふたくさりも説き、わが計画の遠大さを風潮した。
 だがどうしたものか昼を過ぎても勝主従のほか、誰も集まってこないのだ。

『どうも先のことのわからぬ連中ばかりのようだ。案内を20通も出したのに…まあ良い!渡辺君が来てくれただけでも運動の成果はあったわけだ。では植林にかかろうか!上村君、そこの庭先のドロ柳の苗を3本ばかり持ってきてくれ』

06 支庁長は上村に苗を掘らせ、それと鍬を彼にもたせ勝とともに植樹地へやってきた。そして3本のドロ柳の苗を等間隔に植え、3人は空を仰いで自分たちの壮挙を自ら自慢し、自分をなぐさめた。
 やがて引き上げる頃になって、もうひとりの参加者があらわれ、この人物も一握りの土を根元にかけ、計4人となったわけだが、この参加者の名前は記録に残っていない。
このささやかな行事が十勝ではじめて行われた緑化運動というべきもので、この時植えたドロ柳は1本が枯れ、2本はいまだ残っている。
旧十勝会館前の広場にいまていていと空を突き、直径2尺ほどのドロ柳の木がそれである。
故上村吉蔵翁遺話/天地人出版企画社『とかち奇談』 渡辺洪著)

(※)渡辺 勝(わたなべ まさる)
明治16年(1883)依田勉三とともに、北海道現在の十勝の海岸部に入植。
晩成社(ばんせいしゃ)三幹部の一人として、活躍。後に、西士狩(にししかり 現在の芽室町)を開墾し然別村(現在の音更町)では牧場の経営に力を注ぎました。アイヌの人々への農業の世話役となって、アイヌの人たちと親交を深め、1896年には第1期音更村会議員に当選するなど、多くの人から信望を集めた。

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 実際のお話は、かなり滑稽な感も否めませんが、これが十勝発の緑化運動にはちがいなかったようです。
 当時あった自然の森の大部分は失ってしまったものの、この想いはやがて継承されることとなり住民の手により都市近郊にも森が作られて植樹や森林愛護の活動は継承されています。諏訪支庁長もさぞや満足なことでしょう。

きっと雲の上から、改めてわが計画の遠大さを風潮しているのでしょう。

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【十勝会館】

昭和3年天皇即位の大典が行われたのを記念するため翌年建設。
宿泊施設と大小の催しや集会などに利用されました。
戦後改造されて利用されていましたが市民会館建設後に解体。
この写真の中のどれかが、その大木であるらしい。

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2011年4月18日 (月)

丸く小さな廃墟の話

Maru

 帯広の東5条の根室本線にある踏切から、札内川鉄橋にかけての一帯は自殺の名所である。根室本線が開通して以来ここで命を絶った数はかなりのものだが、その他にこの鉄橋が帯広と札内市街を結ぶ最短距離であることから事故にあって死んだ人も少なくない。
 こうした条件がそろうと、おそかれはやかれ怪談の名所ともなるわけだが、ここも帯広の怪談名所のひとつである。

Tekkyou

 ここに現れる幽霊はザクザクと砂利を踏む足音で姿は見えないのだが『幽霊には足がない』という定説をくつがえしているところに特徴がある。
 戦後もいろいろなうわさが立ったが、一番はなやかだったのは昭和10年頃だったそうだ。近所のひとの話によると終電車が通り過ぎ、本当の真夜中ころになると根室本線の上をザックザックと通り過ぎていく足音が聞こえるという。そして1人が通り過ぎてしまうと、また1人が、そしてときには5人10人と一定の間隔をおいて足音の聞こえてくる夜があるという。そしてそのほとんどの足音が帯広のほうへ向かってあるいていゆくというのだ。

Bluered  そのころ。帯広に来て間もない恋人同士が、何も知らずに別れを惜しみ終電車のすぎたあとの根室本線の上を鉄橋へ向かって歩いていた。
星の一つもなく、雨がやって来そうな暑い夜だった。
と、こんな夜ふけなのに札内川の鉄橋の方から誰かが、ザックザックと歩いてくるのだ。

『だれだろういまごろ』

 暑くなっているところへ水をさされたような不快さを感じながら、2人が口をつぐんだとたん足音は鉄道の砂利の上からそばの草原にそれ消えてしまった。

『気持がわるいわ』

 女の方が男によりそったとき、また別の足音がザックザックと近づいてくるのだ。そして今度も2、30メートル前までくると草原にそれて消えていった。
足音がそれると、またつぎの足音がザックザックと近づいてくる。
若い2人は、きびすを返すと一目散にいまきた道をかけ出していた。

 そのうちにこれと同じ足音を聞いたという風来坊も出てきたりして、夜ここを通る人はほとんどなくなった。そしてそれから間もなく『きっとここで死んだ連中が、行くところへ行きつけず帯広のネオンが恋しくなって出かけてくるのだろう』と、もっともらしく言いだす者が増えはじめていた。
 『とかち奇談』 より 「足のある幽霊の列」 (渡辺 洪 著  天地人出版企画社 昭和54年発行)

Kawamo  

現在も運行されている根室本線は、十勝の中心都市「帯広」と隣町、「幕別町」の間を流れる清流「札内川」を渡る。
そこを渡る鉄橋が、このお話の舞台です。

今も徒歩で川を渡るには、数㌔上流か、下流の橋を渡らなければならない。
当時は、下流の橋1本。帯広の街からほろ酔いで帰宅する隣町の人は、手っ取り早く鉄橋を渡ろうとしたこともあったのでしょう。

Katamari  幽霊話が、実際のことか、事故を戒めるための都市伝説か、それも今となっては測ることはできません。
 現在の鉄橋も当時のものではなく、レンガ積みの橋脚だったようですが、すぐ脇にコンクリート製のものに立て替えられ、話の真意を知っていたであろう初代橋脚は引退、
解体されたようでしたが、その後川原に変った感じの玉石が散乱することとなります。やけに目立つ真っ赤な石。塊によってはレンガ積みの目地まで残っている。

この怪談話を知るまでは、上流にレンガ製の建物でもあったのかと思っていましたが、どうやらそれが橋脚の名残のようです。
 以前は、鉄橋の近くにそのときの土台らしきものも見えていたけれど、今年の春は、まだ川の中のようでした。

Rever

レンガのひとつひとつが固まって大きな力になる。
それは既にレンガではなく、大きな力を持つ柱。
その柱が、再びバラバラになったとき、始めのレンガに戻ったかというと…
決してそうではなく、存在意義とともに自分さえも見失っているかのようだ。

だけどギザギザになったその身も
年月は丸く変えていくもののようだ。

そう考えると
人の作るものは、人の鑑でもあるように思えました。

Brick

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